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日本の街道歩き〔80〕飛騨街道②

 投稿者:小林 潔  投稿日:2021年 6月16日(水)22時30分14秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
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  【金 山】 街道を歩いていると、道端に「けもの注意」の表示があり、熊や鹿のシルエットが描かれてあった。こんな所に獣が出没するのかと少し緊張する。しばらくして右手に七宗ダムを見る。このダムは大正15年に建設されたが、ダムの高さが11mしかなく、河川法上15mに満たない提高はダムに分類されないのでダム便覧から除外される。金山町なのに「七宗ダム」とは理解できなかった。金山町に入り井尻を過ぎた頃、小雨がパラついたが傘を差すほどでもなかった。少し先に立派な三輪神社があったので参拝した。創建は室町時代の永正年間(1515年頃)で本殿の石垣は三輪にちなんで三つの輪の石積みとなっている。
 金山中学校の近くの三差路で国道から外れ狭い旧道に入るとまた三差路がある。西からきた道は、飛騨西街道と言って岐阜の加納宿で中山道から分岐し、芥見、小瀬、関、下之保、津保川、上之保を経て金山宿に入るルートである。この金山の追分で私が歩いて来た飛騨南街道と合流し、一路、高山へ向う一本の街道となる。狭い道を北へ進むと柯柄八幡神社(えがら)がある。応永18年(1411年)に姉小路氏が起こした飛騨の乱のあと、鎌倉荏柄天神(えがら)の分霊を八幡社に合祀し柯柄八幡宮と称した。
 そこから十王坂、観音堂を通って金山宿の中心街に入る。古い連子格子の建物や土塀が並び宿場の雰囲気を醸し出している。その宿場の中に享保5年(1720年)創業の有名な「奥飛騨酒造」があり、写真を撮っていると急に本降りの雨となった。酒蔵の軒下で20分ほど雨宿りして、また歩き出した。金山には昭和のレトロで有名な「筋骨めぐり」がある。道幅が1mほどの路地で家屋や渡り廊下がせり出して迷路のようになっている。しかし時間がなく少し見ただけで先を急いだ。
 馬瀬川に架かる境橋を渡り子守地蔵を参拝して川沿いに歩くと馬瀬川が飛騨川に合流する。このあたりは江戸時代に精密な日本地図を作成した伊能忠敬が歩いたと説明書きしてあった。まもなく昭和4年に完成しラジアルゲートが11門も付いている大規模な大船渡ダムを見る。堤高が12mしかないのでダム扱いされない。魚道も付いていて堤上は車が通行できる生活橋である。その堤に美しい躑躅が咲き誇り癒された。
 しばらく進むと「下原の渡し」跡があり見学する。江戸時代、18人乗りの渡し船があり、記録によると文政10年(1827年)の渡し賃は武士は無料であったが、百姓町人は8文(約100円)であった。明治34年に吊橋が架設されると廃止となった。この近くには「もみじ寺」として有名な玉龍寺があるが、街道からかなり離れているのでパスした。
 街道は中切の集落に入ると、御番所屋敷跡、三千人塚、中切舟橋跡、下原口留番所跡(くちどめばんしょ:小規模な関所)など史跡が多い。この集落の中の中切公民館で弁当を食べた。再び歩きだすと私と同年配の男性が「どこまで歩くの?」と尋ねたので「高山まで」と言うと、帽子を取って「それはご苦労様」と言って敬意を示してくれたので嬉しかった。更に進むと下原発電所の近くに古い吊橋があり、中山七里の説明板があった。金山町から下呂の三原地区まで28kmに亘って奇岩怪石、急峻な山々など美しい自然が広がり、見ごたえのある景色が続く。
