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梅雨明け

 投稿者:古澤文博  投稿日:2021年 7月17日(土)21時37分57秒 softbank126058204058.bbtec.net
返信・引用
  東海地方も梅雨明けになりました。いよいよ東京オリンピックが開催されますが何だかピントきません。
そんなコロナ渦の中、愛知県愛西市(旧立田村)森川の蓮田に行ってきました。大きな蓮の花が咲き蓮の葉の中からのぞいたり夏空に向かって咲き誇っていました。
これから夏本番になります。皆さん夏バテしないようにオリンピックをテレビ観戦で過ごしましょう。
 
 

三河のあじさい寺

 投稿者:古澤文博  投稿日:2021年 6月27日(日)21時40分24秒 softbank126108247053.bbtec.net
返信・引用
  紫陽花もそろそろ終わりになってきました。愛知県幸田町大字深溝(JR東海道線三ヶ根駅東方300m)にある曹洞宗瑞雲山本光寺に行ってきました。ここは三河のあじさい寺として広く知られています。
本光寺は島津藩主深溝松平家墓所で、開山は初代となる松平忠定公が大永3年(1523年)に建立され、現在国の史跡に指定され今日に至っています。
6月には山門に至るまでの参道の両側・境内は約1万本のあじさいが咲き誇り、白い壁と朱塗りの山門、山門の道栄書といわれる瑞雲山の文字が一体となって見事な景色を作り出しています。また東廟所は19代(昭和9年)までの墓石が並んで周りに紫陽花が咲いていました。
 

