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日本の街道歩き〔81〕飛騨街道③

 投稿者:小林 潔  投稿日:2021年 6月25日(金)23時02分7秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
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  【小 坂】 国道41号を北に向って歩くが右側が山、左側が飛騨川の山間部を歩くと、石飛バス停の先で国道から分れ細い旧道に入る。そろそろ小坂ダムが見える頃かなと思うが、道が川沿いから遠ざかるので、見る事は出来ないかと諦めかけたら、中部電力の建物があり、その敷地内に入って行った。すると職員の人が「こんにちは」と言ってくれたので入っても大丈夫と思い川岸まで近づくと昭和5年に建設された小坂ダムが見えた。前日の雨で水量が多く、勢いよく放流されていたのが圧巻であった。
 写真を撮ってから街道に戻るが、国道は高い位置の山腹を走っており、旧道は川沿いの道で車も人も通らない寂しいルートである。しばらくすると小坂の町が見えてきて、きこり大橋に着く。そこから100mほど上流で飛騨川の支流の小坂川が合流する。そこに朝六橋が架かっているが歩道は少し離れた所に幅1mくらいの独立橋となっており、高所恐怖症の私ではとても渡れないので車道を走って渡った。そこには「朝六の碑」が立っていた。江戸時代の享保年間に飛騨代官の長谷川庄五郎忠崇が架けた橋であるが、その名の由来は闇夜でも透明な水が「明六つ」(午前6時)の明るさを呈するところから名付けられた。
 そこから小坂町の中心部に入り、小坂町商工会、浄福寺、小坂小学校を通って大垣内(おおがいと)公民館に着く。時刻は11時頃であったので、ここで弁当を食べた。そのあと大垣内から無数原(むすばら)を経て門坂で国道に合流するが、小坂久々野トンネルの手前で右折して旧道に入る。松尾の集落を過ぎると下呂市から高山市に入る。
【 渚 】 飛騨川は、かなり上流地域となり川幅が少し狭くなってきた。渚橋を渡ると小坂久々野トンネルから出てきた国道と再び合流するが歩道がないので危険な道である。すると左手にラーメン屋があり、その奥に「女男滝公園」がある。
 天明3年(1783年)に始まった「天明の大飢饉」が全国に及び、ここ渚村でも多くの人が餓死して、男が一人だけ生き残った。その男は、この滝の上流で耕作していると何処ともなく一人の美女が現れて因縁あって結ばれ多くの子宝に恵まれたと言う。その後、婿取り、嫁取りを重ねて数多くの子孫が増え、衰微した村は繁栄したと言う。この事から滝に祈願すると縁結び、子宝のご利益があると広まり、近隣から、この女男滝の参拝者が増えたと言う。滝は二段に分かれており、上段が女滝、下段が男滝で、冬の氷結がとても美しいと言う。岐阜県の名水50選に指定されている。
 滝から1kmほど北へ行くと八幡神社があり、ここで国道から分れて細い旧道を進むと飛騨川に架かる片篭橋に着く。その近くにJ R渚駅の無人駅がある。暑くて汗をいっぱいかいていたので、駅前の自販機で冷たいジュースを買って一気飲みした。
 再び国道に合流し、小原橋、道の駅・飛騨街道なぎさ、長淀橋を渡ってひたすら川沿いの道を歩く。木賊洞(とくさぼら)の洞門を越えてしばらく行くと「ドライブイン峠屋」があるが、その付近には峠はなく、ただの古ぼけた小さな売店であった。
