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秋葉山本宮秋葉神社 参拝

 投稿者:古澤文博  投稿日:2021年12月 6日(月)14時02分26秒 softbank126058204058.bbtec.net
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  紅葉が中盤の11月に静岡県浜松市春野町にある秋葉山本宮秋葉神社へお札を受けに訪れました。
この神社の創建は西暦709年(和銅2年)に初めて御社殿が元明天皇の御製よるものと伝えられています。
秋葉山は赤石山脈の遠州平野に突き出した最南端で天竜川の上流に位置し海抜866メートル、千古の杉、檜がうっそうと繁り、街道随一の霊山です。
ここの御祭神は火之迦具土大神で火の主宰神です。御神徳は火の幸を恵悪火を鎮め、火災消除・家内安全・厄除開運・商売繫盛の御霊験あらたかなるものとして全国津々浦々から信仰されています。
秋葉神社へは過去にも数回参拝していますが、いつもここを訪れ時に伝送無線時代のPCM工事のルート天竜・春野・気田・佐久間・水窪を思い出します。
 
 

京都の食を愉しむ

 投稿者:田中建治  投稿日:2021年11月26日(金)15時37分3秒 M014011001032.v4.enabler.ne.jp
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  写真1 阿ぶり餅(一文字屋和輔(一和))

テレビでよく放映される今宮神宮参道にある「一文字屋和輔(一和)」の阿ぶり餅を食べて来ました。阿ぶり餅はきな粉をまぶしたお餅を親指サイズに千切って竹串に刺し炭火であぶつて香ばしい焦げ目をつけ白味噌に砂糖を加えた白味噌だれが絡めてあります。
一皿11本(500円税込み)で11本の訳は奇数は割れないから縁起いいからだそううです。

写真2 抹茶パフェ(都路里祇園本店)

都路里(つじり)は抹茶を使用した色々なパフェが美味しいお店です。都路里の名前は京都宇治の「辻利」の名に京都の「都」、四条大路の「路」、お茶の里(宇治)の「里」をあてて「都路里」とされた。

写真3 箱寿司(祇園 いづ重)

「いづ重」は鯖寿司で名高い祇園の「いづう」から暖簾分けされ明治末に創業した老舗の寿司屋です。やはり鯖寿司が美味しいお店です。
 

京都の紅葉

 投稿者:田中建治  投稿日:2021年11月25日(木)16時19分26秒 M014011001032.v4.enabler.ne.jp
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  京都の紅葉巡り。高尾 高山寺(鳥獣戯画(複製))、大原 宝泉院(額縁庭園)、鞍馬寺(天狗)、貴船神社(京の奥座敷)、泉涌寺(楊貴妃観音像)、今熊野観音寺(紅葉の穴場)を巡って来ました。所によっては見頃が過ぎてましたが、行く先々で違った紅葉を楽しむことが出来ました。印象的な所は「今熊野観音寺(西国三十三ケ所観音霊場第15番札所)で紅葉自体は無料鑑賞でき境内見渡す限り紅葉です。機会があれば一度お出掛け下さい。

写真1 額縁庭園の紅葉(宝泉院)・写真2 御座所庭園の紅葉(泉涌寺)
写真3 境内の紅葉(今熊野観音寺)
 

知多四国お遍路

 投稿者:田中建治  投稿日:2021年11月13日(土)21時31分24秒 M014011001032.v4.enabler.ne.jp
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  ハイキングで知多四国遍路の「内海から野間」まで歩いて来ました。コースは名鉄内海駅ー47番持宝院ー46番如意輪寺ー45番泉蔵院ー48番良参寺ー49番吉祥寺ー51番野間大坊ー名鉄野間駅。約11Km
写真1 唐人お吉像(内海)
船大工市兵衛の二女として生まれ。7歳で伊豆下田へ移住。のちに芸者になったあと幕末外交でハリスとともにその名を残した。国道247内海海岸沿い

写真2 和訳聖書発祥の碑(小野浦)
小野浦出身の千石船「宝順丸」の乗組員、岩吉、久吉、音吉が三重県の鳥羽から江戸へ向かう途中遭難。アメリカへ漂流のあとドイツ宣教師ギュツラフと協力して世界初の和訳聖書を完成させた顕彰碑が美浜町小野浦に。3人の墓は良参寺境内にある。