日本の街道歩き〔81〕飛騨街道③

 投稿者:小林 潔  投稿日:2021年 6月25日(金)23時02分7秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
返信・引用
  【小 坂】 国道41号を北に向って歩くが右側が山、左側が飛騨川の山間部を歩くと、石飛バス停の先で国道から分れ細い旧道に入る。そろそろ小坂ダムが見える頃かなと思うが、道が川沿いから遠ざかるので、見る事は出来ないかと諦めかけたら、中部電力の建物があり、その敷地内に入って行った。すると職員の人が「こんにちは」と言ってくれたので入っても大丈夫と思い川岸まで近づくと昭和5年に建設された小坂ダムが見えた。前日の雨で水量が多く、勢いよく放流されていたのが圧巻であった。
 写真を撮ってから街道に戻るが、国道は高い位置の山腹を走っており、旧道は川沿いの道で車も人も通らない寂しいルートである。しばらくすると小坂の町が見えてきて、きこり大橋に着く。そこから100mほど上流で飛騨川の支流の小坂川が合流する。そこに朝六橋が架かっているが歩道は少し離れた所に幅1mくらいの独立橋となっており、高所恐怖症の私ではとても渡れないので車道を走って渡った。そこには「朝六の碑」が立っていた。江戸時代の享保年間に飛騨代官の長谷川庄五郎忠崇が架けた橋であるが、その名の由来は闇夜でも透明な水が「明六つ」(午前6時)の明るさを呈するところから名付けられた。
 そこから小坂町の中心部に入り、小坂町商工会、浄福寺、小坂小学校を通って大垣内(おおがいと)公民館に着く。時刻は11時頃であったので、ここで弁当を食べた。そのあと大垣内から無数原(むすばら)を経て門坂で国道に合流するが、小坂久々野トンネルの手前で右折して旧道に入る。松尾の集落を過ぎると下呂市から高山市に入る。
【 渚 】 飛騨川は、かなり上流地域となり川幅が少し狭くなってきた。渚橋を渡ると小坂久々野トンネルから出てきた国道と再び合流するが歩道がないので危険な道である。すると左手にラーメン屋があり、その奥に「女男滝公園」がある。
 天明3年(1783年)に始まった「天明の大飢饉」が全国に及び、ここ渚村でも多くの人が餓死して、男が一人だけ生き残った。その男は、この滝の上流で耕作していると何処ともなく一人の美女が現れて因縁あって結ばれ多くの子宝に恵まれたと言う。その後、婿取り、嫁取りを重ねて数多くの子孫が増え、衰微した村は繁栄したと言う。この事から滝に祈願すると縁結び、子宝のご利益があると広まり、近隣から、この女男滝の参拝者が増えたと言う。滝は二段に分かれており、上段が女滝、下段が男滝で、冬の氷結がとても美しいと言う。岐阜県の名水50選に指定されている。
 滝から1kmほど北へ行くと八幡神社があり、ここで国道から分れて細い旧道を進むと飛騨川に架かる片篭橋に着く。その近くにJ R渚駅の無人駅がある。暑くて汗をいっぱいかいていたので、駅前の自販機で冷たいジュースを買って一気飲みした。
 再び国道に合流し、小原橋、道の駅・飛騨街道なぎさ、長淀橋を渡ってひたすら川沿いの道を歩く。木賊洞(とくさぼら)の洞門を越えてしばらく行くと「ドライブイン峠屋」があるが、その付近には峠はなく、ただの古ぼけた小さな売店であった。
【久々野】 街道は山合いから平地に変り、家屋がまばらに見えてきた。右手に小さな小坂ダムが見えてきたが、ここは久々野の町に入っているのに、何で小坂なのだろうか不思議が多い。新緑の美しい景色を眺めながら引下(ひきさげ)、船渡(ふなと)を過ぎると、小さな久々野発電所が見える。そこから1kmほど進むと大原山トンネルがあるが、街道はその手前で右折して久々野の町に入る。そして飛騨川の支流である無数河川(むすご)に架かる城下橋を渡ると中心街に入る。道筋には古い旅籠や連子格子の屋敷が並び、宿場町の面影が残っている。まもなく高山市役所久々野支所を過ぎるが、この先の久々野小学校の西側を通る街道が消滅しているので国道41号を歩くしかない。
 まもなくJ R久々野駅に到着するが、列車の発車時刻まで1時間ほどあったので、駅から徒歩10分の縄文時代の堂之上遺跡(どうのそら)まで行き見学した。この遺跡は明治時代から古代の遺跡らしきものがある事は知られていたが、昭和47年、久々野中学校の郷土クラブ員により遺跡が発見されたので、岐阜県教育委員会による本格的発掘調査が実施された。場所は飛騨川と八尺川の合流点の小高い舌状台地に広がる岐阜県下最大規模の集落跡で縄文前期から末期頃(5500年~4000年前)の竪穴住居跡43件がほぼ完全な姿で発見され縄文土器、石器、土製品なども大量に発見された。幸いにも縄文時代から現代に至るまで地形の変化を殆ど受けず、典型的な縄文時代集落跡として学術的評価が高く、昭和55年に国の史跡に指定された。
 遺跡の見学を終えて駅へ向う途中、予想外の雨が降り、傘を差して歩いた。ここで6日目の街道歩きを終え、一旦自宅へ帰り7日目は5月23日にこの久々野駅からスタートした。
 ここで駅から歩いて5分ほどの「三桝屋旅館」へ立寄った。今から50年ほど前の昭和45年に、大学のゼミ合宿勉強会(経済地理学)で1週間、滞在した懐かしい旅館である。毎日9時から17時までゼミ生10名ほどで勉強会をして、夜は飲み会とマージャンをした。ある日、突然の大雪が降ったので半日、舟山スキー場で遊んだ事もあった。旅館の建物は建替えられたが旅館の名前は「お宿、三桝屋」と表示してあった。
 さて天気は快晴で朝から暑さで汗が出始めた。街道は宮峠を目指して登り坂となり、八尺川沿いに北上する。坂道の途中には、もだに農園、堤果樹園、平田果樹園などがあり、しばらくすると、J Rの線路が宮トンネルに入る。街道は月見平付近で直進する国道のトンネル手前から右斜めの道へ入る。私の持っていた地図は2019年作成で、このトンネルは表示してないのでトンネルの存在はまったく知らなかった。つい最近、完成したようだ。
 宮峠の登り坂を汗をかきながら歩くと、宮峠辻に着く。あたりには、まばらに家が散在している。宮峠辻バス停のベンチで水分補給して、しばし汗をぬぐう。宮峠の標高は782mで飛騨街道最大の難所である。ところが車はまったく見かけない。
【一之宮】 この宮峠は昔、高山へ観光に行った時、車で通った事があり、通行量が多かったのを記憶している。しかし不思議なほど車を見かけない。高山への往来は新しい宮峠トンネル(長さ1863m)を利用するので気味が悪いほど静かで何か獣でも出てこないかと思うほどである。
 汗をかきながら、時々、水分を補給しつつ、ヘアピンカーブの坂を下ると、トンネルの入口が見え新しい国道と合流する。しかし道路の付替えが行われているので私の地図と現地は合致せず、スマホのグーグルマップで現在地を確認した。ようやく飛騨一之宮(飛騨で一番格式の高い神社)の水無神社(みなし)に到着する。
 神社のまえに古い道標がある。「左・宮峠道、右・位山道」と表示してある。位山道とは律令時代に飛騨から都へ向う官道であり、東山道飛騨支道である。飛騨一之宮から苅安峠と位山峠を越えて上呂へ抜ける古い街道である。しかし山深い道で難儀が多かったため、戦国時代に飛騨高山の城主、金森長近が宮峠を越えて飛騨川沿いのルート(現在の国道41号筋)を開くと位山官道はすたれてしまった。その追分が水無神社の前の三差路である。
 水無神社は南西方向にある位山(標高1529m)を神体山としており、境内には大杉が何本も立っている。太平洋戦争の末期頃、戦争が激しくなり名古屋が空襲を受けるようになったので、熱田神宮のご神体が昭和20年8月22日から9月19日まで水無神社に一時避難した経緯がある。
 この神社でちょうど昼時となったので境内で弁当を食べたがコロナ禍のため参拝客は僅かしか見かけなかった。食後は狭い旧道を歩き、ローソン一之宮店の角で国道に合流し一気に通行量が多くなった。街道は宮川沿いに続くが、これまで飛騨川は北から南の太平洋に向けて流れていたが、宮川は南から北の日本海に向けて流れている。先程の宮峠が分水嶺となっている。
 街道は臥龍温泉の前を通るがコロナ禍のため駐車している車は少なかった。国道は大型オートバイのグループが爆音を上げて猛スピードで走っている。しばらく山合いの景色の良い谷間を歩くが、境谷を過ぎると山が開け、高山の町が見えて来た。
【高 山】 石浦地区に入るとコメリ、スギ薬局、ゲンキーなどの大型店が並び、通行人も多くなった。速入寺と言う立派なお寺を過ぎると山王橋付近で国道41号から分れ、人けの少ない旧道に入る。宮川沿いに赤岩町、千鳥町を通り、暫くすると松本住宅に着く。明治8年に高山で大火があり、二之町で出火した火災は三町、寺内町、八幡町、鉄砲町など高山の中心部1032軒が焼失したが、松本家は奇跡的に類焼を免れ現存している。昔は薬種商や金貸し業を営んでいたが、現在は歴史史料館として無料開放され国の重要文化財に指定されている。
 その近くに高山祭に繰り出される山車の収蔵庫のうち、「大国台」と「青龍台」がある。街道はまもなく高山陣屋に到着する。元々は高山藩主、金森氏の下屋敷であったが元禄5年(1692年)飛騨が幕府直轄地となると、幕府代官所となった。その後、安永6年(1777年)以降は飛騨郡代役所となり、明治維新後は筑摩県高山出張所となった。現在は国の史跡に指定され有料で見学ができる。ここはコロナ禍でも意外と見学者が多かったが陣屋の前では、高山名物の宮川朝市と並んで陣屋朝市が毎日開かれるがコロナ禍で中止されていた。
 陣屋で写真を撮ったあと、飛騨街道のゴールである欄干の赤色が鮮やかな中橋へ着いた。ここは人がまったくいなくて写真が容易に撮れた。橋を渡って有名な高山の古い町並みである三町筋を歩くが、観光客は私の予想より少し多く、外国人もチラホラ見かけた。その町角にある売店で、90円のみたらし団子と230円の五平餅を売っていたので、五平餅を買ったがとても美味しかった。
 そこから更に奥へ進むと日下部民芸館があったが、コロナ禍のため臨時閉館となっていた。宮川に架かる弥生橋を渡り飛騨国分寺へ行ったが観光客は数人しかいなかった。国分寺は天平13年(741年)聖武天皇の詔勅により全国に建設が始まった。飛騨は天平勝宝9年(757年)行基によって建立された。弘仁10年(819年)火災で焼失、再建されたが、戦国時代の天正13年(1585年)金森氏と姉小路氏の合戦で又も焼失した。江戸時代の元和元年(1615年)に再建されるが、現在の三重塔は文政3年(1820年)に建設されたものである。
 ここで最後の街道写真を撮っていると、住職が運転する軽四乗用車が境内へ入ってきたが、車をバックする時、ベンチにぶつけてしまった。私はこの事故を一部始終、目撃したが今、流行のアクセルとブレーキを間違えたようだった。でも自損(ベンチは寺の所有物)だけで済んだので不幸中の幸いであろう。さて7日間かけて美濃太田から高山まで飛騨街道を歩いてきたが、ゴールの喜びと安堵感そして達成感を噛みしめながら高山駅へ向った。
 

