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日本の街道歩き〔90〕養老街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2022年 4月26日(火)23時02分41秒 global221-206-122.aitai.ne.jp
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  【街道の概要】 養老街道は美濃街道の大垣・塩田橋を起点に杭瀬川沿いに南下し、多良街道と接しながら綾野を進み、相川を越して蛇持、飯田、直江を通って牧田川に出る。川を越して九里半街道と交差し、高田の町を通り、柏尾から険しい山道を越えて養老の滝に出るルートである。
 昔から養老の滝を見物するのに利用された街道である。明治時代に入ると養老公園が開設、整備され、文化人や政治家も多く訪れるようになった。中でも明治43年には、大正天皇がまだ皇太子であった時に、この街道を通られて養老の滝まで物見遊山された。現在はマイカーや養老鉄道を利用して滝を訪れる観光客が多くなり、街道を歩く人は私のような街道マニアくらいしかいないであろう。
【大 垣】 出発は令和4年4月5日である。その3日前に八神街道(やがみ)〔清洲~祖父江〕を踏破したばかりで、疲れが少し残っていたものの、満開の桜を愛でながらのスタートであった。
 JR大垣駅から養老鉄道に乗換え西大垣駅で下車して歩き始める。まず、目についたのが残雪の伊吹山である。程なくして、私が平成24年に踏破した美濃街道(垂井~名古屋)を西に向い塩田橋に着く。ここが美濃街道と養老街道の追分である。杭瀬川に架かる塩田橋を渡ると有名な「塩田の常夜灯」があり、ここで最初の街道写真を撮る。江戸時代には杭瀬川の塩田湊があり、船の安全を見守った常夜灯である。また伊勢神宮の遥拝所にもなっている。隣には古びた石道標が3つ立っており、「塩田橋」、「養老街道」は判読できるが、もう1つの道標は摩耗が激しく読み取れない。
 ここの立派な常夜灯は平成30年9月4日の台風21号により破損してしまい、近づくと危険なので黒い大きなカバーで覆ってある。以前、私が美濃街道を歩いた時は凛々しく立っていたので痛ましい姿を見るのは残念である。そこには説明書きがあり「現在、修理方法について検討中」と記してあるが、4年以上も放置されたままである。
 天気は快晴、風は強いが、春の陽気に快適なウォーキングを楽しむ。街道は杭瀬川の堤防沿いに一路南下するが、犬の散歩する人や、ジョギングをする人と出逢う。途中、静里町村中公園を過ぎると、まもなく東海道新幹線の高架をくぐる。
【綾 野】 高架をくぐると右折して杭瀬川から離れる。すると広場で20人くらいの老人たちがゲートボールに興じている。大きな声や笑顔で動き回る姿を見ていると、健康そうな老人ばかりで、同世代の者としても嬉しくなる。
 綾野郵便局、J A西美濃綾里支店を過ぎると立派な真宗大谷派の真照寺に着く。土塀もお堂も新しそうであるが、荘厳な印象を受ける。綾野の集落の中心部であるが、車や人の往来はほとんどない。その近くにもう1つの真宗大谷派の浄徳寺がある。
 そこから南下すると県道96号に合流して多良街道と交差するが、すぐに左折して田園地帯に入る。暫くは、延々と続く田圃の中を歩くが、右手に残雪の伊吹山が凛々しく聳えている。ちょうど街道筋に菜の花畑があり、雪山とのコラボが絵になると思い、写真を撮る。
さらに進み、水都大橋西と言う交差点を過ぎると左手に森が見える。これは杭瀬川スポーツ公園で、平成7年に開設され、15haの広さを持つ。サッカー、野球、ソフトボールなどの競技場のほか、水生植物観察ゾーンも併設されている。
 街道はさらに田園の中を南下し、野口の集落に入る。ここから相川を越さなければならない。昔は船渡し(段海の渡し)があったが、今も橋は架かっていない。やむを得ず上流へ500mほど北上して養老橋へ迂回しなければならない。往復で1kmの無駄足となるが、仕方ない。養老橋からは、また残雪の伊吹山と満開の桜を眺め癒される。この養老橋が大垣市と養老町の境界になっている。今度は相川沿いに南下して、東海環状自動車道の高架をくぐる。