写真3 源義朝の墓(野間大坊)
1159年平治の乱に敗れて逃げ落ちた義朝は野間の長田忠致の許に寄せたが忠致は平家からの恩賞目当てで入浴中の義朝を謀殺。この時義朝は「我に木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだと言われています。これにちなんで義朝の墓には幅約3センチ、長さ約40センチの木刀が沢山供えられています。
 

高原のススキ

 投稿者:古澤文博  投稿日:2021年11月 7日(日)21時17分51秒 softbank126058204058.bbtec.net
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  奈良県の東北端、三重県境に接する曾爾村(そにむら)にある曾爾高原はススキで一面覆われた草原で今ちょうどススキの穂が陽射しをあびて銀色・金色に耀き秋の夕日を浴びる景色は印象派の絵画を見るような雰囲気になります。夕方4時を過ぎるころから散策路に電灯がともり日没後のマジックアワーに映えるススキを見ることが出来ました。
曾爾高原のススキは、かつて村内の民家の屋根の材料として使われていましたが、トタンや瓦が普及したことにより年々使用が減っていきました。そのため昭和44年から杉などの植林が進められましたが、村ではこの素晴らしい景観が杉山などに変わっていくことは忍びなく思い約40haのススキの草原を奈良県に保護してもらうことになり現在に至っています。毎年2月から3月にかけて山焼きが行われその際にでた灰はススキの肥料となり夏に向かって緑のススキが一面に成長し再び秋を迎えます。この秋は多くの観光客が訪れています。
 

トロッコ電車と紅葉

 投稿者:田中建治  投稿日:2021年11月 6日(土)11時14分28秒 M014011001032.v4.enabler.ne.jp
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  以前から一度乗ってみたいと思っていました宇奈月の黒部峡谷鉄道のトロッコ電車に乗って来ました。(11月4日、5日)。黒部渓谷鉄道は宇奈月温泉から欅平(けやきだいら)を結ぶ路線で、大正12年に黒部川水系の発電所建設のための資材運搬用鉄道として宇奈月~猫又間(11.8Km)の軌道敷設工事が着手されました。その後、幾多の変遷をへて昭和12年7月宇奈月~欅平が開通しました。宇奈月~欅平間は20Km、平均時速17Km、所要時間約1時間20分です。宇奈月から黒部川本流、支流に沿って登って行き、登に連れ紅葉が進み綺麗でした。平年より暖かい気候でしたが普通客車(オープン型)に乗りましたが寒く皆さん冬の服装です。欅平では散策すると暑くなり一枚脱ぎ足湯で足の疲れを取り紅葉の秋を満喫して来ました。
宇奈月温泉への行程
名古屋(特急約2時間20分)金沢(北陸新幹線36分)黒部宇奈月温泉(徒歩3分)新黒部(富山地方鉄道約25分)宇奈月温泉
 

初秋の138タワー

 投稿者:古澤文博  投稿日:2021年10月29日(金)20時33分13秒 softbank126058204058.bbtec.net
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  昨年の5月に紹介しました愛知県一宮市にある国営木曾三川公園の138タワーパークは初秋に入りコスモスの花畑が満開となっていました。10月の下旬に入りましたが日中は20℃を超える気候で歩いていても汗ばむほどでした。コロナ渦の緊急事態宣言も解除されお年寄りから小さい子供連れのママさんたちがマスクをして散策楽しんでいました。ハロウィーンの催し物があるのか飾り物があちらこちらに作ってありました。  

