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日本の街道歩き〔82〕八風街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2021年10月 9日(土)16時01分47秒 pool-214-38.aitai.ne.jp
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  【街道の概要】 八風街道(はっぷう)とは伊勢国朝明郡富田(現在の四日市市)から鈴鹿山脈の八風峠を越えて、近江国神崎郡八日市(現在の滋賀県東近江市)を結ぶ街道である。歴史の記録に最初に現れるのは、元久元年(1204年)平家の残党が挙兵したため八風峠を封鎖した記述が残っている。鎌倉時代には伊勢と近江を結ぶ交易路として利用されたが、江戸時代に入ると次第にすたれた。
 伊勢国側は東海道の桑名宿と四日市宿の中間にあたる富田一色村を起点として、朝明川沿いの松原村、大矢知村、平津村、田光村(朝上)を経て八風峠に至る5里28町57間(約25km)の街道であった。東海道と中山道を結ぶ最短の経路であるが、八風峠は非常に険しいため難所と言われた。現在の八風峠は通行不能なため、田光(たびか)で巡見道と交差する追分までの21kmを八風街道と呼んでいる。
【富 田】 出発は令和3年9月30日。コロナ禍の緊急事態宣言が9月末で解除されたので、さっそく街道歩きを再開した。この日は四日市の天気が夕方から雨になると言う予報だったので出発を早めて、多治見を5時45分発の電車で富田に向った。
 7時すぎに富田駅を下車して、直ぐに歩き始めた。出発地である富洲原港の海運橋に到着すると、通勤通学の人々が足早に歩いていた。橋の横にある公園に立寄ると「伊勢湾台風、最大潮位標」の記念碑が立っていた。昭和34年の伊勢湾台風でこの辺りは相当な被害が出たのかと想像した。私はこの時、小学5年生で多治見でも強烈な暴風雨となり、家が吹き飛ぶのではないかと怖い思いを記憶している。
 早朝から暑さが厳しく、直ぐに汗が出始めた。富洲原界隈の旧道は昔の面影はないが街道の狭さと微妙に曲がる道が街道らしさを感じる。阿弥陀堂を過ぎると近鉄の踏切を渡る。この付近に地図では小田原提灯参考館があると言うので探したが見つからず、諦めて先へ進む。
 その先にある田村寺に立寄って参拝する。平安時代の武将である坂上田村麻呂が東征の帰路に、この地で休憩した時、村人の手厚い持て成しを受けたので「田村」の姓を下賜された。寺の名前はそれが由来となっている。暫く進むと、旧東海道の道筋と交差する。私は平成24年に京都から東京まで23日間かけて東海道を踏破したが、9年ぶりの再会であった。
 次にJR関西本線の踏切を渡ると、墓地の入口に赤い帽子と衣服をまとった6体の地蔵が並んでいた。ここで写真を撮っていると、自転車でやって来た老婆が私を見て「リュック背負って写真を撮りながら歩いているね。どこまで歩くの?」と尋ねられ「八風街道を歩いています」と答えると「それはええ事だ。体も頭も使えばボケる事ないわ。天気もいいし、気を付けて歩きなさいよ」と、エールを送ってくれた。さらに、その先のゴミステーション当番の中年女性が「おはようございます。行ってらっしゃ~い」と手を振ってくれた。いつもの事ながら、見知らぬ人から応援の声を掛けられるのは嬉しくて、士気が高揚する。下さざらい町東のセブンイレブンで弁当を購入して、一路、西へ向って街道を進む。
【大矢知】 下さざらい町西で国道1号を横断すると大矢知(おおやち)の町に入る。道筋には所どころに製麺所を見かける。このあたりが「大矢知の手延べ素麺」の産地である。昔、旅の僧侶がこの地で一夜の宿を求めた時、親切に持て成しされたので、そのお礼として素麺の作り方の秘伝を授けたと言う。コシの強さ、なめらかな舌触り、風味の良さが自慢と言う。
