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日本の街道歩き〔78〕赤穂街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2021年 4月16日(金)20時31分53秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
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  【街道の概要】 古代の国家経営の基幹である五畿七道の重要幹線道路であった山陽道は多くの人々や物資が行き交い、情報、文化、流通、伝播の役目を果たしてきた。江戸時代になると、参勤交代が制度化され、道の名が西国街道と呼ばれるようになり、人馬乗継ぎを担う問屋場・立場や本陣・脇本陣・旅籠などの宿泊施設が整備され、旅人の指針となる一里塚などが設置された。
 西国街道は京都の東寺から下関の赤間関まで結ぶが、播磨国(兵庫県の一部)の姫路から津山方面へ向う美作街道(みまさか)、相生から赤穂へ向う赤穂街道が分岐している。私は、その姫路と赤穂を結ぶ播磨の街道を以前から歩きたいと思い、コロナ禍の緊急事態宣言が解除されたタイミングと桜の開花を見定めて踏破した。
【姫 路】 出発は令和3年3月29日。名古屋から姫路に向う新幹線は空席が多く、特に新大阪を過ぎると一車両に数人の乗客しかおらず、密になる心配はなかった。早朝8時半頃に姫路駅に到着し、20分ほど歩いて姫路城大手門に着いた。姫路城はこれまで何度も訪れているが、外国人観光客やバス団体観光客で大混雑していたのがうそのように閑散としていた。そのお陰で城内の写真撮影が楽で、天守閣入場の待ち行列はまったくなく、満開近い桜並木を愛でながらスムーズに見学ができた。姫路城は2009年から2015年まで6年間の「平成の大修理」期間中は美しいお城が見えなかったので、修理完了後、初めての見学に胸がときめいた。
 私が日本の風景で大好きなものは「富士山、桜、お城」である。特にお城には歴史があり天守閣や石垣を見つめていると、日本人の心の古里のように思える。日本の城の内、現存天守閣は12城あるが、中でもダントツで美しいのは姫路城である。外国の城も興味があり、ドイツのノイシュバンシュタイン城は「新しい白鳥の城」(ドイツ語の訳) と言う意味であるが、「白鷺城」の別名を持つ姫路城には勝てない。
 姫路城の創建は貞和2年(1346年)赤松貞範が最初に築き、城主は度々変わるが、天正9年(1581年)羽柴秀吉が三重天守を築く。現在の五層七階の連立式天守閣は慶長14年(1609年)池田輝政が築いた。城内には国宝が8棟、重要文化財が74棟もあり、池田氏、本多氏、榊原氏、酒井氏、松平氏、酒井氏が目まぐるしく入封し、明治維新を迎えている。
 この姫路城には3つのエピソードがある。 ①徳川家康の孫娘である千姫は大阪城の豊臣秀頼と結婚するが、大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶ。しかし奇跡的に救出され、本多忠刻と再婚し姫路城の化粧櫓に住み、夫婦睦まじく暮らした。が、忠刻が31歳で病死すると江戸城へ帰り、70歳で生涯を閉じている。 ②明治維新の時、城が民間に払下げられ百円で落札したが、取壊し費用が莫大である事が分かったため、落札者は返納し、その後、陸軍歩兵第10連隊が駐屯した ③昭和に入り、太平洋戦争で姫路市も大空襲を受け姫路城の天守閣最上階に焼夷弾が命中する。しかしそれが不発弾であったため、幸運にも奇跡的に焼失を免れ、現在に至っている。
 さて1時間も費やして見学、花見、撮影を終え、隣にある好古園へ向う。ここは姫路城の西御屋敷があった所で、姫路市制100年記念事業として、平成2年に開園した豪華な日本庭園である。池泉回遊式庭園が9つもあり、総面積は1万坪もある。庭園のたたずまいは江戸時代を彷彿とさせ、映画やドラマのロケ地として良く使われるようだ。私が入園した時は、観光客を一人しか見かけず、写真撮影は思いのままで日本庭園の美しさをタップリ堪能できたのは嬉しかった。