日本の街道歩き〔80〕飛騨街道②

 投稿者:小林 潔  投稿日:2021年 6月16日(水)22時30分14秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
返信・引用
  【金 山】 街道を歩いていると、道端に「けもの注意」の表示があり、熊や鹿のシルエットが描かれてあった。こんな所に獣が出没するのかと少し緊張する。しばらくして右手に七宗ダムを見る。このダムは大正15年に建設されたが、ダムの高さが11mしかなく、河川法上15mに満たない提高はダムに分類されないのでダム便覧から除外される。金山町なのに「七宗ダム」とは理解できなかった。金山町に入り井尻を過ぎた頃、小雨がパラついたが傘を差すほどでもなかった。少し先に立派な三輪神社があったので参拝した。創建は室町時代の永正年間(1515年頃)で本殿の石垣は三輪にちなんで三つの輪の石積みとなっている。
 金山中学校の近くの三差路で国道から外れ狭い旧道に入るとまた三差路がある。西からきた道は、飛騨西街道と言って岐阜の加納宿で中山道から分岐し、芥見、小瀬、関、下之保、津保川、上之保を経て金山宿に入るルートである。この金山の追分で私が歩いて来た飛騨南街道と合流し、一路、高山へ向う一本の街道となる。狭い道を北へ進むと柯柄八幡神社(えがら)がある。応永18年(1411年)に姉小路氏が起こした飛騨の乱のあと、鎌倉荏柄天神(えがら)の分霊を八幡社に合祀し柯柄八幡宮と称した。
 そこから十王坂、観音堂を通って金山宿の中心街に入る。古い連子格子の建物や土塀が並び宿場の雰囲気を醸し出している。その宿場の中に享保5年(1720年)創業の有名な「奥飛騨酒造」があり、写真を撮っていると急に本降りの雨となった。酒蔵の軒下で20分ほど雨宿りして、また歩き出した。金山には昭和のレトロで有名な「筋骨めぐり」がある。道幅が1mほどの路地で家屋や渡り廊下がせり出して迷路のようになっている。しかし時間がなく少し見ただけで先を急いだ。
 馬瀬川に架かる境橋を渡り子守地蔵を参拝して川沿いに歩くと馬瀬川が飛騨川に合流する。このあたりは江戸時代に精密な日本地図を作成した伊能忠敬が歩いたと説明書きしてあった。まもなく昭和4年に完成しラジアルゲートが11門も付いている大規模な大船渡ダムを見る。堤高が12mしかないのでダム扱いされない。魚道も付いていて堤上は車が通行できる生活橋である。その堤に美しい躑躅が咲き誇り癒された。
 しばらく進むと「下原の渡し」跡があり見学する。江戸時代、18人乗りの渡し船があり、記録によると文政10年(1827年)の渡し賃は武士は無料であったが、百姓町人は8文(約100円)であった。明治34年に吊橋が架設されると廃止となった。この近くには「もみじ寺」として有名な玉龍寺があるが、街道からかなり離れているのでパスした。
 街道は中切の集落に入ると、御番所屋敷跡、三千人塚、中切舟橋跡、下原口留番所跡(くちどめばんしょ:小規模な関所)など史跡が多い。この集落の中の中切公民館で弁当を食べた。再び歩きだすと私と同年配の男性が「どこまで歩くの?」と尋ねたので「高山まで」と言うと、帽子を取って「それはご苦労様」と言って敬意を示してくれたので嬉しかった。更に進むと下原発電所の近くに古い吊橋があり、中山七里の説明板があった。金山町から下呂の三原地区まで28kmに亘って奇岩怪石、急峻な山々など美しい自然が広がり、見ごたえのある景色が続く。
 中山七里の名称は、豊臣秀吉の家来で飛騨国の大名であった金森長近が5つもの峠を越える旧道が不便なことから、天正14年(1586年)秀吉の許しを得て、飛騨川沿いの難所を七里に亘って切り開いた事による。街道は地蔵野洞門や中切洞門をくぐって進むが、国道には大型のオートバイが列を作ってビュンビュン走っている。中には長い髪を三つ編みにして黄色いマフラーをなびかせる女の子もいた。その先には昭和13年に建設された高さ23mの下原ダムがあり、水が満々と貯えられていた。その川面の色がエメラルドグリーンで、新緑とのコラボが美しく疲れが癒された。このあたりでも「けもの注意」の標示があり、今度は猿のシルエットが描かれていた。
【焼 石】 街道は三ツ渕の集落に入り、三ツ渕公民館で休憩をし水分補給と汗をぬぐった。その先に長さ600mほどの三ツ渕洞門があり、川岸に出っ張った取付歩道を歩くが高所恐怖症の私に取っては怖さで足を震わせながら進んだ。途中、洞門の上から滝のような水が流れ落ち、さらに恐怖心が増し、衣服が水しぶきで濡れてしまった。やっと洞門が終わると前方に中原大橋が見え、またも苦手な橋かと思いきや広い歩道があり、安心して渡る事が出来た。
 道は山の中に入りウグイスの声が聞こえ、気持ちが安らいだ。まもなく焼石駅に到着し、この日も列車が来るまで手持ちの焼酎を飲みながら汗をぬぐった。ここで一旦、多治見へ戻り4日目は5月12日にこの焼石駅から出発した。焼石の集落は小さく、中原郵便局、中原小学校を過ぎると中山橋を渡り国道41号と合流するが直ぐに旧道に入る。このあたりは瀬戸の集落で土蔵など古い家並みの中を歩く。八幡神社で写真を撮ったあと、再び国道に入り川沿いを歩くと、紅葉で有名な「孝子ヶ池」に着く。ここには昔からの伝説がある。近江出身の門原左近と言う人が母親と二人で住んでいたが、とても親孝行者であった。ある時、母親が重病に罹り息絶え絶えで「生れ故郷の琵琶湖の水が飲みたい」と言う願いを聞き、直ちに近江へ出かけ琵琶湖の水を汲んで帰る途中、この地で母親の死を知らされ、落胆のあまり水をこぼし泣き伏してしまった。その時、こぼれた水が池となり、今に残る孝子ヶ池になったと伝えられている。
