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日本の街道歩き〔77〕伊賀街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2021年 4月13日(火)18時06分21秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
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  【街道の概要】 伊賀街道は伊勢国の津から長野峠を越えて、伊賀国の伊賀上野に至る十二里半の街道で、現在の国道163号に概ね沿っている。
慶長13年(1608年)、藤堂高虎が伊勢・伊賀の二国の大名として伊予今治から移封され、津を本城に、伊賀上野を支城としたため、二つの拠点を結ぶ藩の官道として整備された。伊勢国側の美里の追分では松阪市の月本追分を起点とする奈良街道がここで交わり、伊勢神宮への参拝者や水産物・種油・綿などの物資が運ばれるのに利用された。街道は伊勢国側には片田宿、長野宿があり、伊賀国側には平松宿、平田宿があり、現在でも宿場町の面影を残している。
 記録によると、この街道を松尾芭蕉が4回も通行しており、他に吉田松陰、頼山陽、梁川星厳、高山彦九郎など歴史上の人物も通っている。私はこの街道を伊賀上野から津に向って歩いた。
【伊賀上野】 スタートはコロナの緊急事態宣言が解除されて間もない令和3年3月18日で、雲一つない快晴に恵まれた早朝6時に旅立った。多治見から名古屋、亀山、伊賀上野で乗換えて伊賀鉄道の西大手駅で下車したのが午前10時を過ぎていた。直ぐに街道の始点である「鍵屋ノ辻」へ向った。そこは伊賀街道と奈良街道の追分であり、角に大きな石道標「右いせみち、左ならみち」が立っている。ここは日本三大仇討のひとつ「鍵屋ノ辻の決闘」の場所であり、映画やテレビドラマで何度も取上げられた有名な辻である。ちなみに三大仇討の他の二つは①曽我兄弟の仇討ち(建久4年・1193年)、②赤穂浪士の討入り(元禄15年・1703年)である。
「鍵屋ノ辻」事件の発端は、寛永7年(1630年)備前の岡山藩士、19歳の河合又五郎が同僚の17歳の渡辺源太夫を殺害して行方をくらました事から始まる。岡山藩主の池田忠雄は又五郎の行方を探らせると、江戸の旗本直参、安藤治左衛門の屋敷にかくまわれている事が判明したので身柄引き渡しを要求したが応ぜず、大名と旗本の対決に発展した。殺された源太夫の兄、渡辺数馬は藩主から仇討の免許を与えられ、姉婿の剣豪、荒木又右衛門に助太刀を頼み、全国を探し回った。4年後の寛永11年に居場所を突き止め、又五郎が剣術の達人、河合甚左衛門ら11人と奈良から江戸へ向う事を知り、数馬・又右衛門ら4人は、伊賀上野城下の鍵屋ノ辻にある茶屋萬屋で待ち伏せた。ここで史上有名な「伊賀上野鍵屋ノ決闘」が行われ、見事、仇討が成功した。その待ち伏せした茶屋萬屋は復元されて今でも営業している。
 見学と写真撮影を終えて伊賀上野城へ向った。戦国時代、織田信雄(信長の次男)の家臣である滝川雄利が砦を築いたが、その後、天正13年(1585年)に筒井定次によって城郭が形成され、さらに時代が下り慶長16年(1611年)徳川家康の命令で藤堂高虎が大規模な拡張改修をした。現在、近隣一帯は松尾芭蕉を祀る俳聖殿、芭蕉翁記念館、伊賀流忍者博物館がある。この城の石垣は大阪城の石垣と同じ高さ30mもあり、日本一と言われる。なお、現在の天守閣は昭和初期に建てられた模擬天守である。
次に芭蕉の俳聖殿を参拝し「俳句が上手になりますように」と祈願した。私は俳句を始めて4年になるが、なかなか上達できないので、これを契機に精進しようと誓った。歴史上の有名な俳人と言えば、松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶、正岡子規などを知っているが、芭蕉を一番尊敬している。芭蕉は寛永21年(1644年)伊賀の阿拝郡(今の伊賀市) で武家出身の富農、松尾家の次男として誕生し13歳の頃から俳諧の道に入った。私と同じように全国を旅して、多くの紀行文を執筆しているので、街道歩きの先生であり、紀行文の先生であり、俳句の大先生でもある。私にとっては神様のような存在である。芭蕉の紀行文は「野ざらし紀行」(江戸・伊賀上野・奈良・京都・名古屋・甲府・江戸),「鹿島詣」(江戸・鹿島神宮・江戸),「笈の小文」(江戸・名古屋・伊賀上野・伊勢神宮・吉野・和歌浦・奈良・大阪),「更科紀行」(岐阜・木曽・信州更科・善光寺・江戸),「奥の細道」(江戸・日光・白河・福島・仙台・平泉・月山・酒田・新潟・出雲崎・直江津・金沢・永平寺・敦賀・大垣),「嵯峨日記」(京都嵯峨野に滞在して作句)など数多くあり日本全国の街道を歩いている。私も芭蕉の弟子の曽良や宗波たちと一緒に同行したかったな~。 えっ?