 中山七里の名称は、豊臣秀吉の家来で飛騨国の大名であった金森長近が5つもの峠を越える旧道が不便なことから、天正14年(1586年)秀吉の許しを得て、飛騨川沿いの難所を七里に亘って切り開いた事による。街道は地蔵野洞門や中切洞門をくぐって進むが、国道には大型のオートバイが列を作ってビュンビュン走っている。中には長い髪を三つ編みにして黄色いマフラーをなびかせる女の子もいた。その先には昭和13年に建設された高さ23mの下原ダムがあり、水が満々と貯えられていた。その川面の色がエメラルドグリーンで、新緑とのコラボが美しく疲れが癒された。このあたりでも「けもの注意」の標示があり、今度は猿のシルエットが描かれていた。
【焼 石】 街道は三ツ渕の集落に入り、三ツ渕公民館で休憩をし水分補給と汗をぬぐった。その先に長さ600mほどの三ツ渕洞門があり、川岸に出っ張った取付歩道を歩くが高所恐怖症の私に取っては怖さで足を震わせながら進んだ。途中、洞門の上から滝のような水が流れ落ち、さらに恐怖心が増し、衣服が水しぶきで濡れてしまった。やっと洞門が終わると前方に中原大橋が見え、またも苦手な橋かと思いきや広い歩道があり、安心して渡る事が出来た。
 道は山の中に入りウグイスの声が聞こえ、気持ちが安らいだ。まもなく焼石駅に到着し、この日も列車が来るまで手持ちの焼酎を飲みながら汗をぬぐった。ここで一旦、多治見へ戻り4日目は5月12日にこの焼石駅から出発した。焼石の集落は小さく、中原郵便局、中原小学校を過ぎると中山橋を渡り国道41号と合流するが直ぐに旧道に入る。このあたりは瀬戸の集落で土蔵など古い家並みの中を歩く。八幡神社で写真を撮ったあと、再び国道に入り川沿いを歩くと、紅葉で有名な「孝子ヶ池」に着く。ここには昔からの伝説がある。近江出身の門原左近と言う人が母親と二人で住んでいたが、とても親孝行者であった。ある時、母親が重病に罹り息絶え絶えで「生れ故郷の琵琶湖の水が飲みたい」と言う願いを聞き、直ちに近江へ出かけ琵琶湖の水を汲んで帰る途中、この地で母親の死を知らされ、落胆のあまり水をこぼし泣き伏してしまった。その時、こぼれた水が池となり、今に残る孝子ヶ池になったと伝えられている。
 その近くの小さな瀬戸発電所を過ぎると国道は道路工事で片側通行となっていた。そこで赤白の旗を振っていた40歳代の女性ガードマン(ウーマンかな)が思いのほか美人でスタイルが良く、どうしてこんな仕事しているのか不思議に思った。しばらく先に進むと久野川口バス停の近くに羅漢岩が川の対岸に見えた。明治時代の哲学者、井上円了が富山へ向う途中、この岩を見て「十六羅漢が雲上から降りてきたようだ」と評して中山七里の中で最も墨画的な景勝地と言われるようになった。そこからしばらく進むと、また道路工事で一方通行となっていた。そこにいた現場監督のような人が「おじさん!どこまで歩くの?」と聞くので「高山まで歩きます」と言うと「高山に着く頃にはスリムな体型になっていますよ」と揶揄され苦笑いするしかなかった。
 まもなく保井戸の宿場に入り門原トンネル、門原神明神社を過ぎた頃、また工事現場に差し掛かると、今度は60歳代の女性ガードマンが同じような質問をしてきたので、同じように返事すると「それは感心なことだ。気を付けて歩くんだよ」と声をかけてくれた。その先に「ドライブイン飛騨川」があったが廃墟となっていた。川の対岸を見ると新しそうな山の崖崩れが見えた。この辺りはかなり危険なルートと感じた。門原洞門を過ぎると飛騨川に架かるサビまるけの吊橋を見た。幅が70cmほどの歩行者専用の吊橋だが通行止めとなっていた。さらに国道を北上すると釣鐘洞門をくぐり下呂市浄郷園と言う廃棄物処理場のような公園で休憩した。