【播磨高岡】 姫路城と好古園の見学が終り、人通りの少ない街道を西へ向って進む。街道ルートは国道2号線より1本北の狭い道である。しかし住宅街の中を通るので昔の面影はまったくない。単調な路地を歩くとJ R姫新線の播磨高岡駅近くの線路を上越えする。時刻は午前11時頃であったが、早朝の朝食のため空腹となり食事場所を探すが、郊外を歩いているため見当たらず、スマホのグーグルマップで調べても無さそうであった。そこで街道沿いの「セブンイレブン下手野東店」に入り幕の内弁当を買ってコンビニの隣の空き地で食べた。食後すぐに夢前川(ゆめさき)に架かる夢前橋を渡るが、川の両岸に桜並木があり、八分咲きであったが癒された。橋が苦手な私であるが、橋の歩道幅が広く高所恐怖症は起きなかった。
 この夢前川は播磨五川と呼ばれ、他に加古川、市川、揖保川(いぼ)、千種川があり、いずれも播磨灘に注いでいる。街道は国道2号と重なり、通行量の多い道を歩くと、やがて登り坂となる。しばらくして右手に見える青山ゴルフクラブあたりに差掛かると、姫路市から揖保郡(いぼぐん)太子町に入る。
【山 田】 坂道は笹ヶ峠に差掛かるが国道2号を歩くので、排気ガスと騒音に悩まされる。峠の頂上あたりで国道から分れ旧道に入るが、山田の集落に入る前に道に迷い少々焦ってしまう。車道に出ると「国道2号太子竜野バイパス」の高架が見え、太子東I.C近くで高架をくぐり、国道179号に入る。左手に上之池と言う溜池が見え、山田1号、2号古墳を探すが見当たらなかった。
 まもなく街道は山陽新幹線の高架と並行し、しばらく列車の爆音を聞きながら歩く。右手に太子メモリアルパークがあり、ここの桜は満開を迎えていた。その先で国道179号から分れて右折する所に題目石と言う大きな石碑が立っていたが、行書で書いてあるため読むことが出来なかった。
 街道は登り坂となり車が通らない狭い道を歩く。この頃、スマホのLINEが良く鳴り街道歩きの応援メッセージが入るので短文で応答しながら歩く。山道に差掛かると竹藪の中に古い井戸があった。「桜井の清水」と言われ、昔の旅人は、ここで休憩して乾いた喉を潤したのだろうか。石碑に和歌が刻んであったが、不明瞭で詠めなかった。その先の右手に黒岡神社の鳥居と大きな常夜灯を見て進むと太田の地蔵を見る。そして小さな大津茂川を渡る。
【太 子】 街道は太田の町並みに入り、住宅地の中を歩く。まもなく、太田小学校の前を通るが運動場では子供たちが「キャッキャッ」と騒いで遊んでいた。3月末なので春休みに学校へ来て遊んでいるようだ。このあたりで、かなり暑くなり、腕まくりするが汗が出て喉が乾く。小学校前の自販機で冷えたピーチネクターを買って飲んだが、濃い桃のジュースで美味しかった。しばし腰かけて足の疲れを休ませた。南の方角に小高い立岡山が見え、そこに聖徳太子の感動岩があるが、遠くから眺めるだけにした。さらに西へ進むと太子町の中心街に入る。エディオンやユニクロなどの大型店が立ち並び人通りも多くなった。太子郵便局を過ぎて、すぐに右折して5分ほど進むと斑鳩寺(いかるがでら)に到着する。ここは兵庫県揖保郡太子町であるが、聖徳太子ゆかりの斑鳩寺なら、奈良県の飛鳥地区なのに、なぜここが太子町なのか下調べの時まで不思議に思っていた。推古天皇14年(606年)聖徳太子が法華経を天皇に講じられ、これに御感された天皇より播磨国揖保郡に土地360町歩を賜った。大和国斑鳩の里から移住してきた人々が当地の荘園を「斑鳩荘」と命名し、伽藍を建立した。市内には鵤町(いかるが)と言う漢字を用いた町名もあった。平安時代には法隆寺の荘園となり、斑鳩寺は法隆寺の別院として七堂伽藍、数十の坊庵で壮麗を極めたが、戦国時代の天文10年(1541年)赤松氏と山名氏の戦禍を受け、すべて灰塵と化した。その後、龍野城の赤松氏が再興し、さらに豊臣秀吉から300石の寄進を受け、江戸時代には歴代将軍の御朱印地となった。私が見学した三重塔は永禄8年(1565年)に再建されたもので、また聖徳殿は大正5年に法隆寺夢殿を模して造営されたものである。