【蛇 持】 高架をくぐると蛇持(じゃもち)の集落に入る。小さな色目川を渡ると色目川排水機場に出る。色目川土地改良区が受け持つ338haの排水を行い、この付近の輪中内の水害を防ぐ施設である。そこから少し西へ行くと、柿経池(こけら)があり「蛇持経塚跡」の石碑が立っている。昭和8年に池の底から沢山の檜の薄板が発見され、その板には経文が書いてあり、柿経と言って養老町文化財に指定されている。
 ここで気温が上昇し、上着を脱いで水分補給とせんべい、チョコレートを食べて休憩を取る。蛇持の集落は狭い道が入り組んで迷路のようになっている。そんな中、路地の一角に祐泉寺があり、立寄って参拝する。ここも真宗大谷派である。 集落のあちらこちらに美しい花が咲いているが、私は花の名前が無知なので、ただ眺めるだけである。でも花で疲れが癒される。集落を出ると再び田園地帯に入る。
【飯 田】 街道は南へ向うと、やがて飯田の集落に入る。町中に養北幼稚園があるが、閉園しており、入口はバリケードで封鎖してある。過疎になり園児が少なくなってしまったのだろうか。ちょっと寂しい光景である。その近くの養北小学校の前を通るが、春休みのため運動場はガラーンとしている。その先の小畑川の河畔に桜並木があり、満開の桜の下で街道写真を撮る。
 そろそろ昼時になり、食事処を探すが、こんな田舎にあるはずがないと思っていたら街道が県道96号と交差する所に「日本料理わか山」の看板を見つける。なんか高級そうな和食料理店で入店を躊躇したが、ここを見逃すと、どこで昼食にありつけるか心配となった。でも勇気を出して店に入った。お品書きを見ると、2千円台、3千円台のメニューばかりで不安になったが、メニューの最後のページに1200円の和食ランチがあったので注文した。私の大好きな刺身、天ぷら、出汁巻き卵、茶わん蒸し、筑前煮、味噌汁、デザート、抹茶が付いて、この値段ならお値打ちと思った。昼食は当り外れがあるが、今回はラッキーであった。なお料理の器の隅に、この料理店の庭に咲く桜の花びらが一輪添えてあり、風流まで味わう事ができた。
 腹ごしらえを終えて街道に戻り、小畑川に架かる小畑橋を渡ると名神高速道路と東海環状自動車道が交差する養老ジャンクションが見えてくる。ドコモショップ養老店の角を右折して名神高速道路の高架をくぐる。
【高 田】 高架をくぐると直江の集落に入る。静かな町で人は見かけない。多芸公民館から御鍬神社へ行くと春日神社の表示がしてある。地図が誤りなのか、現地は春日神社であり不思議に思う。 そこから南下して牧田川へ向い、堤防の坂を登る。すると、あっと驚く桜並木が突然現れる。圧巻の絶景にウットリする。ここに大きな大神宮常夜灯「直江新屋敷燈明」が立っている。牧田川の船渡し跡である。現在は下流300mほどの所に高田橋が架かっていて、ここを渡る。
 対岸にも大きな大神宮常夜灯があるが、桜並木はない。ここから高田の中心部へと向う。しかし道を間違えて高田駅前の交差点に出る。近くには養老町役場がある。ここは平成29年に九里半街道を踏破した時に通過した所である。その時に知った事であるが昭和29年に高田町と養老村が合併した時、町は高田の方が大きいのに、新しい町名は「養老町」になった。その当時、高田町の人々は不満を持つ人がいたが、「高田」より養老の滝を有する「養老」の方が全国的な知名度が高いので命名された経緯がある。そのいきさつがあってか、町役場は高田に立地している。
 さて道を間違えたので本来の街道筋に戻るため大宮神社を目指して西へ進む。すると大きな「ミズノテクニクス養老工場」の前を通る。野球のバットやボール、ゴルフクラブ、テニスラケットなどを製造しているが、プロ野球選手であったイチロー選手の木製バットは、ここでオーダーメイドされていた。町中に入り、桜が満開の真宗大谷派の専念寺を参拝するが、疲労と足痛で暫く休憩する。小腹が空いたのでリュックも中から羊羹とチョコレートを取出し糖分補給もした。
 道が狭い街道を歩くが、いたる所に大小の大神宮常夜灯が立っており、街道筋の雰囲気がある。しばらく進むと大きな鳥居の押越八幡神社に着く。寛文3年(1663年)に建立されて宝暦年間に改修された。街道はさらに南下して養老小学校を通り、押越付近のトミダヤ養老店、養老ミート本店、カネスエ養老店を通過する。すると県道56号にぶつかり、左手に養老警察署を見ながら県道を横断する。