日本の街道歩き〔83〕鳥羽街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2021年10月27日(水)11時30分56秒 pool-214-38.aitai.ne.jp
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  【街道の概要】 鳥羽街道は紀州方面から伊勢神宮を参拝するための参詣路として利用された街道で、志摩市磯部から鳥羽市を経て伊勢神宮の内宮まで約35kmである。また、この街道は全国から来たお伊勢参りの旅人が周辺の観光にも利用し、磯部の伊雑宮(いざわのみや)、青峯山正福寺、朝熊山金剛證寺への参拝、および志摩の海岸名勝地への物見遊山の街道でもあった。
【磯 部】 出発は令和3年10月14日。気温が30度近くもあり、旅装は夏スタイルである。スタートである近鉄志摩線の上之郷駅は片田舎の無人駅で、電車は1時間に1本しか停車しない過疎地である。この駅で下車したのは私一人だけである。
 駅から西へ向って歩き3分ほどで「皇大神宮別宮伊雑宮」通称「伊雑宮」(いざわのみや) と呼ばれる格式高い神社に到着する。規模は小さいが深い森の中に荘厳な本殿があり、係の人が掃除をしながら「おはようございます。ご参拝ありがとうございます」と丁寧に挨拶してくれた。
「お伊勢さん」と親しまれる伊勢神宮は別宮、摂社、末社、所管社、合わせて125の宮社が、三重県の伊勢市、松阪市、鳥羽市、志摩市、度会郡、多気郡にわたって鎮座しているが、伊雑宮は14ヶ所の別宮の一つである。
 志摩地方は風光明媚な所で知られ、良質な海山物に富み、朝廷と神宮の御料を貢進した御食国(みけつ)として伊雑宮も、その役目を果たしてきた。創建は第8代垂仁天皇の御代と言われ、伊勢神宮と同じように20年に一度の式年遷宮が行われる。直近では平成26年に遷宮があった。中世の歴史書である鎌倉時代の「吾妻鏡」には、源頼朝が伊勢神宮に祈願した際、神馬を伊雑宮に奉納した記録が残っている。
 ここで心清めて参拝したあと、上之郷の古い町並を抜け、国道167号を横断し近鉄志摩線の踏切を渡り郊外へ出た。
【沓 掛】 街道は緩やかな登り坂となり、台地の上にある沓掛の宿場に入る。野川に架かる山田橋を渡ると、道が狭くて曲がりくねった集落を歩く。
しばらくすると道端に選挙ポスターが貼ってある看板を見つけた。まだ衆議院選挙の公示がないのに「あれ、おかしい」と首を傾げたら「志摩市議会議員選挙」のポスター掲示板であった。するとタイミングよく曲がり角から選挙カーが現れ「市民の生活を向上させます〇〇で~す。宜しくお願いしま~す」と、ウグイス嬢の大きな声が聞こえてきた。そして私に向って手を振ってくれた。私は旅人で志摩市の選挙権がないのが分からないのかと思ったが、調子を合わせて笑顔で会釈してあげた。
 町外れに出て森の中を少し歩くと、古いお寺の廃屋があり「神崇山安国寺跡」と言う石柱が立っていた。その先には青峯山への登山道入り口の標識を見て、田園風景の中を歩く。
【五 知】 野川に架かる小さな橋を渡ると、近鉄志摩線の踏切を越す。近くの竹藪で水分補給して、しばし休憩をとる。ここから街道は国道167号と合流し、車の騒音と排気ガスにストレスを溜めながら歩く。所どころ歩道が付いていない箇所があり、車の通行に気遣いながら進む。大石橋を渡って単調な国道を歩くが名所や旧跡が全く無く、暑さと相まって気が滅入る。
 やっとの事で近鉄五知駅(ごち)に到着する。ここで時間は早いが無人駅の待合室で汗を拭って、昼の弁当を食べる。
そのあと再び国道167号を歩くが、徐々に登り坂になる。緩やかな坂であるので、呼吸は乱れないが、どこまでも坂が続く。街道はやがて峠の頂上に着く。ここが、志摩市磯部町と鳥羽市の境界となっている五知峠である。近鉄電車は峠の下のトンネルを走っている。
【松 尾】 今度は長い下り坂が続くが暑さで汗が止まらず、喉も渇く。途中、小さな石神神社を見ながら坂を下ると白木公民館の前を通り、白木の集落に入る。まもなく近鉄白木駅の前を通るが、新しそうな国道167号のバイパス道路が見えてくる。