 さて参拝を終え南へ向うと前方に小高い丘が見える。それは太子山公園と呼ばれ、聖徳太子像が立っているのが見えた。まもなく太子町役場を通るが、建物はモダンなビルであった。飛鳥時代の寺院風な建物かと思っていたが、予想は外れた。郊外に出て田園地帯に入ると、道は狭く曲がりくねって街道らしい道筋となる。途中「阿宗神社丁石」や「茶屋垣内の地蔵」を見ながら林田川の方へ進む。このあたりから南へ1kmほどのところに剣豪の宮本武蔵の生誕地がある。
 宮本武蔵は天正10年(1582年)播磨国揖保郡宮本村(現在の石海神社付近)で生まれたが、美作国宮本村が出生地と言う説もある。これは吉川英治の小説「宮本武蔵」に書かれているが、武蔵が書いた「五輪書」には生国播磨と記載されているので美作は誤りと思われる。父は赤松氏の支流、新免氏の一族であると言われる。五輪書には、武蔵は13歳で新当流の兵法者、有馬喜兵衛と決闘して勝利し、16歳で但馬の秋山と言う強力な武芸者に勝利したと記載されている。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の時は、豊前(福岡県)を領有していた黒田如水の家来として東軍側で九州各地を転戦した。その後、京都の室町幕府の兵法指南役である吉岡一門との決闘に勝っている。そして最も有名な決闘は佐々木小次郎と巌流島で戦って勝利した事である。生涯で60回余りの勝負すべてに勝利している。それから幾つかの変遷があり、寛永17年(1640年)熊本藩の細川家に仕え、正保2年(1645年)熊本で62歳の生涯を閉じる。今年は東京オリンピックが開催されるが、漢字で「五輪」と名付けたのは読売新聞社である。それは宮本武蔵が書いた兵法書「五輪書」が由来となっている。
【竜 野】 街道は林田川を渡って太子町から「たつの市」に入る。J R駅名は竜野であるが、市の名前は、ひらがなの「たつの市」である。これは平成17年当時の龍野市、新宮町、御津町、揖保川町が合併した時に命名されたが、周辺の町村を憚ったものであろう。なおたつの市の中心は街道の林田川の渡しより北へ3kmほどのところであり、そこには龍野城の城下町があったところである。龍野は脇坂藩5万3千石の城下町であったが、現在の人口は7万6千人の地方都市である。
 この頃になると、中国から飛来する黄砂で空は霞んでいるが、直射日光を浴びずにいられるので助かる。しかし、暑さは増し、街道沿いにあったファミリーマートで75円のガリガリ君を買い、しばし休憩した。 再び新幹線と並行して歩くが、乗願寺や揖保小学校の満開の桜を見て癒された。J R山陽本線の踏切から北に向きを変えると揖保中学校の前を通る。そこから西へ向きを変え、国道2号と合流して大河の揖保川大橋を渡る。昔は「揖保川の渡し」があった所である。橋を渡ると正條宿に入るが、道は狭いが宿場の面影はまったくない。J R竜野駅を過ぎ、郊外へ出てしばらくすると片島宿の集落に入る。宿場間距離が短い理由は分からなかった。街道はたつの市から相生市へ入る。
【相 生】 街道筋の西池、塚森古墳を過ぎ、市街地へ入って行く。まもなくJ R相生駅の前に出て前日に予約しておいた駅前のビジネスホテル「相生ステーションホテル」にチェックインするが、小さなトラブルにあう。フロントで名前を言うが予約は入ってないと言われた。予約はしてあると言うと受付係はパソコンを何度もチェックしていたが、「予約受付の記録が入っておりません。申し訳ございません。しかし部屋は空いていますのでお泊りになって頂けます」と悪びれた表情で言われ、朝食付き料金5750円を支払って7階の部屋に入った。