 私が最も好きな芭蕉の句は「荒海や 佐渡によこたふ 天の川」である。私が北国街道で出雲崎まで歩いた時、海岸から遠くに霞む佐渡の島影を見て、この俳句を口ずさんだ事を覚えている。
 さて長い時間を掛けて伊賀上野城公園を散策して街道に戻ろうとした時、持参していたカメラの三脚を踏み付けてしまい、壊れてしまった。カメラを設置する事はできるが折り畳み収納が半分しか出来ず、移動は手で持つか、長いままリュックザックに入れるしかなく難儀を強いられた。
 その後、上野の街を歩きだすと「上野天神宮」の前に出る。三脚を立てるのに苦労し写真を撮る。この天神様は菅原神社が正式名であり、菅原道真を主神としている。平安時代に創建されたが、天正9年(1581年)天正伊賀の乱のあと、藤堂高虎による城下町の建設の時、城郭鎮護として祀られた。神社の門の横に「疫病感染除祈願」と言う幟が掲げてあり、コロナ感染症の退散を祈願している切実な状況をくみ取れた。
 街道を東へ進むと伊賀鉄道の広小路駅横の踏切を渡る。市街地を抜け、家がまばらになると寛政11年(1769年)に造られた大きな太神宮常夜灯が見え、街道らしい風景に変わった。矢谷川に架かる車橋を渡る頃、時刻は11時半となり、朝食が5時であったので、お腹がペコペコであった。どこか昼食を食べる所がないかと思ったとたん、目の前に食事処「陣屋」があり、これはラッキーと思い入店した。大浜街道を歩いていた時は食事処を探すのに苦労したが今回は「食べたい」と思った瞬間に見つけたので嬉しかった。しかし、直ぐに食べられる日替定食を注文したが、ボリューム満点は良いが味が今一で少し残してしまった。
【寺 田】 街道はまもなく国道163号と合流し、西明寺、中瀬を通り過ぎると名阪高速道路の中瀬インター近くで高架をくぐる。このあたりは田や畑が広がり田舎風景に変わった。さらに東へ進むと服部川に架かる寺田橋に差掛かる。その橋の手前に大きな常夜灯を見つける。
 下調べではまったく気付かなかったが、その隣に「荒木又右衛門生誕地」の大きな石碑が立っており、説明板が掲示してあった。又右衛門は慶長4年(1599年)伊賀国、服部郷、荒木村に、服部家の次男として生まれた。幼少より備前の池田家に小姓として勤め一時、養子に出されるが後に故郷に戻り、荒木と名乗った。この頃、大和国、柳生村の柳生十兵衛に剣術を学び、後に剣豪となる。その後、大和郡山藩に仕官して渡辺源太夫(河合又五郎に殺害される)の姉、みねと結婚する。妻の弟である渡辺数馬(源太の兄) の仇討に助太刀として協力し、「鍵屋ノ辻の決闘」で又五郎を討ち、一躍有名になる。後に鳥取藩に仕官するが40歳で死去した。
 歴史の勉強をした後、橋を渡り寺田地区に入る。街道は国道163号と重なっているが、国道の幅員が狭く歩道が無いので常に大型車がかすめ危ない。 やがて山合いに入り服部川沿いに進むが、川のせせらぎ、ウグイスの鳴き声、そよ風に押され気分良く歩く。暫くすると「中之瀬摩崖仏」に着く。大光寺に属する阿弥陀三尊像が岩肌に彫られているが、高さは5mくらいである。三体は鎌倉時代から室町時代にかけて順次彫られたもので、服部川の対岸から拝んだと思われる。
【真 泥】 街道を東へ進むと真泥(みどろ)地区に入る。途中、砕石工場があり、騒音と粉塵に悩まされながら、小走りで通過する。やがて山合いを抜け、田園地帯に入ると大きな燈籠が見えてきた。これは千戸(せんど)の大燈籠と言われ高さは4mほどある。しかし燈籠の裏側には明治20年と記してあり、江戸時代に伊賀街道を歩いた旅人は、これを見ていない事になる。