しばらく田園地帯の中を歩くと松尾の集落に入る。松尾駅の近くに古い道標があり、文字を読む。文化14年の銘があり「左・青峯道、右・磯部道」と記してある。この角を右折すれば青峯道、通称松尾道へ入る事になる。ここで小さなリュックを背負ったサイクリングの若い女性から「こんにちは~」と声を掛けられ手を振ってくれた。私が歩きの旅人と思って、頑張れと言う意味を込めてエールを送ってくれたようだ。
 さて、そこからさらに国道を北上すると「加茂神社道」と言う道標が立っていた。しばらくすると、左手に鳥羽警察署の新しそうな建物があった。最近、移転してきたようだ。その先に長さ20mくらいの本物のジェット船を駐車場に飾ってある「みやげセンター王将」の前を通るがお客はほとんどいなかった。近くの交差点の表示板には右折・相差(おうさつ)へ10kmと書いてあった。
 しばらく国道沿いの町並みを歩くと加茂の集落に入る。加茂小学校、加茂郵便局を過ぎると、小高い丘の上に九鬼岩倉神社(くきいわくら)があり参拝する。ここは戦国時代に田城城が置かれた所で、当時、このあたりの領主であった九鬼水軍の拠点であった。後に鳥羽城が築城されると廃城となり、その跡地は神社となった経緯がある。街道は加茂川に沿った国道167号を歩き続ける。
【船 津】 街道は加茂ふれあいパークを過ぎると、杉ヶ瀬橋に差掛かる。この橋のたもとに、真っ黒になった道標が立っている。「右・満るやまみち、宝暦8年……」くらいしか読み取れない。さらに北上すると加茂川の川幅が広くなり、海がだんだん近づいてきたと感じさせる。
 灰原橋の先に八幡神社があり街道から寄り道して参拝する。神社の社殿は小さいが、境内に樹齢400年のクスノキの大木があり、ご神木となっている。街道は船津橋の手前で国道から離れ古い町並みに入る。近鉄船津駅を右に見ながら加茂川の左岸を進み、幸丘橋で再び国道と合流する。
 この頃、まだ陽が高く暑さが続き疲れも出てきた。するとドラッグストア「セイムス船津店」があり、店の中のエアコンでしばし涼み、58円のチョコアイスキャンデーを食べて休憩した。
 一息ついて元気を取り戻し近鉄志摩赤崎駅、安楽島橋を通過すると赤崎神社に着く。伊勢神宮の末社の一つで、外宮へ奉納する御贄採取の守り神である。毎年6月の赤崎祭りには神社の前の路地に100軒以上の露店が並び、大きな賑わいをみせると言う。街道は狭い路地を北に向う。
【鳥 羽】 街道は近鉄中之郷駅の近くを過ぎると海が接近してくる。すぐ近くには鳥羽港、鳥羽水族館、真珠島があるが、街道は少し山寄りの道を進む。町並みは古い建物が並び宿場の面影が色濃く感じられる。
 やがて緩やかな登り坂に差掛かると鳥羽城への案内板が立っている。矢印に従って坂道を登り始めるが汗が止まらない。山の中腹まで来ると道が二つに分かれていて迷っていると、高校生らしき青年が通りかかったので尋ねると親切にお城へ行く道を教えてくれた。まもなく石垣が連なる本丸下の駐車場にたどり着く。そこから2分ほどで頂上の本丸跡に着いた。昔は天守閣や殿様の御殿が建っていたが、今は草に覆われ、説明板だけが立っている。そこから眼下に鳥羽の海が見下ろせ、真珠島や鳥羽港が見える。海には航行する船が小さく見える。
 鳥羽城は戦国時代の水軍大将として活躍した九鬼嘉隆が文禄3年(1594年)に築城した城である。築城当時は海に面して堀を巡らした海城であった。城内には高さ20mもの天守閣が聳えていた。城主は九鬼氏であったが江戸時代初めにお家騒動で転封され、その後、内藤、天領、土井、松平、戸田と目まぐるしく城主が変り、享保10年(1725年)の稲垣氏の入封から安定し明治維新を迎える。
 さて鳥羽城の見学を終えて鳥羽市役所西庁舎の方へ降りて鳥羽駅に向った。近鉄の特急には40分ほどの待ち時間があったので、駅の売店で特大のソフトクリームを買って食べた。電車に乗ってからは、持参していた焼酎を飲み疲れを癒した。
 翌日は、近鉄電車の急行で鳥羽駅まで来て再スタートした。町の中を10分ほど歩くと裏通りに御木本幸吉生誕地がある。御木本幸吉は安政5年(1858年)に鳥羽城下のうどん屋の長男として生まれたが、うどん屋では財を築くのは無理と考え米穀商に転職した。さらに海産物商に転身して志摩の産業振興に尽力して財を成し鳥羽の名士となった。その後、天然の真珠が高値で取引されている事を知り、明治23年から真珠の養殖の研究を始める。明治29年と大正5年に真珠養殖の特許を得て大正7年から量産体制に入った。その後、大正13年に、その品質がフランスの品評会で高く評価され、世界的に認められて真珠王となった。幸吉は昭和29年に老衰のため96歳で死去した。