 1日目は久しぶりの長距離で疲れ、直ぐに風呂へ入り隅々まで良く洗った。入浴後、相生駅前のコンビニで買った缶ビール2本を飲んで弁当を食べ、パジャマ姿でビールを飲む自分を写真に撮った。スマホのLINEで応援者に写真やコメントを送信し、午後9時過ぎには熟睡に入った。翌朝5時40分に起き、リュックザックの荷物支度をして食堂のバイキング朝食に行った。料理の数量から推測して宿泊者は5~6名であった。しかし20種類以上の献立が用意されており、これではホテルは赤字ではないかと思った。コロナ禍の影響で経営が大変かと同情する。
 さてホテルを7時にチェックアウトして相生駅前に出るが、霧が立ち込めていた。新幹線が停車する駅なので、さぞかし大きな駅かと思ったが駅舎は小さく乗客も少ない。現在の相生市の人口は2万9千人で著しい人口減少に悩んでいる。何はともあれ2日目の街道歩きをスタートする。駅から南へ5分ほど歩くと西国街道の筋に出る。5差路の交差点が追分である。東は姫路、西は岡山、南西は赤穂である。追分の石道標があり、写真を撮ろうと三脚を立てるが通勤、通学の人たちは無言で通り過ぎる。狭い路地に入り赤穂浪士の「神崎与五郎の孝子井戸」を探すが見当たらなかった。その先の芋谷川(おこく)に架かる芋谷橋を渡ると、右手に那波公園(ななみ)があり、桜が満開であった。那波小学校を過ぎると漁船が停泊する那波港に着く。小さな港で今回の街道歩きで初めて海を見る。佐方川に架かる工和橋の手前で国道250号と合流し、車の通行量が多くなる。
 街道は相生産業高校、J R西相生駅を過ぎ、登り坂が始まる。赤穂街道最大の難所である高取峠に差掛かる。飛鳥時代はこの辺りは鷹が多く生息し、鷹狩りの名所であったので「鷹取峠」と呼ばれた。これがのちになって漢字が変り「高取峠」となった。今は国道250号と重なり、車の往来が激しく、しかも歩道が無く、路肩が30cmもない道である。カーブでは急に車がかすめる様に接近して来るので、危険極まりない。峠道の脇に「高取峠トンネル早期着工」と言う大きな看板が掲げてあったが、道幅が狭く、急カーブが多いので、その意味がうなずけた。こんな道を歩く人はまず、いないだろう。と言って自分は歩いている。でも所どころに満開の桜が咲き、登り坂の苦しさを癒してくれる。かなり登り続けると車が数台駐車できるくらいの空き地があり、ここで休憩して用を足し、飴を頬張った。しばらく歩くと相生市から赤穂市に入る。
【赤 穂】 赤穂市の表示板を通過して1分ほどで高取峠の頂上に到達した。すると右手に小さな公園があり、その隅に「早駕籠像」が立っている。忠臣蔵で有名な「江戸城、松の廊下刃傷事件」の知らせを伝えるため、赤穂藩士の早水藤左ヱ門と萱野三平が早駕籠に乗りこの高取峠を越えたモニュメントである。当時、江戸から赤穂まで最速の早駕籠でも7日はかかるが、この時は昼夜連続で駆け続け、なんと4日半で到着している。ちなみに私の街道歩きなら35日くらいは掛かるだろう。
 ここでしばらく休憩したあと、今度は下り坂が始まる。足取りは軽くスピードが出て汗もかかない。J R赤穂線のトンネルはこの山の下を通っている。やがて坂の勾配が緩やかになって来ると眼下に街並みが見えてくる。平坦な道になると道幅が広くなり、歩道も付いている。天気は晴れているが黄砂のため空はドンヨリしている。
 まもなく千種川に架かる坂越大橋(さこし)を渡る。この橋はまだ新しく、幅が広い歩道が付いているので安心して渡れた。橋を越すと、J R赤穂線に電車が走っているのが見えた。坂越中学校の校庭に満開の桜が咲いている。しばらくすると左折すれば坂越の集落へ行く坂越橋があり桜並木が連なっている。千種川の対岸の町が坂越である。江戸時代は西廻り航路を巡った北前船の寄港地として栄え、赤穂の塩の積出港でもあった。現在でも古い建物が保存され歴史文化遺産を見る事ができる町である。しかし、峠越えで足が疲れ、赤穂城の見学でタップリ時間を取りたいため、寄り道するのを見合わせて、一路、赤穂の城下町を目指した。