 町の中心部に入り、大矢知郵便局の前に古い道標を見つける。西面には「右・四日市みち、左・くわなみち」南面には「左・たどみち」北面には「右・こものみち」と表示されている。三岐鉄道の大矢知駅を少し過ぎたところに、大きな「大矢知常夜灯」が立っている。その先の市神社の角に多度街道との追分がある。朝明川を右手に見ながら西へ西へと歩き続ける。
【平 津】 平津の集落に入るが、地名の読みは「へいづ」である。事前の街道調べの時は「ひらつ」と発音していたが詳細な地図には、ふりがなが振ってあり、間違いに気づいた。三岐鉄道の平津駅の南側には平津新町と言う大きな団地があるが、北側の街道筋は車も人も往来がほとんどなく、白壁土蔵や古い連子格子の家が立ち並び、昔の面影を色濃く残している。朝明川沿いに「半跏の地蔵」(はんか)がある。高さ2mもない屋根にお地蔵様が安置されている。言われは知らないが、近所の年配の女性が通りかかった時、両手を合わせてお参りしていたので、地元では信仰の厚い地蔵であると思った。
 しばらくして朝明川に架かる千代田橋を右手に見ながら進むと東名阪高速道の高架をくぐる。ここには昔、神明社が建っていたが、東名阪高速道の建設で他に移転を余儀なくされ、その旧跡の石碑が立っていた。
 陽が高くなり汗だくで歩いていると、新小角橋が見えてくる。その南側に三岐鉄道の暁学園前駅がある。余りの暑さに喉が渇き足も疲れてきたので、駅前で休憩した。すると目の前にアイスクリームの自販機があったので、150円でチョコチップアイスを買って食べた。甘くて冷たくて美味しかった。一息ついて歩き始めると左手の小高い丘の上に暁学園高校の校舎が建っている。ここは萱生城(かようじょう)の城跡である。
【山 城】 朝明川沿いに西へ進むと、右手に六丁橋が見えてくる。そして山城郵便局と山城駅の前を通る。ここでも「山城」の読み方が変わっている。普通なら「やましろ」と発音しそうだが、「やまじょう」が正しい。
 駅の近くに桜神社があるが、山の上まで急な傾斜の長い階段が一直線に伸びている。高所恐怖症の私には、地獄のような恐ろしい階段に見えて、とても登る気にはならない。ここで三脚を立てて写真を撮っていると、私と同年代と思われる人がスマホ電話をしながら通りかかったが、セルフタイマーのシャッターが切れるまで立止まってくれた。
 その先に信明寺と言う山門が立派なお寺があったので立寄った。昔は善如寺と言われ天永元年(1110年)に天台宗の寺として開山した。しかし応仁の乱で兵火にかかり衰退した。その後、大永元年(1521年)に公卿信明の娘が降嫁した縁で「のぶあき寺」と呼ばれたが、正徳3年(1713年)西本願寺より「信明寺」の公称を許され、天保12年(1841年)に現在の本堂が建立された。
 山城西の交差点の北西の丘の上に「山城城」と言う城跡があるが、見学する時間がないので素通りした。街道はやがて、緩やかな登り坂となり、昼でも薄暗い道を歩く。やがて「あさけが丘」と言う団地の中へ入る。汗が止まらず「あさけが丘中央集会所」で少し長めの休憩を取る。足が少し痛むのでトレッキングシューズを脱いで足をもみほぐした。その後、元気を取り戻し街道を西へ向った。
【保 々】 しばらくすると、右手に神明社跡の説明文が立っていて、その隣に大きな日露戦役記念碑が立っていた。その先には馬鹿でかい御神灯が聳えていた。伊勢神宮参拝の常夜灯であるが、相当古いものであるように思えた。また近くに石道標があり、一面には「右・田光ちくさ道、左・四日市道」と記してあり、もう一面には「右・多度、左・上えび」と記してある。