【柏 尾】 街道は右手に養老山系を見ながら、狭くて曲がりくねった道を進むと、浄誓寺の裏手に出る。ここは平成29年に美濃脇街道(関ヶ原~桑名)を踏破した時、昼食のおにぎりを食べたお寺で懐かしかった。裏門から寺に入り、正門で写真を撮るが、ここも真宗大谷派である。この寺でも水分と糖分の補給をして、そこから街道は長い長い登り坂が始まる。
 この坂は明治時代の政治家や文化人が人力車で登ったと言う。大正天皇が皇太子の頃この道を通っているが、御輿か人力車であったか分からない。しばらく登ると右手に広い養老ふれあいセンター公園があり、ここも桜が満開であった。さらに登ると特別養護老人施設「白鶴荘」、養老バーベキューを通過する。
 道は徐々に狭くなり、傾斜がきつくなってきたので、ハーハーゼーゼーと苦しみながら進む。しばらくすると三差路があり、石道標が立っている。「右・たき道、左・いせ道」と表示してある。そして小さな里程石が設置してある。養老の滝まで「二十丁」と言う表示である。一里(3927m)は36丁、一丁は約109mである。二十丁は2180mなので、坂道を休憩しながら行くと、1時間では到達できない事を知る。街道は「十九丁」「十八丁」……の里程標を見ながら延々と坂道を進む。ようやく山道を抜け、集落に入ると正慶寺を右手に見ながら歩き続ける。
【養 老】 養老駅から観光客が歩く道を眼下に見ながら、高い所を歩くと「豆馬亭」と言う古い建物の前を通る。明治13年に創業した老舗旅館で、北原白秋などの著名人が滝の見物に来た時に宿泊している。
 さらに進むと高級旅館の千歳楼の前を通り、養老神社に着く。鬱蒼とした森の中にあり、急傾斜の長い階段を見ると、高所恐怖症の私は登るのを断念し下から手を合わせて参拝とした。養老神社は「養老孝子伝説」の源丞内ゆかりとされ、奈良時代の養老年間に建立された。美濃国神名帳には養老明神と記載されており、明治時代初めに元正天皇聖武天皇を合祀して養老神社に改称された。境内には菊泉水があり、日本名水百選に指定されている。
 参拝後、観光客のルートに合流して紅葉橋、万代橋を進む。途中、足の弱い人たちは休憩しながらゆっくり歩いている。私も途中、小休止を2回ほど取り、やっと養老の滝に到着した。伝承では昔、貧しい一人の孝行息子(源丞内)が病弱な老いた父親を養っていた。ある日、息子が酒好きの父親に酒を与える事ができず、悔いていると、酒の香りがする不思議な泉を発見した。泉の水を瓢箪に詰めて父親に与えると、病気が治っただけではなく白髪が黒髪になり、皺も無くなったと言う。その話を聞いた奈良時代の元正天皇は、現地を行幸し「老いを養う若返りの水」として、年号を「養老」に改めた。この伝承は、「養老の滝」とも「菊水泉」とも言われ、現代まで語り継がれている。養老の滝は揖斐川の支流の滝谷川の上流に位置し、落差32m、幅4mで「日本の滝百選」であり、環境省の「名水百選」にも指定されている。
 ところで、この滝は私にとっても生まれる前から由緒ある滝である。私の両親は昭和23年秋に結婚前の恋愛時代にデートでここを訪れている。その時、私は既に母のお腹の中にいて、昭和24年3月に誕生した。誕生前に養老の滝の音を聴いているので、特別に由緒ある滝である。私が高校入学の時、初めて見た住民票によると父母の婚姻届けは昭和23年11月であった。日数の計算をして苦笑した。
 さて無事に養老街道をゴールして帰途に就く。途中、ドンピシャの満開桜が3000本も続く養老公園内にはたくさんの施設がある。養老寺は親孝行の源丞内が開創したと言われ、天平時代には七堂伽藍があり、多芸七坊(現在の養老郡一帯)に数えられた。戦国時代の永禄年間には織田信長によって寺が焼かれたが、慶長12年(1607年)に高須藩主の徳永寿昌によって再建された。
 坂を下ると広大な養老公園があり、養老キャンプセンター、養老パークゴルフ場、養老ランド、養老天命反転地、岐阜県こどもの国があり、その中を通って養老鉄道の養老駅に到着した。かなりの疲労感があったが、元気に帰宅できた。
 
 
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