 小さな野中橋を渡り赤穂警察署の角を左折すると市街地に入る。イオン、マルハン、エディオン、赤穂市文化会館などが立ち並び、加里屋を通り中広を右折すると赤穂城の大手門に着く。私は播州赤穂城には平成21年に名鉄日帰りバスハイキングで来た事があるので12年ぶりであった。赤穂と言えば忠臣蔵で良く知られ、映画やテレビドラマで頻繁に取上げられ、日本人なら誰でも知ってる歴史舞台である。12年前と比較して変わった事は、城内の至る所で再建工事が進んでおり、石垣、門、塀、櫓、庭園などの復元が進んでいたのに驚いた。
 赤穂城の創建は慶長5年(1600年)姫路城主、池田輝政の弟、池田長政が築城し、池田氏の分家が代々3万5千石の大名として継承していたが、正保2年(1645年)池田輝興が発狂により正室を殺害する「正保赤穂事件」を起こし改易となる。そのあと、広島藩浅野家から分家した浅野長直が入封する。長直は城の改築、城下の上水道整備、赤穂塩の開発など藩政の基礎を固めた名君である。長直の孫が忠臣蔵に登場する浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)である。9歳で家督を継ぎ、筆頭家老の大石内蔵助に藩政を任す。 長矩は天和3年(1683年)に霊元天皇の勅使饗応役を拝命し、高家・吉良上野介義央の指南により無事に役目を果たす。その直後、三次藩主(みよし)浅野長治の娘、阿久里と結婚する。元和6年(1693年)備中松山藩(現在の岡山県高梁市)の水谷家が改易になったので長矩は城請取役を命じられ3500人の軍勢を率いて備中松山へ出向き、無事に城を請け取っている。
 そして元禄14年(1701年)に東山天皇の勅使饗応役を命じられ、1回目の饗応役の時と同じ指南役は吉良上野介となった。ところが3月14日、将軍の「勅答の儀」の日に江戸城本丸松の廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上野介に「この間の遺恨覚えたるか~」と叫び脇差で切りかかる大事件を起こす。将軍徳川綱吉は激怒し内匠頭は即日切腹、播州赤穂藩は改易、お家断絶の処分となる。内匠頭は享年33歳。辞世の句は「風さそふ 花よりもなほ我はまた 春の名残りを いかにとやせん」無念であったと思う。ここから忠臣蔵の物語が始まる。翌年、元禄15年12月14日に筆頭家老の大石内蔵助を始めとする赤穂浪士四十七士が江戸、本所松坂町の吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ち、泉岳寺の内匠頭の墓前に首を供えた。この物語は日本人なら誰もが知っているが、私も大きな関心を持っている。私が元禄時代に生き、赤穂藩士であったなら討入りに参加していたと思う。なお、私が平成24年に東海道を京都から東京まで歩いた時、高輪の泉岳寺の赤穂浪士の墓に、京都で買った線香を四十七士全員に備えた。
 さて桜が満開の赤穂城を見学したあと、大石内蔵助旧宅を訪ねた。長屋門だけは残り当寺、江戸から駆け付けた早駕籠の使者はこの長屋門をたたいている。感慨深いものを見た。大石内蔵助の辞世の句は「あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」である。内匠頭の悲壮な歌とは対照的で使命を果たした満足感が汲み取れる。そのあと赤穂大石神社を参拝する。大正元年に赤穂浪士を祀って創建され、参道には四十七士の石像が並んでいる。次に浅野家の菩提寺である花岳寺を参拝し、その近くの「息継ぎ井戸」を見学した。これは早駕籠の2名の使者が江戸から駆け付け井戸の水を飲み、一息ついた場所である。
 赤穂街道の踏破を終え、赤穂駅へ向う途中、駅前の食事処「衣笠」へ立寄り、遅めの昼食を取る。注文したのは「穴子天丼定食」と、ご褒美の大瓶ビール。赤穂名物の大きな穴子天ぷら丼に、赤穂浪士討入りそばが付いていた。討入りそばを食べると「さあ~これから吉良邸に討入りだあ~」と言う気分になった。とても美味しかった。帰路は赤穂駅から在来線で相生駅へ行き、空席だらけの新幹線に乗換えて名古屋へ向った。足がかなり疲れたが念願が叶った街道歩きであった。
 
 
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