 その近くの小さな瀬戸発電所を過ぎると国道は道路工事で片側通行となっていた。そこで赤白の旗を振っていた40歳代の女性ガードマン(ウーマンかな)が思いのほか美人でスタイルが良く、どうしてこんな仕事しているのか不思議に思った。しばらく先に進むと久野川口バス停の近くに羅漢岩が川の対岸に見えた。明治時代の哲学者、井上円了が富山へ向う途中、この岩を見て「十六羅漢が雲上から降りてきたようだ」と評して中山七里の中で最も墨画的な景勝地と言われるようになった。そこからしばらく進むと、また道路工事で一方通行となっていた。そこにいた現場監督のような人が「おじさん!どこまで歩くの?」と聞くので「高山まで歩きます」と言うと「高山に着く頃にはスリムな体型になっていますよ」と揶揄され苦笑いするしかなかった。
 まもなく保井戸の宿場に入り門原トンネル、門原神明神社を過ぎた頃、また工事現場に差し掛かると、今度は60歳代の女性ガードマンが同じような質問をしてきたので、同じように返事すると「それは感心なことだ。気を付けて歩くんだよ」と声をかけてくれた。その先に「ドライブイン飛騨川」があったが廃墟となっていた。川の対岸を見ると新しそうな山の崖崩れが見えた。この辺りはかなり危険なルートと感じた。門原洞門を過ぎると飛騨川に架かるサビまるけの吊橋を見た。幅が70cmほどの歩行者専用の吊橋だが通行止めとなっていた。さらに国道を北上すると釣鐘洞門をくぐり下呂市浄郷園と言う廃棄物処理場のような公園で休憩した。
 その先の七里橋は歩道が無く車道も幅が狭い橋である。しかも橋桁が高く、私にとっては地獄の橋である。怖いので橋の真ん中を歩き大型トラックを停車させてしまった。するとその運転手は私が橋を怖がっているのを察して、手で誘導してくれた。親切な運転手に感謝して頭をペコペコ下げた。しばらく川沿いの国道を歩くと不動橋と言う大きな橋があり、又かと嫌な気分になったが幅が3mもある歩道がついており安心して渡った。ちょうどその頃、昼時となったので道端のコンクリートブロックに腰掛けて弁当を食べたが、付近は鬱蒼とした樹木が生い茂っているので獣の出没を恐れて15分で食べ終え先に進んだ。
【下 呂】 街道は帯雲橋の手前の三原の交差点に到着する。真っ直ぐの道は国道41号で下呂の市街地に入る。右折は国道257号で裏木曽街道を通って中津川へ行く道である。飛騨街道は、ここから少ヶ野峠を越えるルートに入るところだが、峠道は消滅しているので左折して少ヶ野トンネルをくぐる。長さは700mほどあり歩く人はまったくいない。トンネルを抜けると「下呂湯けむりの森」へ行く道標を見ながら住吉神社を通過する。まもなく濃飛バス下呂バスセンターあたりから下呂富士が見えてくる。
 飛騨川の右岸から下呂の市街地へ入るには昭和6年に架けられた六見橋を渡る事になる。汗をかきながらやっと六見橋に着くと、考えられないアクシデントに見舞われる。何と橋が工事中で「全面通行止」の表示板が掲げてある。これを迂回するとなると、上流1kmに架かる橋まで行かなれればならない。アーチ型の橋でペンキの塗替え工事である。何とか強引に渡れないかと橋のたもとまで行くと、小さな字で「歩行者通行可」と書いてあり胸を撫で下ろす。だったら「全面通行止」の大きな表示は誤りである。何はともあれ橋を渡って市街地に入るが、この橋の近くに昔の「塚田の渡し」があった。そこに昭和3年、野口雨情が下呂温泉を訪れた時「六ツ見橋ゆきや 暑さは志らぬ 涼しい風 そよそよと ……」と歌う下呂歌謡を作詞した碑がある。
 市街地に入ると延命地蔵(首なし地蔵)があり、手を合わせる。昔、高山の代官がここを通った時、ふざけて地蔵の首を斬り地中に埋めたが、高山へ帰ってから家族全員が重い病気に罹ったため「悪い事をした」と反省し、元の位置に地蔵を安置したと言い伝えがある。下呂の中心部に向う途中、水無八幡神社を参拝する。神社の祭事として毎年2月に若者が色とりどりの花笠を付けて踊り歩く行事があり、飛騨路に春を告げる祭りである。そこから数分で白鷺橋に着く。下呂温泉の歴史は古く天暦年間(950年頃)に源泉が発見されたが、そのキッカケは白鷺が導いてくれたと言う。下呂温泉は草津温泉、有馬温泉と共に天下三名泉として全国に紹介したのが室町時代の高僧、万里集九である。また江戸時代にも儒学者の林羅山が良質な温泉地であると高く評価し、さらに全国にその名が知れ渡った。なお下呂の地名は律令制度の奈良時代には「下留」と言う漢字で表記されていたが、後に「下呂」に改められた。
 この辺りは下呂温泉の中心街なので本来ならば観光客でごった返す場所であるが、コロナ禍のため人が歩いていない。老舗ホテルの小川屋や水明館は宿泊者がゼロで寂しい限りである。人がいない温泉街を散策し温泉神社を参拝してから加恵瑠神社(カエル)も訪れた。この神社は平成22年、下呂の「ゲロ」にちなんで、ネーミングと「無事帰る」の語呂合わせのユーモア、縁起担ぎ、ご利益を楽しむスポットである。この近くに下呂の湯之島宿の史跡を説明する石柱が立っている。「湯之島宿本陣、飛騨屋武川久兵衛宅跡、文化11年伊能忠敬測量宿泊跡」と記してある。
 散策を終えて下呂大橋を渡り下呂駅に着いたが、人がいない。高山本線の特急ワイドビューひだ号に乗車したのは自分を含めてたった二人だけであった。ここで一旦、帰宅し街道歩き5日目は5月14日に下呂駅からスタートする。阿多野橋から西へ向い、飛騨街道の下呂の宿場町「湯之島宿」の木戸をくぐりると、道標が立っている。飛騨街道と南北街道の追分である。南北街道は裏木曽街道とも言い下呂から中津川までの街道で私は平成29年に3日かけて歩いている。
 さて下呂温泉博物館の前を通り、やがて郊外に出る。春のさわやかな風に押されて気分よく歩く。飛騨川沿いの道は歩道は付いているが川にせり出し不安定な感じの歩道であるので高所恐怖症の私にとっては嫌な道であった。まもなく下呂温泉北口の交差点に着くと下呂トンネルから出た国道41号と交差するが、旧道は山寄りの登り坂に差掛かり汗が止めどもなく流れる。やっとの事で坂を登り切ると東上田口バス停で休憩し、水分補給と飴を頬張る。山腹にある東上田の集落に街道は通っているが、なぜ飛騨川沿いの平坦な道ではなく、こんな山中ルートなのか不思議に思った。途中、江戸時代から続く奥田接骨院の古い屋敷や東禅寺、東上田分校跡を通り、今度は下り坂に変る。のどかな田舎道を歩いていると軽四トラックに乗った電器店の人が「気を付けて~」と言ってくれた。また、入り組んだ道に迷ったので田植えをしていた農夫の方に尋ねたら親切に教えてくれた。坂を下ると国道41号と合流し、目の前に瀬戸ダムを見る。保木口の交差点付近に「飛騨街道、益田街道 跡」と言う道標があった。