 その先の七里橋は歩道が無く車道も幅が狭い橋である。しかも橋桁が高く、私にとっては地獄の橋である。怖いので橋の真ん中を歩き大型トラックを停車させてしまった。するとその運転手は私が橋を怖がっているのを察して、手で誘導してくれた。親切な運転手に感謝して頭をペコペコ下げた。しばらく川沿いの国道を歩くと不動橋と言う大きな橋があり、又かと嫌な気分になったが幅が3mもある歩道がついており安心して渡った。ちょうどその頃、昼時となったので道端のコンクリートブロックに腰掛けて弁当を食べたが、付近は鬱蒼とした樹木が生い茂っているので獣の出没を恐れて15分で食べ終え先に進んだ。
【下 呂】 街道は帯雲橋の手前の三原の交差点に到着する。真っ直ぐの道は国道41号で下呂の市街地に入る。右折は国道257号で裏木曽街道を通って中津川へ行く道である。飛騨街道は、ここから少ヶ野峠を越えるルートに入るところだが、峠道は消滅しているので左折して少ヶ野トンネルをくぐる。長さは700mほどあり歩く人はまったくいない。トンネルを抜けると「下呂湯けむりの森」へ行く道標を見ながら住吉神社を通過する。まもなく濃飛バス下呂バスセンターあたりから下呂富士が見えてくる。
 飛騨川の右岸から下呂の市街地へ入るには昭和6年に架けられた六見橋を渡る事になる。汗をかきながらやっと六見橋に着くと、考えられないアクシデントに見舞われる。何と橋が工事中で「全面通行止」の表示板が掲げてある。これを迂回するとなると、上流1kmに架かる橋まで行かなれればならない。アーチ型の橋でペンキの塗替え工事である。何とか強引に渡れないかと橋のたもとまで行くと、小さな字で「歩行者通行可」と書いてあり胸を撫で下ろす。だったら「全面通行止」の大きな表示は誤りである。何はともあれ橋を渡って市街地に入るが、この橋の近くに昔の「塚田の渡し」があった。そこに昭和3年、野口雨情が下呂温泉を訪れた時「六ツ見橋ゆきや 暑さは志らぬ 涼しい風 そよそよと ……」と歌う下呂歌謡を作詞した碑がある。
 市街地に入ると延命地蔵(首なし地蔵)があり、手を合わせる。昔、高山の代官がここを通った時、ふざけて地蔵の首を斬り地中に埋めたが、高山へ帰ってから家族全員が重い病気に罹ったため「悪い事をした」と反省し、元の位置に地蔵を安置したと言い伝えがある。下呂の中心部に向う途中、水無八幡神社を参拝する。神社の祭事として毎年2月に若者が色とりどりの花笠を付けて踊り歩く行事があり、飛騨路に春を告げる祭りである。そこから数分で白鷺橋に着く。下呂温泉の歴史は古く天暦年間(950年頃)に源泉が発見されたが、そのキッカケは白鷺が導いてくれたと言う。下呂温泉は草津温泉、有馬温泉と共に天下三名泉として全国に紹介したのが室町時代の高僧、万里集九である。また江戸時代にも儒学者の林羅山が良質な温泉地であると高く評価し、さらに全国にその名が知れ渡った。なお下呂の地名は律令制度の奈良時代には「下留」と言う漢字で表記されていたが、後に「下呂」に改められた。
 この辺りは下呂温泉の中心街なので本来ならば観光客でごった返す場所であるが、コロナ禍のため人が歩いていない。老舗ホテルの小川屋や水明館は宿泊者がゼロで寂しい限りである。人がいない温泉街を散策し温泉神社を参拝してから加恵瑠神社(カエル)も訪れた。この神社は平成22年、下呂の「ゲロ」にちなんで、ネーミングと「無事帰る」の語呂合わせのユーモア、縁起担ぎ、ご利益を楽しむスポットである。この近くに下呂の湯之島宿の史跡を説明する石柱が立っている。「湯之島宿本陣、飛騨屋武川久兵衛宅跡、文化11年伊能忠敬測量宿泊跡」と記してある。
