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日本の街道歩き〔79〕飛騨街道①

 投稿者:小林 潔  投稿日:2021年 6月12日(土)17時44分26秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
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  【街道の概要】 飛騨街道は飛騨の小京都と言われる高山を目指す街道である。しかし、高山への道筋は幾つかのルートがある。伊勢街道のルートが名古屋、京都、奈良、和歌山、尾鷲などから伊勢神宮を目指すルートが沢山あるように、飛騨街道も信州、越中、加賀、越前、美濃から高山に向うルートがある。
 岐阜県内の一般的に知られているルートは2つある。①中山道の太田宿から分岐する飛騨南街道と②中山道の岐阜・加納宿から分岐する飛騨西街道である。両方とも飛騨金山で合流して、下呂、萩原、小坂、久々野を経由して高山へ向う道筋である。
 2年ほど前に東海テレビ「はじめまして街道歩き」で高井一(たかいはじめ)アナウンサーが1年以上かけて飛騨西街道を歩かれたが、私は自宅の多治見から近い美濃太田スタートの飛騨南街道を歩く事にした。この飛騨街道は律令時代の東山道・飛騨支道でもあり古代から多くの人々が旅した道である。
【美濃太田】 ゴールデンウィークの連休はコロナ禍の第4波の中にあって、人出は少ないと判断し令和3年5月3日に出発した。J R美濃太田駅で電車を降り南へ10分ほど歩くと中山道ルートに到着する。中山道は私の最初の街道歩きとして平成20年に32日間かけて東京から京都まで歩いた街道である。太田宿は中山道69次にあって、江戸から51番目の宿場である。
 私がスタートしたのは太田宿の東の入口にある祐泉寺である。早朝であったので木曽川堤防をジョギングや、ウォーキングする人を多く見かけた。祐泉寺の創建は文明6年(1474年)であるが、寺内には、山岳修行で有名な播隆上人の墓碑、日本ライン名づけの志賀重昴の碑、太田宿出身で小説家の坪内逍遥の歌碑、松尾芭蕉の句碑などがある。
 ここから東へ5分ほど歩くと法華経塚があり飛騨街道追分の説明文が掲示してある。さらに東へ数分歩くと神明堂の交差点に着く。木沢記念病院の南側の角である。この病院は私の孫の詩乃(2009年生れ)と蒼大(2018年生れ)の生誕地である。この交差点が中山道と飛騨街道の追分であり、北東角に石道標が立っている。明治時代に名古屋の商人・伊藤萬蔵が寄贈した道標で「右、東京・善光寺、左、飛騨高山・八百津」と読むことができる。ここから南東へ進むと、木曽川の「今渡の渡し」を越えて伏見宿、御嵩宿へ向う道となる。そして北東へ一直線に伸びる狭い道が飛騨街道である。
【古 井】 街道は島町から中富町へ進み、J Aの角を左折すると大きな鳥居をくぐる。そしてJ R太多線の踏切を越すと、古井神社(こび)の正面に出る。創建は慶長年間(江戸時代初め)であるが、明治42年に元津島神社、八王子神社、中富神社が合祀して、現在の古井神社となった。毎年4月に祭礼があり、鬼の面をかぶったハエ追い男がササラと呼ばれる竹の棒で参拝者の頭を軽く叩き厄払いをする。子供はこれで賢くなると言う。参拝を終え鳥居の前で写真を撮ろうとすると、デジカメの操作を誤りファインダーに映像が映らなくなってしまい、悪戦苦闘する。15分もいじったが元に戻らず、諦めてもう1台、持参していたカメラにS Dカードを入替えて撮影した。最近の街道歩きで撮影に関わるトラブルが続き、自分の不注意を反省している。
 さて気持ちを取り直し出発すると国道248号の高架下を通り、古井小学校を通過する。美濃加茂市東図書館の近くに禅隆寺があり立寄る。臨済宗妙心寺派の寺で本堂も山門も新しかった。境内には美しい日本庭園があり、ウットリ眺めて癒された。さらに進むと古井の商店街に入るが、商店は活気がなく、花や野菜を売る店にだけ、数人の客が集まっていた。その商店街の中にJ R古井駅があるが、無人駅であった。
 街道は直進するが右へ行くと飛騨川に架かる青柳橋へ向い、小山観音に着く。正式名は小山寺(しょうざんじ)と言うが通称、小山観音である。飛騨川の中の小さな島にあるが、木曽川の今渡ダムが完成した時、水没して岩山が孤島になり現在は橋で繋がっている。街道は右手に青柳大橋を見ながら北上すると美濃加茂市から加茂郡川辺町に入る。