 辺りは家屋がほとんどなく、広々とした田畑が続く。炊村(かしき)、畑村(はた)を過ぎ、真泥橋、真泥大橋を渡ると大山田の集落に入る。
【大山田】 国道163号から分れ、左側の狭い道に曲がると宿場町に入る。昔は平田宿と言われ土蔵や連子格子の家が並んでいる。車や人の往来はほとんどなく静かな町並みである。平田宿は上野宿と平松宿の間が長いので、承応2年(1653年)に馬継ぎの宿として設置されたが、札ノ辻には問屋場(といやば・荷物や馬の継立てをする所)と高札場があったと言われる。寛延年間(1750年頃)の宿場規模は戸数176,人口729人と言う記録が残っている。
 宿場内には大山田保育園、ミニストップ、大山田西小学校、西町だんじり小屋などがある。宿場の中心地あたりには梅屋博物館、札ノ辻、道標などがあり、往時の面影が残っている。
 道を歩いていると地図を持ちながら私と反対方向に歩いている同年配の男性とすれ違い挨拶を交わした。しかし軽装でスニーカーを履き、小さなショルダーバッグ姿なので街道歩き人ではなく只の観光客かと思った。
 宿場の外れに近づくと、東町だんじり小屋、植木神社の前を通る。植木神社は文永年間(北条時宗の頃)に創建され、現在まで続く祇園会例祭は豪華絢爛であると言う。門前には芭蕉の句碑「枯芝や ややかげろうの 一二寸」があるが、解説がないので意味が分らなかった。この前で一人の中年女性がキョロキョロしながら歩き、私が横幕を持って写真を撮っていると物珍しそうにのぞき込んできたが、挨拶をしてこなかった。再び国道163号と交わり服部川沿いに街道を東へ進む。
【阿 波】 やがて山合いの道となり単調な景色を見ながらひたすら歩く。木の館、川北公民館、正覚寺などを通るが見どころがなく足の疲れを感じる。やがて寺坂橋あたりから国道を離れ、阿波の集落に入る。辺りは平地となり、田畑が広がる。小さな宮谷川の土手に満開近い八重桜の並木があり、うっとり眺め癒された。
 地図によれば、まもなく阿波神社があるはずであるが見当たらず、礎石らしきものが残っているだけであった。服部川に架かる新天神橋と大橋を渡り、豊田酒店を左折して川沿いの狭い旧道に入る。このあたりは「平岩の渡り瀬」と言われ、川のせせらぎが心地良い。また、川底まで透き通るほど水が綺麗で、街道筋には満開の八重桜が咲き、春の訪れを実感させてくれる。本当に癒される。
 しばらくすると、小さな道標があり富永橋から新大仏寺への矢印があるが、時間がないので直進する。まもなく国道163号と交わり阿波郵便局を過ぎると左折して平松宿に入って行く。江戸時代初期は平松宿より1.3km東に上阿波宿があったが、万治元年(1658年)、天和元年(1681年)、元禄7年(1694年)、元禄8年(1695年)、元禄9年(1696年)に起きた度重なる大火があったため、宿場を平松に移した経緯がある。
 藤堂家の津藩は本城を津城とするが、支城の伊賀上野城には城代家老を置いた。藩主が伊賀上野巡見のため伊賀上野城へ向う時、長野峠を越えたが、平松宿で休憩するための「お茶場」が設けられていた。