 散策を終えて下呂大橋を渡り下呂駅に着いたが、人がいない。高山本線の特急ワイドビューひだ号に乗車したのは自分を含めてたった二人だけであった。ここで一旦、帰宅し街道歩き5日目は5月14日に下呂駅からスタートする。阿多野橋から西へ向い、飛騨街道の下呂の宿場町「湯之島宿」の木戸をくぐりると、道標が立っている。飛騨街道と南北街道の追分である。南北街道は裏木曽街道とも言い下呂から中津川までの街道で私は平成29年に3日かけて歩いている。
 さて下呂温泉博物館の前を通り、やがて郊外に出る。春のさわやかな風に押されて気分よく歩く。飛騨川沿いの道は歩道は付いているが川にせり出し不安定な感じの歩道であるので高所恐怖症の私にとっては嫌な道であった。まもなく下呂温泉北口の交差点に着くと下呂トンネルから出た国道41号と交差するが、旧道は山寄りの登り坂に差掛かり汗が止めどもなく流れる。やっとの事で坂を登り切ると東上田口バス停で休憩し、水分補給と飴を頬張る。山腹にある東上田の集落に街道は通っているが、なぜ飛騨川沿いの平坦な道ではなく、こんな山中ルートなのか不思議に思った。途中、江戸時代から続く奥田接骨院の古い屋敷や東禅寺、東上田分校跡を通り、今度は下り坂に変る。のどかな田舎道を歩いていると軽四トラックに乗った電器店の人が「気を付けて~」と言ってくれた。また、入り組んだ道に迷ったので田植えをしていた農夫の方に尋ねたら親切に教えてくれた。坂を下ると国道41号と合流し、目の前に瀬戸ダムを見る。保木口の交差点付近に「飛騨街道、益田街道 跡」と言う道標があった。
【禅昌寺】 街道は飛騨川沿いの道を歩き、下呂洞門に差掛かる。ここも歩道は付いているが、車が通ると振動するので恐かった。しばらくすると右折する細い道がある。これが旧道ルートである。家がまばらな田園地帯を進むと立派な寺院が見えてくる。これが由緒ある禅昌寺であり、J Rの駅名にもなっている。
 禅昌寺は亨禄元年(1528年)飛騨萩原の桜洞城主、三木直頼によって創建され円通寺と称した。後に天文23年(1554年)に後奈良天皇から「十刹」の綸旨が与えられ、その後、寺号を禅昌寺と改め臨済宗妙心寺派の名刹となる。この三木家と恵那の岩村遠山家は親戚関係にあり、禅昌寺の初代住職が岩村の大円寺の住職を兼ねていた。境内には立派な大杉と美しい日本庭園がありウットリする。この寺の駐車場で昼食弁当を食べた。
 食後、北へ向って歩くと六所神社にも大杉が立っていた。更に進むと銀花荘に着く。「銀花」とはスイカズラ(つる性植物)の事で5月から7月にかけて甘い香りがする花を咲かせるそうだ。この名前を取った銀花荘は旧千田家邸宅で、伝統的な益田造りを今に伝えて国の登録有形文化財に指定されている。街道は中呂郵便局を過ぎ萩原町に入る。
【萩 原】 花池南の信号で国道257号と交差し、左折すると馬瀬(まぜ)へ行く。街道は直進しケーズデンキ、ローソン、バローなどの店舗を通過する。街道筋には花池天神があり、下呂唯一の学問の神様である。飛騨川はこのあたりでは益田川と呼ばれ、益田橋を左手に見ながら進むと十王堂、妙覚寺を通り中心部に至る。
 しばらく歩くと高台の上に諏訪神社が立っているが、石垣と堀に囲まれた広い境内を持つ。諏訪神社は鎌倉時代の嘉暦2年(1327年)に創建されたが、戦国時代に入り、豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨を支配していた三木氏を滅ぼし、天正13年(1585年)ここに諏訪城を築城する。しかし江戸時代に入り金森氏は高山城を本城とし、萩原の諏訪城を支城としていたが、元禄5年(1693年)に出羽の上山(山形県)に転封され、天領(幕府直轄地)となって廃城となる。その後、宝永6年(1709年)に元の諏訪神社が124年ぶりに復活し現在に至っている。私が訪れて見た時は、神社の周囲は石垣と堀に囲まれ、保存状態は良好であった。萩原の町中を歩くと道標に「飛騨街道萩原宿」と表示してあった。