【禅昌寺】 街道は飛騨川沿いの道を歩き、下呂洞門に差掛かる。ここも歩道は付いているが、車が通ると振動するので恐かった。しばらくすると右折する細い道がある。これが旧道ルートである。家がまばらな田園地帯を進むと立派な寺院が見えてくる。これが由緒ある禅昌寺であり、J Rの駅名にもなっている。
 禅昌寺は亨禄元年(1528年)飛騨萩原の桜洞城主、三木直頼によって創建され円通寺と称した。後に天文23年(1554年)に後奈良天皇から「十刹」の綸旨が与えられ、その後、寺号を禅昌寺と改め臨済宗妙心寺派の名刹となる。この三木家と恵那の岩村遠山家は親戚関係にあり、禅昌寺の初代住職が岩村の大円寺の住職を兼ねていた。境内には立派な大杉と美しい日本庭園がありウットリする。この寺の駐車場で昼食弁当を食べた。
 食後、北へ向って歩くと六所神社にも大杉が立っていた。更に進むと銀花荘に着く。「銀花」とはスイカズラ(つる性植物)の事で5月から7月にかけて甘い香りがする花を咲かせるそうだ。この名前を取った銀花荘は旧千田家邸宅で、伝統的な益田造りを今に伝えて国の登録有形文化財に指定されている。街道は中呂郵便局を過ぎ萩原町に入る。
【萩 原】 花池南の信号で国道257号と交差し、左折すると馬瀬(まぜ)へ行く。街道は直進しケーズデンキ、ローソン、バローなどの店舗を通過する。街道筋には花池天神があり、下呂唯一の学問の神様である。飛騨川はこのあたりでは益田川と呼ばれ、益田橋を左手に見ながら進むと十王堂、妙覚寺を通り中心部に至る。
 しばらく歩くと高台の上に諏訪神社が立っているが、石垣と堀に囲まれた広い境内を持つ。諏訪神社は鎌倉時代の嘉暦2年(1327年)に創建されたが、戦国時代に入り、豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨を支配していた三木氏を滅ぼし、天正13年(1585年)ここに諏訪城を築城する。しかし江戸時代に入り金森氏は高山城を本城とし、萩原の諏訪城を支城としていたが、元禄5年(1693年)に出羽の上山(山形県)に転封され、天領(幕府直轄地)となって廃城となる。その後、宝永6年(1709年)に元の諏訪神社が124年ぶりに復活し現在に至っている。私が訪れて見た時は、神社の周囲は石垣と堀に囲まれ、保存状態は良好であった。萩原の町中を歩くと道標に「飛騨街道萩原宿」と表示してあった。
 萩原小学校を過ぎると郊外に出るが朝霧橋の近くに桜谷公園があり、その山の上に桜洞城跡がある。そこから街道は高山線に沿って北上するが、途中にJ Rの新型車両の走行を見た。クリーム色のスマートなデザインの車両で「試運転」と表示してあった。街道はまもなく左手に飛騨川公園、右手に久津八幡宮が見えてくる。飛騨川公園は飛騨川の河川敷にあり、スポーツ、ピクニック、バーベキューなどの利用が出来る。久津八幡宮は飛騨国の二之宮とされる社格である。一之宮は宮峠を越えた水無神社である。仁徳天皇65年(377年)、武振熊命がこの地に応神天皇を祭祀したと伝えられている。
 その後、平治元年(1159年)源義朝の長男、源義平(源頼朝の兄)がこの地を訪れた時、鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請して本殿が創建された。この本殿にある彫刻「水を呼ぶ鯉」は近くの益田川の水を呼び寄せ洪水を起こすので「矢の彫刻」を添えると洪水は起こらなくなったと言う。また、ここの夫婦杉は樹齢1200年、幹回り12mの雄雌一対の杉で雌木には乳房状のコブがあり、昔から子種授けの信仰がある。参拝を終えて汗を流しながら歩くと左手に飛騨川大橋が見えてくる。
【上 呂】 街道は国道と高山本線の間にある狭い道で一直線に伸びている。単調な直線で歩いても進んでいる感じがなくストレスが貯まる。やがて光雲寺、上呂郵便局、上呂公民館を過ぎて上呂駅近くの自販機で冷たいジュースを買って飲む。乾いた喉を潤し一息つく。上呂橋場の近くから右折するが、そこに鹿供養塚が立っている。この地方の山には猿、鹿、狐がたくさん住んでいて農作物や山林を荒らすので、柵、石垣、落し穴を作って対策を講じていた。文化5年(1808年)この地に大雪が降り6尺(約2m)にも達した。そのため獣たちはエサを得る事が出来ず、谷底や川岸で餓死し、千数百と言う死骸が放置された。いかに害獣とは言え、余りのいたわしさを供養する事になり、ここに碑が立てられた。
 そこから坂を登ると山の中腹に「お美津稲荷」があり参拝した。商売繫盛の神様であるが、この稲荷は益田街道きっての親分で、美人に化けるのがうまく「お美津」と呼ばれた。親分キツネが繰り広げる「お美津ギツネ」の伝説が今も語り伝えられている。
 そこから街道は山道から田園地帯を抜け飛騨川の南岸沿いを東へ進み飛騨宮田駅に着く。ここで一旦、帰宅し5月18日に6日目の街道歩きをスタートする。この日は朝から快晴であった。飛騨宮田駅で下車したのは私一人だけであった。駅前に「飛騨宮田駅建設の由来」が掲示してあった。当初の高山本線には、ここに駅はなかったが、昭和30年に無人駅が開業した。飛騨の衆議院議員の岡村利右衛門が国鉄に働きかけて駅の設置が認可されたが、用地の提供、建設工事、資金の調達など、すべての建設費と労力を地元が負担したので、今でも「おらが駅」との意識が強く、掃除や花壇づくりなど地元民で維持されている。
 駅から数分の所に賢誓寺(げんせいじ)があり参拝した。正和3年(1314年)覚如の弟子、覚淳により創建された真宗大谷派の寺院である。昭和6年に植えられた枝垂桜が有名である。上宮田のバス停を過ぎると下呂市萩原町から小坂町に入る。
 