 まきの木台1丁目で国道365号を横断すると、左手に大きなホンダの工場が見えてくる。その先に保々工業団地があるが、このあたりから右折するところを間違えて1本早く曲がってしまった。しばらくして間違えた事に気づき戻るが、約2km、30分ほどムダ歩きをして悔しい思いをした。ここの地名「保々」も難読である。「ほぼ」と発音するのが正しい。
 前方に新名神高速道が見えてくるが、寂しい山道に入り、獣が出没しないかと思い、緊張した。高速道の高架下をくぐる時、小さな表示板に「八風街道」と書いてあり、道は間違っていないとホットした。
 しばらく進み小さな地蔵堂と墓地を過ぎると専照寺に着く。近くには保々郵便局があり、街道沿いには民家が並んでいる。このお寺で昼食にしようと思いリュックから弁当を取り出すと、寺の若い夫婦から睨みつけられたので、慌ててリュックを背負って退散した。やがて田園地帯に入り、1kmほど歩いた所にシャッターが閉まっている小さな工場があったので、その軒下で弁当を食べた。食べ始める頃は晴れて暑かったが、食べ終わる頃、急に小雨がパラついた。傘を差して歩かなければならないかと、憂鬱な気分になったが傘を広げる直前に雨は止み、気を取り直して街道歩きを続けた。
【竹 永】 上条公民館を過ぎると県道に合流するが、その三差路に小さな自然石に刻まれた道標があった。「右・四日市道、左・くわな道」と読むことができた。街道は竹永の集落に入るが、土蔵や連子格子の古い家が続き街道らしい光景である。その中に庭が美しい西信寺があり、立寄って参拝する。境内には大きな鐘楼があり、昔はこれで時刻を知らせていたのかと想像する。
 竹永郵便局を過ぎ、街道は北西方向に進むが依然として暑さで汗が止まらず、ファミリーマート菰野八風橋店に入り、エアコンの涼しさでしばし癒した。そこで108円のアイスキャンディ「ガリガリ君・ラフランス味」を買って食べたが、冷たくて甘くて至福のひと時であった。
【八 風】 朝明川に架かる八風橋を渡ると八風の町並に入る。杉谷川に架かる小島小橋を越してから、しばらくすると田光川(たびか)に架かる小島大橋の手前を左折する。進む方向が西に変り田光川を右手に見ながら進む。材木屋や造り酒屋の前は狭い道であるが、バス通りになっている。右手に菰野町立朝上保育園があり、園児のやかましい甲高い声が聞こえてくる。今度は左手に菰野町立八風中学校があり、休み時間であろうか生徒の大きな声が響いていた。
 その先の三差路に傾いた小さな石道標があり、写真を撮る。「右・とみだ四日市道、左・くわな道」と記してある。この道標から50mほど行くと国道306号と交差し、さらに100m進むと、巡見道との追分に着く。ここが田光の札ノ辻であり、今回の八風街道のゴールである。この追分には田光の高札場、多比鹿神社(たびか)、田光の力石があり最後の街道写真を撮る。
 ここから、さらに西へ進むと山麓に八風キャンプ場があり、その先は八風峠へと続くが街道は消滅している。さて、この後、帰途につくが、四日市までバスで1時間半ほど掛かる。朝上農協前バス停に着くが、バス発車まで1時間もある。農協の軒下に腰掛け持参していた赤ワインを飲んで疲れを癒した。遠くには鈴鹿山脈の険しい八風峠が見え昔の旅人は難儀をしてこの峠を越えたのかと忖度した。
 しばらくして、待ち焦がれたバスに乗ったが、乗客は自分一人だけである。過疎地域なのでバスは1~2時間に1本しかない。四日市の市街地に入ってから乗客が2~3人乗ってきたが、実質、自分だけの貸切バスのようであった。コロナ禍の中、久しぶりの街道歩きを実行できた喜びを噛みしめて帰宅した。
 
 
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