 萩原小学校を過ぎると郊外に出るが朝霧橋の近くに桜谷公園があり、その山の上に桜洞城跡がある。そこから街道は高山線に沿って北上するが、途中にJ Rの新型車両の走行を見た。クリーム色のスマートなデザインの車両で「試運転」と表示してあった。街道はまもなく左手に飛騨川公園、右手に久津八幡宮が見えてくる。飛騨川公園は飛騨川の河川敷にあり、スポーツ、ピクニック、バーベキューなどの利用が出来る。久津八幡宮は飛騨国の二之宮とされる社格である。一之宮は宮峠を越えた水無神社である。仁徳天皇65年(377年)、武振熊命がこの地に応神天皇を祭祀したと伝えられている。
 その後、平治元年(1159年)源義朝の長男、源義平(源頼朝の兄)がこの地を訪れた時、鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請して本殿が創建された。この本殿にある彫刻「水を呼ぶ鯉」は近くの益田川の水を呼び寄せ洪水を起こすので「矢の彫刻」を添えると洪水は起こらなくなったと言う。また、ここの夫婦杉は樹齢1200年、幹回り12mの雄雌一対の杉で雌木には乳房状のコブがあり、昔から子種授けの信仰がある。参拝を終えて汗を流しながら歩くと左手に飛騨川大橋が見えてくる。
【上 呂】 街道は国道と高山本線の間にある狭い道で一直線に伸びている。単調な直線で歩いても進んでいる感じがなくストレスが貯まる。やがて光雲寺、上呂郵便局、上呂公民館を過ぎて上呂駅近くの自販機で冷たいジュースを買って飲む。乾いた喉を潤し一息つく。上呂橋場の近くから右折するが、そこに鹿供養塚が立っている。この地方の山には猿、鹿、狐がたくさん住んでいて農作物や山林を荒らすので、柵、石垣、落し穴を作って対策を講じていた。文化5年(1808年)この地に大雪が降り6尺(約2m)にも達した。そのため獣たちはエサを得る事が出来ず、谷底や川岸で餓死し、千数百と言う死骸が放置された。いかに害獣とは言え、余りのいたわしさを供養する事になり、ここに碑が立てられた。
 そこから坂を登ると山の中腹に「お美津稲荷」があり参拝した。商売繫盛の神様であるが、この稲荷は益田街道きっての親分で、美人に化けるのがうまく「お美津」と呼ばれた。親分キツネが繰り広げる「お美津ギツネ」の伝説が今も語り伝えられている。
 そこから街道は山道から田園地帯を抜け飛騨川の南岸沿いを東へ進み飛騨宮田駅に着く。ここで一旦、帰宅し5月18日に6日目の街道歩きをスタートする。この日は朝から快晴であった。飛騨宮田駅で下車したのは私一人だけであった。駅前に「飛騨宮田駅建設の由来」が掲示してあった。当初の高山本線には、ここに駅はなかったが、昭和30年に無人駅が開業した。飛騨の衆議院議員の岡村利右衛門が国鉄に働きかけて駅の設置が認可されたが、用地の提供、建設工事、資金の調達など、すべての建設費と労力を地元が負担したので、今でも「おらが駅」との意識が強く、掃除や花壇づくりなど地元民で維持されている。
 駅から数分の所に賢誓寺(げんせいじ)があり参拝した。正和3年(1314年)覚如の弟子、覚淳により創建された真宗大谷派の寺院である。昭和6年に植えられた枝垂桜が有名である。上宮田のバス停を過ぎると下呂市萩原町から小坂町に入る。
 
 
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