【久々野】 街道は山合いから平地に変り、家屋がまばらに見えてきた。右手に小さな小坂ダムが見えてきたが、ここは久々野の町に入っているのに、何で小坂なのだろうか不思議が多い。新緑の美しい景色を眺めながら引下(ひきさげ)、船渡(ふなと)を過ぎると、小さな久々野発電所が見える。そこから1kmほど進むと大原山トンネルがあるが、街道はその手前で右折して久々野の町に入る。そして飛騨川の支流である無数河川(むすご)に架かる城下橋を渡ると中心街に入る。道筋には古い旅籠や連子格子の屋敷が並び、宿場町の面影が残っている。まもなく高山市役所久々野支所を過ぎるが、この先の久々野小学校の西側を通る街道が消滅しているので国道41号を歩くしかない。
 まもなくJ R久々野駅に到着するが、列車の発車時刻まで1時間ほどあったので、駅から徒歩10分の縄文時代の堂之上遺跡(どうのそら)まで行き見学した。この遺跡は明治時代から古代の遺跡らしきものがある事は知られていたが、昭和47年、久々野中学校の郷土クラブ員により遺跡が発見されたので、岐阜県教育委員会による本格的発掘調査が実施された。場所は飛騨川と八尺川の合流点の小高い舌状台地に広がる岐阜県下最大規模の集落跡で縄文前期から末期頃(5500年~4000年前)の竪穴住居跡43件がほぼ完全な姿で発見され縄文土器、石器、土製品なども大量に発見された。幸いにも縄文時代から現代に至るまで地形の変化を殆ど受けず、典型的な縄文時代集落跡として学術的評価が高く、昭和55年に国の史跡に指定された。
 遺跡の見学を終えて駅へ向う途中、予想外の雨が降り、傘を差して歩いた。ここで6日目の街道歩きを終え、一旦自宅へ帰り7日目は5月23日にこの久々野駅からスタートした。
 ここで駅から歩いて5分ほどの「三桝屋旅館」へ立寄った。今から50年ほど前の昭和45年に、大学のゼミ合宿勉強会(経済地理学)で1週間、滞在した懐かしい旅館である。毎日9時から17時までゼミ生10名ほどで勉強会をして、夜は飲み会とマージャンをした。ある日、突然の大雪が降ったので半日、舟山スキー場で遊んだ事もあった。旅館の建物は建替えられたが旅館の名前は「お宿、三桝屋」と表示してあった。
 さて天気は快晴で朝から暑さで汗が出始めた。街道は宮峠を目指して登り坂となり、八尺川沿いに北上する。坂道の途中には、もだに農園、堤果樹園、平田果樹園などがあり、しばらくすると、J Rの線路が宮トンネルに入る。街道は月見平付近で直進する国道のトンネル手前から右斜めの道へ入る。私の持っていた地図は2019年作成で、このトンネルは表示してないのでトンネルの存在はまったく知らなかった。つい最近、完成したようだ。
 宮峠の登り坂を汗をかきながら歩くと、宮峠辻に着く。あたりには、まばらに家が散在している。宮峠辻バス停のベンチで水分補給して、しばし汗をぬぐう。宮峠の標高は782mで飛騨街道最大の難所である。ところが車はまったく見かけない。
【一之宮】 この宮峠は昔、高山へ観光に行った時、車で通った事があり、通行量が多かったのを記憶している。しかし不思議なほど車を見かけない。高山への往来は新しい宮峠トンネル(長さ1863m)を利用するので気味が悪いほど静かで何か獣でも出てこないかと思うほどである。
 汗をかきながら、時々、水分を補給しつつ、ヘアピンカーブの坂を下ると、トンネルの入口が見え新しい国道と合流する。しかし道路の付替えが行われているので私の地図と現地は合致せず、スマホのグーグルマップで現在地を確認した。ようやく飛騨一之宮(飛騨で一番格式の高い神社)の水無神社(みなし)に到着する。
 神社のまえに古い道標がある。「左・宮峠道、右・位山道」と表示してある。位山道とは律令時代に飛騨から都へ向う官道であり、東山道飛騨支道である。飛騨一之宮から苅安峠と位山峠を越えて上呂へ抜ける古い街道である。しかし山深い道で難儀が多かったため、戦国時代に飛騨高山の城主、金森長近が宮峠を越えて飛騨川沿いのルート(現在の国道41号筋)を開くと位山官道はすたれてしまった。その追分が水無神社の前の三差路である。