【川 辺】 飛騨川沿いに歩くと東海環状自動車道の高架手前に一軒の店が建っていた。看板には「飛騨街道名物、小田巻あります」と書いてある。明治28年創業の小田巻屋である。買って食べたかったが数人が並んでいたので諦めた。このあたりで飛騨川から吹くさわやかな風に押され気分よく歩き続ける。下川辺公民館の付近に常夜灯が立っていて街道気分を醸し出す。宮裏から西栃井に入ると禅原寺、栃井神社を参拝しながら進む。この近くに中部電力の川辺ダム水力発電所がある。
 街道はまもなく中川辺の町へ入って行く。くねくね曲がった狭い道を進むと、川辺町役場、川辺中央公民館に着く。時刻は11時半を過ぎていたので、休日で閉まっている役場の玄関先にレジャーシートを敷いて昼食に、おにぎり?3個を頬張った。
 腹ごしらえを終えて飛騨川沿いに北へ進むと川辺漕艇場に着く。連休中で駐車場は、ほぼ満車であった。ここは全国屈指のボート競技場である。川辺ダムの竣工により、川の流れがなくなりボート競技に絶好の立地となった。全国から多くの選手が集まり、合宿が行われる。地元の高校生や中学生も練習しており、ここから米田富士や山川橋の美しい景色が眺められる。私がここに立寄った時は、1人用、4人用、8人用のボートがたくさん湖に浮かび、掛け声に合わせてオールを漕いでいた。
 そのあと街道筋に戻り、太部古天神社を参拝する。立派な社殿だが創建時期は不明である。江戸時代は川辺村、石神村、鹿塩村(かしお)、栃井村の産土神として川辺総社と言われた。街道はJ R高山線に沿って北上し石神地区の神明神社、本覚寺を通過する。道端に中部北陸自然歩道の道標があり、あたりは広々とした田園地帯である。まもなくJ R下麻生駅を右手に見ながら進み、南天の滝入口を通る。前方に飛騨川橋が見えてくると、まもなく国道41号と合流する。この付近では「うなぎ屋」の店が数軒あり、いい匂いがしてくる。臨川寺付近で国道から離れ、川沿いの狭い道に入る。約1kmほど古い建物が並び、街道の宿場を思わせる光景である。下麻生大牧と言う交差点に山口鉄工の工場があり、まもなく川辺町から七宗町に入る。
【七 宗】 この頃、帰りの列車の時刻が気になってきた。J R高山線は2~3時間に1本しかなく乗り遅れたら長時間待たなければならない。右手に国道、左手に線路を見ながら、その間を進むとファミリーマートの近くに出る。その裏手が旧道であり、私の次男の嫁の在所である岩田住建の前を通る。時間があれば挨拶のため立ち寄りたかったが、電車の時刻まで、あと2km余を25分で歩かなければならず、急ぎ足で素通りした。
 国道と合流すると楕円形の建物の「日本最古の石博物館」の前を通る。1970年にこの近くの飛水峡の河床で発見された石が20億年前のもので日本最古と鑑定され、それを陳列するため七宗町に博物館が造られた。しかし最近、島根県で25億年前の岩石が発見され、日本第2位となってしまった。七宗町は博物館の名称を「日本最古」からどんな名称に変更するか検討中であると言う。その隣の「道の駅ロックガーデンひちそう」は連休中とあって駐車場には多くの車が集まっていた。
 街道は右手に七宗橋を見ながら直進し、J R上麻生駅に向かって進むが、時間があと5分しかない。残り数百mを小走りで進むと鉄道の上越しの陸橋を渡って大廻りしなけれならないが、それでは間に合わないので野原を横切り、改札口を通らず、通ってはいけない所を強引に進み直接プラットホームに駆け上がった。時間は発車時刻ピッタリであったが列車は来ない。すると列車は7分遅れで到着するとアナウンスがあった。必死になって急いだが、結果だけみると「骨折り損のくたびれ儲け」で、むなしいのか喜ぶべきか複雑であった。
 ここで一旦、多治見へ戻り2日目は5月8日に再び上麻生駅から出発した。早朝7時半過ぎから歩き始めたが駅周辺には人が全くいない。駅の北の方に七宗町役場はあるが街道は東へ進み赤色の麻生橋から飛騨川の流れを眺める。そこからさらに東へ行くと有名な景勝地「飛水峡ロックガーデン」に着く。ここは飛騨木曽川国定公園内にあって七宗町から白川町に亘り約12kmの険しい断崖が造り出す景観は見事と言うほかない。甌穴と呼ばれる円形状の「ポットホール」が、約800個も散在し、昭和36年に「飛水峡の甌穴群」として国の天然記念物に指定された。昭和45年3月に飛騨川の河床から約20億年前の「上麻生礫岩」が発見され、当時は日本列島最古の石と鑑定された。