 明治時代になり、伊賀地方に鉄道や国道が整備されると、長野峠の存在は小さくなり宿場は衰退するが、そのままチルド保存されたため、当時の町並みが残っている。平田宿を過ぎると遙か右手の山の上に風力発電の大きな羽根が見えたが、青山高原の風力発電機と思われる。まもなく伊賀街道最大の難所である長野峠に差掛かる。しかし国道163号に長野トンネルと新長野トンネルが開通してからは、旧道はまったく通行が途絶え、やがて樹木に覆われ街道ルートが消滅してしまった。現在のトンネルは長さが2000mもあり、歩くには排気ガスと車との接触危険があるので、トンネルの手前で引返し、バスで伊賀上野の上野市駅まで戻った。
 上野市駅は観光目的のためか正面に「忍者市駅」と言う大きな表示がしてあり、隅の方に小さく「上野市駅」と書いてあるだけである。帰路の鉄道は、上野市駅、伊賀上野駅、亀山駅、名古屋駅で乗継ぎがあり、ローカル線のためそれぞれの待合時間が30~50分もあるので、帰宅に要する時間が約5時間かかるため、駅前のコンビニで缶酎ハイ2本と幕の内弁当を買って列車内で夕食を取り、夜遅く帰宅した。
【平 木】 2日目は、前日壊れた三脚の代わりを持って電車に乗り、近鉄津駅で下車した。この日は山奥を歩くので津駅前のコンビニで弁当を購入してから、バスで平木へ向った。2日目も快晴に恵まれ、バスの車窓からこの日、歩くルートを確認しながら、1時間10分かかって平木に到着した。バスの乗客は津駅から3人のみで直ぐに2人が降車し、終点まで乗ったのは私一人だけであった。それだけ過疎の地域であり、恐ろしいほど山奥で寂しい所である。
 バスの終点は長野峠の麓で、下車してからトンネルの手前まで歩いた。旧国道163号の峠ルートは急カーブが多く危険個所が多いのでその対策として新長野トンネルが建設された経緯がある。長野峠は昔からお伊勢参りの旅人や、奈良や京都の都から伊勢の斎宮まで赴任する皇女が越えた峠である。さらに本能寺の変の時、徳川家康が堺から岡崎へ逃げ帰る時に、この峠を越えている。また俳人の芭蕉が元禄2年に伊勢神宮参拝を終え、伊賀へ帰る途中、峠の茶屋で詠んだ俳句が「初しぐれ 猿も小蓑を ほしげ也」である。
 さて長野峠から平木へ戻り、街道を歩き始めるが、ゴールの津まで下り坂が続くので気分的に軽やかである。下り坂を歩いているとサイクリングの若者が苦しそうな表情をしながらペダルを漕いでいた。声には出さなかったが「頑張れ!」と声援を送った。暫くすると、道路工事個所があり一方通行のため、ガードマンが旗を振って車を制していた。私がそこに差掛かると、無線機で「歩行者が一人、通過しますので誘導願います」と別のガードマンに伝えていた。こんな所に歩行者が現れるなんて予想もしないような顔をしていたが、親切丁寧に誘導してくれたので「ありがとうございます」と礼を述べた。そこから更に坂道を下ると、今度は「ブルルーン!!」と言う爆音をあげてナナハンの大型バイク2台が登ってきた。そのうち後ろのバイクは長い髪をなびかせた女性ライダーであった。革ジャンを着てカッコいいな~と思って見とれていた。
【長 野】 しばらくして急坂の下りから緩やかな道になると、長野の宿場に入る。国道から別れ旧道に入ると道の両側は古い家屋が並んでいるが、人影はまったくない。すると家の前で段ボールの整理をしていたお婆さんと逢い「こんにちは」と久しぶりに人と挨拶をした。長野宿は宿場の機能として問屋場が設置されていたが今はない。商店は一軒もなく、あったのは理髪店だけであったが、らせん状の点灯は回っていなかった。バス停はあるが2時間に1本くらいの運行であり過疎の集落である。