日本の街道歩き〔79〕飛騨街道①

 投稿者:小林 潔  投稿日:2021年 6月12日(土)17時44分26秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 飛騨街道は飛騨の小京都と言われる高山を目指す街道である。しかし、高山への道筋は幾つかのルートがある。伊勢街道のルートが名古屋、京都、奈良、和歌山、尾鷲などから伊勢神宮を目指すルートが沢山あるように、飛騨街道も信州、越中、加賀、越前、美濃から高山に向うルートがある。
 岐阜県内の一般的に知られているルートは2つある。①中山道の太田宿から分岐する飛騨南街道と②中山道の岐阜・加納宿から分岐する飛騨西街道である。両方とも飛騨金山で合流して、下呂、萩原、小坂、久々野を経由して高山へ向う道筋である。
 2年ほど前に東海テレビ「はじめまして街道歩き」で高井一(たかいはじめ)アナウンサーが1年以上かけて飛騨西街道を歩かれたが、私は自宅の多治見から近い美濃太田スタートの飛騨南街道を歩く事にした。この飛騨街道は律令時代の東山道・飛騨支道でもあり古代から多くの人々が旅した道である。
【美濃太田】 ゴールデンウィークの連休はコロナ禍の第4波の中にあって、人出は少ないと判断し令和3年5月3日に出発した。J R美濃太田駅で電車を降り南へ10分ほど歩くと中山道ルートに到着する。中山道は私の最初の街道歩きとして平成20年に32日間かけて東京から京都まで歩いた街道である。太田宿は中山道69次にあって、江戸から51番目の宿場である。
 私がスタートしたのは太田宿の東の入口にある祐泉寺である。早朝であったので木曽川堤防をジョギングや、ウォーキングする人を多く見かけた。祐泉寺の創建は文明6年(1474年)であるが、寺内には、山岳修行で有名な播隆上人の墓碑、日本ライン名づけの志賀重昴の碑、太田宿出身で小説家の坪内逍遥の歌碑、松尾芭蕉の句碑などがある。
 ここから東へ5分ほど歩くと法華経塚があり飛騨街道追分の説明文が掲示してある。さらに東へ数分歩くと神明堂の交差点に着く。木沢記念病院の南側の角である。この病院は私の孫の詩乃(2009年生れ)と蒼大(2018年生れ)の生誕地である。この交差点が中山道と飛騨街道の追分であり、北東角に石道標が立っている。明治時代に名古屋の商人・伊藤萬蔵が寄贈した道標で「右、東京・善光寺、左、飛騨高山・八百津」と読むことができる。ここから南東へ進むと、木曽川の「今渡の渡し」を越えて伏見宿、御嵩宿へ向う道となる。そして北東へ一直線に伸びる狭い道が飛騨街道である。
【古 井】 街道は島町から中富町へ進み、J Aの角を左折すると大きな鳥居をくぐる。そしてJ R太多線の踏切を越すと、古井神社(こび)の正面に出る。創建は慶長年間(江戸時代初め)であるが、明治42年に元津島神社、八王子神社、中富神社が合祀して、現在の古井神社となった。毎年4月に祭礼があり、鬼の面をかぶったハエ追い男がササラと呼ばれる竹の棒で参拝者の頭を軽く叩き厄払いをする。子供はこれで賢くなると言う。参拝を終え鳥居の前で写真を撮ろうとすると、デジカメの操作を誤りファインダーに映像が映らなくなってしまい、悪戦苦闘する。15分もいじったが元に戻らず、諦めてもう1台、持参していたカメラにS Dカードを入替えて撮影した。最近の街道歩きで撮影に関わるトラブルが続き、自分の不注意を反省している。
 さて気持ちを取り直し出発すると国道248号の高架下を通り、古井小学校を通過する。美濃加茂市東図書館の近くに禅隆寺があり立寄る。臨済宗妙心寺派の寺で本堂も山門も新しかった。境内には美しい日本庭園があり、ウットリ眺めて癒された。さらに進むと古井の商店街に入るが、商店は活気がなく、花や野菜を売る店にだけ、数人の客が集まっていた。その商店街の中にJ R古井駅があるが、無人駅であった。
 街道は直進するが右へ行くと飛騨川に架かる青柳橋へ向い、小山観音に着く。正式名は小山寺(しょうざんじ)と言うが通称、小山観音である。飛騨川の中の小さな島にあるが、木曽川の今渡ダムが完成した時、水没して岩山が孤島になり現在は橋で繋がっている。街道は右手に青柳大橋を見ながら北上すると美濃加茂市から加茂郡川辺町に入る。
【川 辺】 飛騨川沿いに歩くと東海環状自動車道の高架手前に一軒の店が建っていた。看板には「飛騨街道名物、小田巻あります」と書いてある。明治28年創業の小田巻屋である。買って食べたかったが数人が並んでいたので諦めた。このあたりで飛騨川から吹くさわやかな風に押され気分よく歩き続ける。下川辺公民館の付近に常夜灯が立っていて街道気分を醸し出す。宮裏から西栃井に入ると禅原寺、栃井神社を参拝しながら進む。この近くに中部電力の川辺ダム水力発電所がある。
 街道はまもなく中川辺の町へ入って行く。くねくね曲がった狭い道を進むと、川辺町役場、川辺中央公民館に着く。時刻は11時半を過ぎていたので、休日で閉まっている役場の玄関先にレジャーシートを敷いて昼食に、おにぎり?3個を頬張った。
 腹ごしらえを終えて飛騨川沿いに北へ進むと川辺漕艇場に着く。連休中で駐車場は、ほぼ満車であった。ここは全国屈指のボート競技場である。川辺ダムの竣工により、川の流れがなくなりボート競技に絶好の立地となった。全国から多くの選手が集まり、合宿が行われる。地元の高校生や中学生も練習しており、ここから米田富士や山川橋の美しい景色が眺められる。私がここに立寄った時は、1人用、4人用、8人用のボートがたくさん湖に浮かび、掛け声に合わせてオールを漕いでいた。
 そのあと街道筋に戻り、太部古天神社を参拝する。立派な社殿だが創建時期は不明である。江戸時代は川辺村、石神村、鹿塩村(かしお)、栃井村の産土神として川辺総社と言われた。街道はJ R高山線に沿って北上し石神地区の神明神社、本覚寺を通過する。道端に中部北陸自然歩道の道標があり、あたりは広々とした田園地帯である。まもなくJ R下麻生駅を右手に見ながら進み、南天の滝入口を通る。前方に飛騨川橋が見えてくると、まもなく国道41号と合流する。この付近では「うなぎ屋」の店が数軒あり、いい匂いがしてくる。臨川寺付近で国道から離れ、川沿いの狭い道に入る。約1kmほど古い建物が並び、街道の宿場を思わせる光景である。下麻生大牧と言う交差点に山口鉄工の工場があり、まもなく川辺町から七宗町に入る。