 その生誕地の近くに江戸川乱歩館があり、寄り道したが開館時間前であったので入場出来なかった。江戸川乱歩は明治27年に三重県名張市に生れ、本名は平井太郎である。大正6年に鳥羽造船所に就職し、勤務の傍ら小説を執筆した。大正12年に作家としてデビューし、ペンネームの江戸川乱歩は、アメリカの作家「エドガー・アラン・ポー」の名前をもじったものである。代表的な作品は明智小五郎探偵で有名な「怪人二十面相」で、後に日本推理作家協会の初代理事長となり、昭和40年に70歳で亡くなった。
 そのあと、街道は西へ進み、常安寺を参拝する。この寺は戦国大名の九鬼嘉隆の追善のため息子の守隆が建立し、九鬼家の菩提寺である。
【堅 神】 狭い道を進むと、やがて登り坂となる。地図では分からなかったが、かなりの勾配である。自転車の高校生は降りて峠の頂上まで登って行った。峠には三体の小さなお地蔵様が並んでいて、綺麗なお花が供えてあった。汗を拭き取り、今度は坂を下るが、木立の中を歩くので暑さがしのげる。
 街道は池上公園を過ぎると、まもなく海岸近くにある鳥羽商船高等専門学校に着く。広い敷地に大きな校舎が建ち、港には練習船が停泊していた。
 そこから国道42号に入り、暫くして堅神東交差点を左折して堅神の集落に入る。道を少し間違えたが、地図と合わないので直ぐに気づき街道に戻った。西ノ辻橋のたもとに道標があり、嘉永3年(1850年)の銘で「左・あさま可たけ、内宮へかけぬ希」と言う文字だけが読める。
 近鉄のガードをくぐり抜けると池の浦駅に着くが、その正面に堅神神社があり参拝する。ここで少し休憩したあと、西へ向うと、また大きな道標が立っている。明治26年の銘があり「右・いせ参宮二見ヶ浦道、左・朝熊道」と記してある。無人駅の池の浦駅で昼食弁当を食べて西へ向うと、古びた玉泉寺があり参拝する。
 そのあと山道に入り、しばらくすると県道37号と合流する。JR参宮線は海岸沿いのルートであるが、鳥羽街道と近鉄志摩線は内陸の最短コースを進む。街道は近鉄線にほぼ沿っているが、緩やかな山合いの道で車の通行はほとんどない寂しい道である。
 途中、国道167号の高架をくぐるが、その先に堂坂峠がある。ここが志摩国と伊勢国の国境である。そして鳥羽市と伊勢市との市境でもある。近鉄の線路はその下のトンネルを通っている。
【朝 熊】 延々と続く山道は、やっとの事で朝熊(あさま)の集落に入る。朝熊郵便局の近くに鳥羽街道と朝熊岳道との追分がある。その角には小さな川原地蔵堂と古びた道標が立っている。標高555mの朝熊ヶ岳には金剛證寺があるが、マイカーなら伊勢志摩スカイラインで山頂まで行く事が出来る。登山道はかなり険しいようだ。
 登山道の表示板のそばに道標がある。安永8年(1779年)の銘で「右・あさまたけ、左・志州とばみち」と記してある。
 そこから街道は新朝熊橋を渡り、西へ向うと四郷保育園があり、幼い子供たちの声が聞こえてくる。更に西へ進むと右手に大きな赤福餅の本社工場があり、赤福餅と赤く表示した中型トラックがたくさん駐車している。ここから緩やかなアップダウンが続く県道37号を進む。
【五十鈴】 矢田川に架かる矢田橋を渡ると平坦な田園地帯に入り、炎天下の中、汗だくで歩く。しばらくすると土手の内側によく整備された田圃が並んでいる。これは神宮神田と呼ばれ伊勢神宮へ奉納する米が作られている。
 四郷小学校の先に大きな木々に覆われた櫲樟尾神社(くすお)があり、暑さしのぎと水分補給のため境内で休憩する。神社の詳しい事は分からないが、伊勢神宮の別宮であり、式年遷宮のための替地が本殿の隣にあるので、格式の高い神社である事が容易に想像できる。
 休憩のあと、五十鈴川に架かる五十鈴橋を渡るが、橋が新しい。橋の標柱には平成24年と記してあるので近代的な橋になっているのが納得できる。 楠部公民館を過ぎて曲がりくねった道を進むが道を間違え、国道23号に出てしまった。誤りに気付きグーグルマップで現在地を確認して正規の街道ルートに戻った。街道は左手に五十鈴川を見ながら南へ進み中村町の集落に入る。右に左に何度も曲がりながら進むと民家の角に道標があり、街道筋に間違いないと確信して安堵する。道標には弘化2年(1845年)の銘があり「左・さん宮道、右・二見鳥羽道」と記してある。