 宿場の南の外れに道標と宿場案内板が立っていたが、その近くに「長野氏城居館跡入口」と言う表示板があった。南北朝時代から室町時代にかけて、ここを本拠に安濃郡と河芸郡あたりを支配した豪族の長野氏の城である。地図によれば、山の中を30分ほど歩くと西の城、中の城、東の城が標高540mの山腹にあると言う。
【美 里】 しばらくして旧道は国道と合流し、車の通行はあるが幅員が狭く歩道が付いていないので車に引っ掛けられないよう注意して進む。分郷、柳谷を過ぎると大東寺の前を通り美里の集落に入って行く。
 まもなく国道から分れ、再び旧道を歩くが、そろそろ昼時になり津駅のコンビニで買った弁当を食べようと適当な場所を探すが見当たらない。街道沿いに常夜灯や一万度碑と言う石碑を幾つも見ながら歩き、再び国道と合流する。すぐに東足坂(ひがしあしさか)と言うバス停を見つけた。屋根とベンチがある停留所で弁当を食べるには最適の場所であった。この辺りはコンビニや食事処がまったくなく、弁当を買っておいたのが正解であった。
 食べ終わってから長めの休憩を取り歩き始めたが、道は平坦に変わった。J A安芸の近くに大きな石碑があり「五百野皇女塚」(いおのこうじょづか)と記してあった。日本書紀によると五百野皇女は第12代、景行天皇の第七女で日本武尊(ヤマトタケル)の姉にあたり、久須姫と呼ばれた。皇女は伊勢の斎王として任を終え、都へ帰る途中、病気のため五百野の地で亡くなり葬られたと言う。
 その先の稲葉バス停の近くに常夜灯や石柱が並んでいる追分がある。直進すれば津へ向うが、右折すると松阪市の月本追分へ向う奈良街道である。「右・さんぐう道、左・津道」と言う道標があるはずであるが、探しても見つからなかった。そこに大きな弘大師の石像が立っていたが真新しかった。ここを過ぎると街道は森の中へ入り、寂しい道を歩き続ける。
【片 田】 森を抜けると、やがて片田の宿場に入る。かなり足が疲れてきたが、足取りはまだ、しっかりしている。街道は国道と重なるが土蔵や連子格子の家が多く残っており、宿場のイメージがある。宿場を通り抜けると周辺に新しい団地が点在している。津の郊外エリアに入り車の通行量が多くなってきた。
 片田志袋団地(かただしぶくろ)の中に坂本山古墳があるので寄り道した。坂道の多い団地の中に小高い丘があり、階段を登ると八重桜が咲いている円墳があった。この坂本山には元々7基の古墳があったが、昭和44年の宅地造成のため壊され、現在3基が残っている。築造年代は4世紀後半から5世紀初め頃で古い方である。古墳からは剣・刀子などの鉄器や、壺・器などの土師器(はじき)が出土している。ここでまた、ハプニングがあった。前日、三脚が壊れたので別の三脚を持参したが、古墳の前で撮影する時、今度は三脚の付け根が折れてしまい、二日連続の三脚トラブルに嘆いた。でも煩雑さはあったが写真撮影は可能だったので不幸中の幸いであった。