【七 宗】 この頃、帰りの列車の時刻が気になってきた。J R高山線は2~3時間に1本しかなく乗り遅れたら長時間待たなければならない。右手に国道、左手に線路を見ながら、その間を進むとファミリーマートの近くに出る。その裏手が旧道であり、私の次男の嫁の在所である岩田住建の前を通る。時間があれば挨拶のため立ち寄りたかったが、電車の時刻まで、あと2km余を25分で歩かなければならず、急ぎ足で素通りした。
 国道と合流すると楕円形の建物の「日本最古の石博物館」の前を通る。1970年にこの近くの飛水峡の河床で発見された石が20億年前のもので日本最古と鑑定され、それを陳列するため七宗町に博物館が造られた。しかし最近、島根県で25億年前の岩石が発見され、日本第2位となってしまった。七宗町は博物館の名称を「日本最古」からどんな名称に変更するか検討中であると言う。その隣の「道の駅ロックガーデンひちそう」は連休中とあって駐車場には多くの車が集まっていた。
 街道は右手に七宗橋を見ながら直進し、J R上麻生駅に向かって進むが、時間があと5分しかない。残り数百mを小走りで進むと鉄道の上越しの陸橋を渡って大廻りしなけれならないが、それでは間に合わないので野原を横切り、改札口を通らず、通ってはいけない所を強引に進み直接プラットホームに駆け上がった。時間は発車時刻ピッタリであったが列車は来ない。すると列車は7分遅れで到着するとアナウンスがあった。必死になって急いだが、結果だけみると「骨折り損のくたびれ儲け」で、むなしいのか喜ぶべきか複雑であった。
 ここで一旦、多治見へ戻り2日目は5月8日に再び上麻生駅から出発した。早朝7時半過ぎから歩き始めたが駅周辺には人が全くいない。駅の北の方に七宗町役場はあるが街道は東へ進み赤色の麻生橋から飛騨川の流れを眺める。そこからさらに東へ行くと有名な景勝地「飛水峡ロックガーデン」に着く。ここは飛騨木曽川国定公園内にあって七宗町から白川町に亘り約12kmの険しい断崖が造り出す景観は見事と言うほかない。甌穴と呼ばれる円形状の「ポットホール」が、約800個も散在し、昭和36年に「飛水峡の甌穴群」として国の天然記念物に指定された。昭和45年3月に飛騨川の河床から約20億年前の「上麻生礫岩」が発見され、当時は日本列島最古の石と鑑定された。
 街道は飛騨川の右岸に沿って狭い道を進み、大柿橋を渡って左岸に出て国道41号と合流する。国道は歩道が付いていない所が多く、危険で歩きにくい。途中、小さな集落を越えて、やがて七宗町から白川町に入る。
【白 川】 国道41号はかなり車の通行量が多く、気を付けなければならない。まもなく国道沿いの「天心白菊の塔」に着く。これは昭和43年8月18日に起こった「飛騨川バス転落事故」の現場である。岡崎観光の貸切バス15台が乗鞍岳に向っていたが、猛烈な集中豪雨に伴う大規模な土砂崩壊に巻き込まれた。その内、5号車と6号車が濁流の飛騨川に転落し107名のうち、104名が死亡すると言う日本バス事故史上最悪の事故となった。この時、国鉄高山本線の上麻生駅と白川口駅の間で線路が土砂崩壊で埋没したが列車は走っておらず死者はいなかった。国道41号は今でも落石の危険が至る所にあり、恐怖を感じる。
 そこから上流へ800mほどの所に中部電力の上麻生ダム(大正15年建設)がある。規模は小さいが、ちょうどダムの放流が行われていて壮観であった。バス転落事故の時、他のバス乗客は落石の危険から逃れるため、豪雨の中、この上麻生ダムまで歩いて避難し、ダムの機械室や資材倉庫で一夜を過ごしたと言う。
 街道は飛騨川の左岸を北上して、やがて白川の町並に入る。左手に飛泉橋を見ながら白川口交差点を右折して白川口トンネルに入る。出ると白川町民会館、白川商工会を通り飛騨川の支流の白川に架かる天神橋を渡る。河股神社を過ぎると、今度は飛騨川に架かる白川橋を渡るが、これは私の苦手な吊橋であり、嫌な気持ちになったが思ったより揺れが少なく安堵した。
 橋を渡るとJ R白川口駅の前を通り国道41号と合流し北へ向う。一人の青年が大きな荷物を積みサイクリングしていた。荷物量からすると長距離サイクリングと思われた。暫く進むと寒八と言う数軒しかない小さな集落を過ぎる。今度は5~6台の大型オートバイのツーリングに出逢う。ブルンブルンと爆音を立てて猛スピードで走って行く。飛騨川はこのあたりで大きく蛇行するため、街道も島口、牧、下桐、大利の集落を通って白川病院に着く。その裏手に明応元年(1492年)創建の大利白山神社があり、幹囲6m高さ30mの大杉を見物する。そこで三脚を立てて写真を撮っていると、生れたばかりの赤ちゃんを抱いた若いお母さんから声を掛けられ「どこか歩いてみえますか」と尋ねられた。「太田から高山までの飛騨街道を歩いています」と言うと「凄い事をしていらっしゃるんですね」と言われ、しばし会話をすると多治見の方であった。故郷は白川町であるが結婚して多治見に住み、出産のため実家に戻って来ているとの事であった。写真を撮り終えて彼女の家の前を通る時、お父さんから「頑張って下さい」とエールを送られた。意外な出逢いに気分がよくなり足取りが軽くなった。
 再び国道と重なり七曲橋を渡ると道の駅「美濃白川」に着くが休憩なしで先を急ぐ。鷲原橋を渡って白川北小学校を通過する。飛騨川の奇岩を見ながら小さな洞門を2つくぐり、河東橋を渡って国道を離れ野原の集落に入る。ちょうど田植えの作業中で初夏の景色を堪能した。山の手に野原城址があるが時間がないので野原八幡神社、野原公民館を通って集落を抜ける。
 しばらく山道を歩くと名倉ダムが見えてくる。昭和11年に建設された旧式ダムで左岸に魚道が設けられている。木々に囲まれた狭い山道を歩いていると、中年夫婦のペアサイクリングを見かけた。見たイメージでは奥さんの方がリードしているようだった。下油井郵便局の近くにある坂東橋を左手に見ながら、まもなく下油井駅に到着する。帰りの列車時刻には50分ほどあったので、小さな無人駅の待合室で、持参していた焼酎を自販機で買ったジュースで割って飲み、疲れを癒した。
 街道歩き3日目は、5月9日にこの下油井駅から出発し狭い道を北に向かった。まもなく白山橋を渡り国道41号に合流するが、歩道が付いていないので気を遣う。あたりは茶畑が広がる白川茶の産地である。右手に新七宗発電所を見て、西へ向きを変えるとまもなく白川町から下呂市の金山町に入る。
 