 街道は飛騨川の右岸に沿って狭い道を進み、大柿橋を渡って左岸に出て国道41号と合流する。国道は歩道が付いていない所が多く、危険で歩きにくい。途中、小さな集落を越えて、やがて七宗町から白川町に入る。
【白 川】 国道41号はかなり車の通行量が多く、気を付けなければならない。まもなく国道沿いの「天心白菊の塔」に着く。これは昭和43年8月18日に起こった「飛騨川バス転落事故」の現場である。岡崎観光の貸切バス15台が乗鞍岳に向っていたが、猛烈な集中豪雨に伴う大規模な土砂崩壊に巻き込まれた。その内、5号車と6号車が濁流の飛騨川に転落し107名のうち、104名が死亡すると言う日本バス事故史上最悪の事故となった。この時、国鉄高山本線の上麻生駅と白川口駅の間で線路が土砂崩壊で埋没したが列車は走っておらず死者はいなかった。国道41号は今でも落石の危険が至る所にあり、恐怖を感じる。
 そこから上流へ800mほどの所に中部電力の上麻生ダム(大正15年建設)がある。規模は小さいが、ちょうどダムの放流が行われていて壮観であった。バス転落事故の時、他のバス乗客は落石の危険から逃れるため、豪雨の中、この上麻生ダムまで歩いて避難し、ダムの機械室や資材倉庫で一夜を過ごしたと言う。
 街道は飛騨川の左岸を北上して、やがて白川の町並に入る。左手に飛泉橋を見ながら白川口交差点を右折して白川口トンネルに入る。出ると白川町民会館、白川商工会を通り飛騨川の支流の白川に架かる天神橋を渡る。河股神社を過ぎると、今度は飛騨川に架かる白川橋を渡るが、これは私の苦手な吊橋であり、嫌な気持ちになったが思ったより揺れが少なく安堵した。
 橋を渡るとJ R白川口駅の前を通り国道41号と合流し北へ向う。一人の青年が大きな荷物を積みサイクリングしていた。荷物量からすると長距離サイクリングと思われた。暫く進むと寒八と言う数軒しかない小さな集落を過ぎる。今度は5~6台の大型オートバイのツーリングに出逢う。ブルンブルンと爆音を立てて猛スピードで走って行く。飛騨川はこのあたりで大きく蛇行するため、街道も島口、牧、下桐、大利の集落を通って白川病院に着く。その裏手に明応元年(1492年)創建の大利白山神社があり、幹囲6m高さ30mの大杉を見物する。そこで三脚を立てて写真を撮っていると、生れたばかりの赤ちゃんを抱いた若いお母さんから声を掛けられ「どこか歩いてみえますか」と尋ねられた。「太田から高山までの飛騨街道を歩いています」と言うと「凄い事をしていらっしゃるんですね」と言われ、しばし会話をすると多治見の方であった。故郷は白川町であるが結婚して多治見に住み、出産のため実家に戻って来ているとの事であった。写真を撮り終えて彼女の家の前を通る時、お父さんから「頑張って下さい」とエールを送られた。意外な出逢いに気分がよくなり足取りが軽くなった。
 再び国道と重なり七曲橋を渡ると道の駅「美濃白川」に着くが休憩なしで先を急ぐ。鷲原橋を渡って白川北小学校を通過する。飛騨川の奇岩を見ながら小さな洞門を2つくぐり、河東橋を渡って国道を離れ野原の集落に入る。ちょうど田植えの作業中で初夏の景色を堪能した。山の手に野原城址があるが時間がないので野原八幡神社、野原公民館を通って集落を抜ける。
 しばらく山道を歩くと名倉ダムが見えてくる。昭和11年に建設された旧式ダムで左岸に魚道が設けられている。木々に囲まれた狭い山道を歩いていると、中年夫婦のペアサイクリングを見かけた。見たイメージでは奥さんの方がリードしているようだった。下油井郵便局の近くにある坂東橋を左手に見ながら、まもなく下油井駅に到着する。帰りの列車時刻には50分ほどあったので、小さな無人駅の待合室で、持参していた焼酎を自販機で買ったジュースで割って飲み、疲れを癒した。
 街道歩き3日目は、5月9日にこの下油井駅から出発し狭い道を北に向かった。まもなく白山橋を渡り国道41号に合流するが、歩道が付いていないので気を遣う。あたりは茶畑が広がる白川茶の産地である。右手に新七宗発電所を見て、西へ向きを変えるとまもなく白川町から下呂市の金山町に入る。
 
 
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