 水無神社は南西方向にある位山(標高1529m)を神体山としており、境内には大杉が何本も立っている。太平洋戦争の末期頃、戦争が激しくなり名古屋が空襲を受けるようになったので、熱田神宮のご神体が昭和20年8月22日から9月19日まで水無神社に一時避難した経緯がある。
 この神社でちょうど昼時となったので境内で弁当を食べたがコロナ禍のため参拝客は僅かしか見かけなかった。食後は狭い旧道を歩き、ローソン一之宮店の角で国道に合流し一気に通行量が多くなった。街道は宮川沿いに続くが、これまで飛騨川は北から南の太平洋に向けて流れていたが、宮川は南から北の日本海に向けて流れている。先程の宮峠が分水嶺となっている。
 街道は臥龍温泉の前を通るがコロナ禍のため駐車している車は少なかった。国道は大型オートバイのグループが爆音を上げて猛スピードで走っている。しばらく山合いの景色の良い谷間を歩くが、境谷を過ぎると山が開け、高山の町が見えて来た。
【高 山】 石浦地区に入るとコメリ、スギ薬局、ゲンキーなどの大型店が並び、通行人も多くなった。速入寺と言う立派なお寺を過ぎると山王橋付近で国道41号から分れ、人けの少ない旧道に入る。宮川沿いに赤岩町、千鳥町を通り、暫くすると松本住宅に着く。明治8年に高山で大火があり、二之町で出火した火災は三町、寺内町、八幡町、鉄砲町など高山の中心部1032軒が焼失したが、松本家は奇跡的に類焼を免れ現存している。昔は薬種商や金貸し業を営んでいたが、現在は歴史史料館として無料開放され国の重要文化財に指定されている。
 その近くに高山祭に繰り出される山車の収蔵庫のうち、「大国台」と「青龍台」がある。街道はまもなく高山陣屋に到着する。元々は高山藩主、金森氏の下屋敷であったが元禄5年(1692年)飛騨が幕府直轄地となると、幕府代官所となった。その後、安永6年(1777年)以降は飛騨郡代役所となり、明治維新後は筑摩県高山出張所となった。現在は国の史跡に指定され有料で見学ができる。ここはコロナ禍でも意外と見学者が多かったが陣屋の前では、高山名物の宮川朝市と並んで陣屋朝市が毎日開かれるがコロナ禍で中止されていた。
 陣屋で写真を撮ったあと、飛騨街道のゴールである欄干の赤色が鮮やかな中橋へ着いた。ここは人がまったくいなくて写真が容易に撮れた。橋を渡って有名な高山の古い町並みである三町筋を歩くが、観光客は私の予想より少し多く、外国人もチラホラ見かけた。その町角にある売店で、90円のみたらし団子と230円の五平餅を売っていたので、五平餅を買ったがとても美味しかった。
 そこから更に奥へ進むと日下部民芸館があったが、コロナ禍のため臨時閉館となっていた。宮川に架かる弥生橋を渡り飛騨国分寺へ行ったが観光客は数人しかいなかった。国分寺は天平13年(741年)聖武天皇の詔勅により全国に建設が始まった。飛騨は天平勝宝9年(757年)行基によって建立された。弘仁10年(819年)火災で焼失、再建されたが、戦国時代の天正13年(1585年)金森氏と姉小路氏の合戦で又も焼失した。江戸時代の元和元年(1615年)に再建されるが、現在の三重塔は文政3年(1820年)に建設されたものである。
 ここで最後の街道写真を撮っていると、住職が運転する軽四乗用車が境内へ入ってきたが、車をバックする時、ベンチにぶつけてしまった。私はこの事故を一部始終、目撃したが今、流行のアクセルとブレーキを間違えたようだった。でも自損(ベンチは寺の所有物)だけで済んだので不幸中の幸いであろう。さて7日間かけて美濃太田から高山まで飛騨街道を歩いてきたが、ゴールの喜びと安堵感そして達成感を噛みしめながら高山駅へ向った。
 
 
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