 そこから南へ進むと五十鈴川に架かる御側橋(おそば)を渡るが、橋が2本あり古い方は通行止めになっている。新しい橋の標柱には「令和2年10月竣工」とあり、古い橋の撤去工事が始まるところであった。 橋を渡ると伊勢陸上競技場があり、ここで暑さと喉の渇きを癒すため、自販機で130円のレモンライム・サイダーを買って飲んだが、その喉越しが堪らなく快感であった。三重県営五十鈴公園の中を通っている伊勢志摩スカイラインの高架をくぐって右折すると五十鈴川に架かる新橋が見えてくる。
【伊 勢】 新橋を渡っていると、先に見える「おかげ横丁」が観光客で溢れている。コロナの緊急事態宣言が解除されてから、まだ2週間しか経っていないのに以前の賑わいが戻っている。赤福餅本店では長い行列ができており、買おうと思ったが諦めた。ここで以前とは異なる事に気付いた。コロナの前では中国人、韓国人など外国人で溢れていたが、日本人しかいない。だから道を歩くのも、買い物をするのにも、しっかり秩序が保たれている。日本人の行儀良さに感心した。
 まもなく鳥羽街道の終点である伊勢神宮・内宮の宇治橋に到着するが、写真を撮っている参拝者で大変混雑している。私が三脚を立てて写真を撮ろうとすると人がカメラの前を横切る。何とか撮り終え宇治橋を渡って内宮の境内に入る。街道歩きで内宮を参拝するのは平成21年の伊勢街道、平成30年の二見街道以来である。参道は整然として歩いているが、予想外に若い人が多くて老人が少ない。本殿の前では神宮の係の人が「密にならないよう、間隔を空けて下さい」と呼び掛けている。
 内宮は正式には「皇大神宮」であり天照大御神が祀られている。日本全国の神社の頂点に立っているのは誰でも知っているが、今回、事前調べで意外な事を知った。太平洋戦争中の昭和20年7月29日、アメリカ軍の空襲で宇治山田が攻撃目標となった。京都や奈良は貴重な文化財が多いので目標から外されたが、内宮を爆撃したのは、日本人の心を打ち砕いて戦意をくじくためであっただろうか。しかしここで奇跡が起こった。40機のB-29が内宮の神域に焼夷弾を投下したが、すべて五十鈴川の対岸の山の中に吸い込まれて、まったく被害がなかった。これは神の力の為すところで「ご神威」と呼ばれる。
 この話を知った時、鎌倉時代に蒙古が九州を攻めたが大嵐が起こり見事に守り抜いた事を思い出した。日本の神様の力が強いのか?偶然なのか?私は日本人だから偶然とは思いたくない。
 これで無事に鳥羽街道を踏破して宇治橋からバスで近鉄宇治山田駅まで乗車したが、満員で20分ほど立ったままであった。近鉄特急の中で飲んだ缶ビールは至福のひと時で達成感の喜びを嚙みしめた。そして近鉄名古屋駅の売店で赤福餅を買った時、クジを引いたら、大きなウーロン茶が当たり、気分良く多治見行きの電車に乗換えた。
 

名城公園の施設

 投稿者:田中建治  投稿日:2021年10月22日(金)20時42分46秒 M014011001032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用
  前回は名城公園を紹介しましたが今回は公園内の施設を写真で紹介します。
写真1 おふけ池  写真2 ジョギングコース 写真3 名古屋城を望む広場
 

斎宮の歴史

 投稿者:田中建治  投稿日:2021年10月16日(土)21時45分18秒 M014011001032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用
  秋晴れの下、6ケ月振りのハイキングで三重県多久郡明和町の「斎宮の歴史と王朝ロマン」を訪ねて来ました。「斎宮」とは、天皇が即位するたびに選ばれた伊勢神宮に仕えた斎王(いつきのひめみこ)の宮殿と、彼女に仕えた官人たちの役所である斎宮寮を指す言葉です。斎王は、未婚の内親王や女王から占いで定められ、宮中の初斎院や野宮などで足掛け3年間の潔斎生活の後、斎宮へ旅立ちます。群行と呼ばれたこの旅は、平安時代には近江から鈴鹿の山々を超えて伊勢国に至る5泊6日の旅でした。(パンフレットより)
写真1 斎宮歴史博物館 写真2 斎王群行模型 写真3 1/10史跡全体模型
 

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