 そこから5分ほどの所に平忠盛塚があるので続いて見学した。忠盛塚と呼ばれるこの地は「平氏発祥地」と言われる。桓武天皇の曽孫、高望王を祖とする平氏は、初め東国に土着し勢力を張っていたが、平将門の乱や平忠常の乱のあと、東国は源氏の地盤となり、平貞盛の子、維衡(これひら)の時、伊勢・伊賀を本拠地とするようになった。私が訪れた場所には「平刑部卿忠盛公誕生地塚」と言う石碑が立っていた。山桜の木がある丸い土盛りが忠盛塚であり、50mほど離れた所に産湯池がある。忠盛は太政大臣となった平清盛の父である。なお、伊勢平氏の中には安濃津三郎や桑名冨津二郎と言う武士もいる。かなり時間を掛けて見学が終わると、伊勢自動車道の高架をくぐり、津市内へと入って行く。
【 津 】 街道は殿村、野田を通って五軒町バス停から東へ進み安濃川の手前の櫛形を右折して川沿いに東へ進む。北河路橋を過ぎ、神納町(かのう)の交差点で左折し、国道163号から分れる。すると右手にとてつもなく大きな木が聳えていた。「名残の大木」と呼ばれ、見上げるばかりの高さに驚く。その先に安濃川に架かる納所橋のたもとに小さな延命地蔵尊があり、道中の無事を感謝した。
 この近くに名門の津高校があり、津市立新町小学校の隣あたりに「谷川士清(ことすが) の旧宅」がある。ここは現在、史料館となっており入館して見学した。谷川士清は松阪の本居宣長と並んで日本を代表する国学者である。宝永6年(1709年)現在の津市八町に医者の息子として生まれた。幼い頃から学問に優れ、21歳の時、京都へ遊学して、医学、儒学、本草学、神学を学び津へ帰る。家業の医者の仕事を続けながら国学の研究を続け多くの門人を指導した。士清の学問業績は数多いが、日本書紀の研究は特筆され、また日本で初めて五十音順の国語辞典「和訓栞」を作った功績は偉大である。そこから200mほど離れた所に谷川神社があり、境内に反古塚(ほごつか)がある。士清が研究した「日本書紀通志」の下書きを埋め、後世に正確に伝わるよう塚を作った。
 さて残るは、あと2kmであるが、かなり足が疲れてきた。八町(はっちょう)の旧道は車が少なく歩きやすい。J Rと近鉄の踏切を渡り、津市役所の横を通って津城に着いた。時間は午後4時を過ぎており、夕方のジョギングや子供連れで散歩する人を見かけた。城内の日本庭園を鑑賞し、藤堂高虎の銅像を見て、再建された模擬隅櫓で最後の写真を撮る。
 津城は安濃川と岩田川に挟まれた津市の中心地に位置する。現在の津市の古称は安濃津(あのつ)であり、平安時代から伊勢の政治、経済の中心であった。鎌倉時代には藤原南家の流れをくむ長野氏が支配していた。津城の起源は戦国時代の永禄年間に長野氏の一族、細野藤光が小規模な安濃津城を構えた事に始まる。永禄11年(1568年)織田信長の伊勢侵攻により、弟の織田信包が入城して整備し天正5年に五重の天守閣を造った。
 その後、時代は下って慶長13年(1608年)伊予今治藩の藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石を持って移封し、城の大改修を行った。その後、10万石の加増を受け32万石で明治維新を迎える。津は江戸時代を通じて伊勢神宮参拝の宿場町として栄え「伊勢は津で持ち、津は伊勢で持つ。尾張名古屋は城で持つ」と言う有名な伊勢音頭に謡われた。
 津城を伊賀街道のゴールとし、この後、近鉄津新町駅まで歩き帰途についた。帰宅後の冷えたビールがたまらなく美味しくて「生きてて良かった」と、至福のひと時を過ごした。
 
 
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