梅雨の晴れ間

 投稿者:古澤文博  投稿日:2021年 5月31日(月)22時03分10秒 softbank126108247053.bbtec.net
返信・引用
  東海地方も梅雨に入ってから2週間ほど経ちました。梅雨の中休みに桜の季節に訪れた米原市の三島池に行ってきました。天気に恵まれ三島池はまだ新緑も見ることが出来ました。池のバックには伊吹山が眺望することが出来、近くの田畑は田植えが終わったところと麦が黄金色に色づいた麦畑が広がっていました。  

新緑のメタセコイア並木

 投稿者:古澤文博  投稿日:2021年 5月17日(月)21時39分53秒 softbank126108247053.bbtec.net
返信・引用
  5月も中旬に入り沖縄・九州地方は早々と梅雨入りになり、東海地方も間もなく爽やかな季節から梅雨入りする今日この頃です。
昨年の秋・今年の冬と訪れた滋賀県高島市マキノ町へ新緑のメタセコイア並木を撮影に行ってきました。天気は梅雨入り間近を感じる空模様でしたがそれでも新緑いっぱいで周りの田んぼは田植えも終わり並木道も水に写り、ツーリングのオートバイが並木道を心地よく通過していきました。
 

らっきょう仕込み

 投稿者:石田宣安  投稿日:2021年 5月12日(水)16時37分46秒 p2996082-ipngn201411tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
返信・引用
  今年もらっきょうの季節がやって来た。
スーパーに並び始めたので早速購入し仕込みです。
先ず2個3個くっついているらっきょうを1個1個切り離し水でよく洗います。
次に根と茎の部分を切り落とし形を整えます。
ここまで1時間以上経過、数が多いだけに時間がかかる。
粗塩を振りかけ一晩置き水分を出す。
部屋中に独特の香りが漂います。
翌日分量の砂糖と酢を鍋に入れ砂糖を煮溶かします。
これを冷めるまで待って塩漬けしたらっきょうの水分をよく拭き取り消毒したビンに詰め砂糖酢液を流し入れます。
最後に鷹の爪を乗っけて冷蔵庫または涼しい場所で保管します。
2週間後くらいから食べられるようになりますが時間とともによく漬かり味もまろやかになりますよ。
 

新緑の樽見鉄道

 投稿者:古澤文博  投稿日:2021年 5月 6日(木)22時06分45秒 softbank126108247053.bbtec.net
返信・引用
  新緑を求めて岐阜県の大垣市大垣駅から本巣市の淡墨桜で有名な樽見駅までの34.5キロの第三セクターの樽見鉄道の撮影に行ってきました。この樽見鉄道は大垣市から本巣市根尾まで南から北へ走るローカル鉄道です。
昭和31年国鉄樽見線が大垣駅から谷汲口駅まで開通しました。がしかし昭和59年この国鉄樽見線が廃線となることが決まりました。その後この路線の存続を望む多くの人々の応援のもと第3セクターとして「樽見鉄道」として誕生その後地域の皆さんの願いによって路線延長工事が進められ、平成元年ついに樽見駅までの全線が開通しました。沿線には西国33観音の札所谷汲山華厳寺が有ります。
爽やかな新緑をバックにのんびりと1両のディーゼルカーがトンネルを抜けて川を渡り水の入った田んぼの側を走り抜けていきました。
 

愛岐トンネル群

 投稿者:古澤文博  投稿日:2021年 4月28日(水)22時06分51秒 softbank126108247053.bbtec.net
返信・引用
  日本3大廃線トンネル群(碓氷峠トンネル群・北陸線トンネル群・愛岐トンネル群)の一つに明治33年国鉄中央(西)線が名古屋~多治見間が開通した愛知県春日井市にある旧国鉄中央(西)線高蔵寺~多治見間の8キロの間に13基のトンネル群があり、昭和41年に廃線となりました。その中で定光寺から古虎渓までの間に1.7キロの廃線後をウオーキングが出来ます(トンネルは3号~6号)。
2007年市民グループを結成し発掘調査を開始、2009年NPO法人化して活動を本格化。その後経済産業省「近代化産業遺産」認定など注目を浴びることになりました。春と秋の公開時に全国から多くの人々が訪れようになり2016年には登録有形文化財に認定されました。
新緑が美しい春の公開に行ってきました。スタートの3号トンネル入口には実物大の蒸気機関車の幕が掛かっておりトンネルの中は薄暗くひんやりとして気持ちよく、足元はバラストがそのままで線路内を正に歩く感じを味わうことが出来ました。秋の紅葉も素晴らしい景色が見られることでしょう。
 

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