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日本の街道歩き〔76〕大浜街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2021年 4月11日(日)23時18分40秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
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  【街道の概要】 鎌倉時代に開かれた大浜街道は碧南市の大浜港から三河地方、さらに信州地方へ塩や海産物を運ぶ重要な街道であった。明治時代になると名古屋方面へ向うルートも整備された。江戸時代には、この辺り一帯で醤油、味噌、酒、味醂などの醸造業や瓦製造業などの産業が発展し、それらを江戸へ船で運ぶ海運業が栄えた。大浜は海、川、陸の街道の物流拠点として、人、物、富、情報が集まる豊かな地域となった。現在も大浜界隈には立派な構えの寺社が並び黒い板塀の土蔵、屋敷や路地など古い佇まいが残っている。
 街道ルートは幾つかあるが、私は東海道の池鯉鮒宿(ちりゅう)で分岐する追分から碧南市の大浜漁港まで、約23kmの街道を歩いた。
【知 立】 岐阜県、愛知県に出されていたコロナ禍に掛かる緊急事態宣言が令和3年2月末で解除されたので早速、3月4日に大浜街道を歩く事にした。長距離歩行は久しぶりであったので少し不安はあったが、歩ける喜びの方が大きかった。電車は名鉄知立駅で下車し旧東海道ルートに向かった。東海道は平成24年に23日間かけて京都から江戸まで歩いた懐かしい街道である。知立宿本陣跡から西へ進むと、老舗の料亭「岐阜屋」の前を通り知立神社へ向う。西暦112年の創建と言われ、多宝塔、古額、舞楽面などの重要文化財を所蔵している。毎年5月3日には知立神社の祭礼があり、山車文楽や山車からくりなどが奉納される。これらは国指定無形民俗重要文化財に指定されているが、最近、ユネスコ無形文化遺産にも登録された。
 知立神社の本殿で街道歩きの道中安全を祈願してからスタートした。西町の路地裏の角に古い店があり、看板に「元祖あんまき・小松屋本家」と堂々と表示がしてある。知立の「あんまき」は藤田屋が有名であるが、それを意識してか「元祖」を強調しているようだ。その先に小さな公園があり、入口に「知立古城跡」の説明版が立っている。知立城の城主は永見氏であったが今川義元に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間合戦で織田信長に攻められ落城した歴史がある。その後、刈谷城主の水野忠重の持ち城となるが、元禄12年(1699年)の大地震により倒壊して廃城となった。ここが東海道と大浜街道が交差する追分で街道歩きを開始する。名鉄の踏切を渡り、一路、西へ向うが小雨が降り始める。しかし小ぬか雨で気にならないので傘を差さずに歩く。国道23号バイパスと新幹線の高架を過ぎると、知立市から刈谷市へ入る。
【刈 谷】 右手にアイシン精機の工場を見ながら進むと歩道に明治用水の説明板が立っている。明治用水は西三河南西部に農業用、工業用の水を供給する水路である。江戸時代後期に計画が立てられ天保4年(1833年)に幕府が許可し明治13年(1880年)に完成した。日本最初の近代的用水路である。大正時代には、中原に位置する安城市に「日本のデンマーク」と言う農園ができ、教科書にも掲載されるほど有名になった。水源は豊田市の矢作川から取水し、豊田、岡崎、安城、知立、刈谷、西尾、高浜、碧南に供給する。本流幹線と3つの支線などから成り、総延長は430kmに及ぶ。現在は暗渠化され、大浜街道の一部ルートと重なっている。
 この頃、雨が本降りとなったが、すぐに止み西へと歩き続けた。県道51号より1本南の細い道が旧道であるが、トヨタ車体、デンソーの工場を見ながら進むと、刈谷警察署前の変則五差路に着く。その中の一番狭い道を西へ進むと、曹洞宗の松秀寺の前へ出て竜宮城のような山門を見る。銀座4丁目の角を左折して南下するが、やや疲れが出たので、御幸町の建具店の前で休憩しチョコレートで糖分の補給をする。
 間もなく松坂町の交差点に着くが、ここで街道から外れ、寄り道して本刈谷神社へ向う。神社の前身は創建が大宝年間(8世紀初頭)の八幡社であるが、大正2年に八幡社、八雲社、北野社の三社が合併して八雲社の敷地に建立された。境内周辺では縄文時代の土器、石器、人骨などが出土し、また大規模な貝塚も発見され「本刈谷貝塚」と呼ばれる。街道は猿渡川に架かる巡見橋を渡る。
【小垣江】 小さな巡見橋を渡ると小垣江の集落に入る。気温が上昇し、水分補給のため小休止していると、目の前に自販機があった。良く見ると清涼飲料水ではなく、パンや菓子の自販機であった。過去の街道歩きで色々な自販機を見てきたが、卵、アイスクリーム、果物、スープなどはあったが、パンや菓子は初めてあった。100円均一で、アンパン、ジャムパンなどの他に、チョコレート、クッキーなどが並んでいた。
 小垣江の街道筋は狭くて曲がりくねり、古い家並みの景色から街道の風情が醸し出されていた。その中に誓満寺(浄土宗、三河二十五番霊場)と言う庭が美しい寺があり、休憩を兼ねて参拝した。枝ぶりが見事な松の木や満開の梅ノ木があり、思わず何枚も写真を撮った。
そこからすぐ先に小垣江神明神社があったので、ここも参拝した。長保2年(1000年) の創建であるが、ここで「小垣江」の地名の由来を知る事が出来た。日本武尊(ヤマトタケル) が東国平定の帰りに熱田へ向う船が誤って三河湾に入り、この付近に上陸した。この地が神の御垣の入江のようなな所であったので「御垣江」と名付けられ「小垣江」に変化したようだ。名鉄三河線の小垣江駅を過ぎると前川に架かる鷗橋(かもめ)を渡る。すぐに刈谷市と高浜市の市境があり、江添川を渡る。
【吉 浜】 高浜市の吉浜地区に入り、名鉄三河線に沿って街道は南下するが、時刻は正午を過ぎており空腹でレストランを探すが中々見当たらない。暫くして新田町付近に「食事処・十七八」を見つけ、やっと食事にありつけると思いきや、玄関まで行くとコンクリートの塊や廃棄された棚などが置いてあり、廃業した食事処と分りガッカリする。
 名鉄吉浜駅の手前の踏切を渡り、吉浜の町に入る。すると「吉浜人形」の矢印看板があり、街道ルートからは外れるが近そうだったので行ってみた。吉浜人形本店は5~6階建てのビルで、女の子の節句「ひな人形」と、男の子の節句「五月人形」がウインドウに飾ってあった。今はちょうどその季節であった。
 江戸時代、三河の吉浜村の村人たちは豊作を祈願して刈取った綿の実で「綿人形」を作り、神社に奉納したのが始まりである。明治時代になると色とりどりの菊人形の技術を生み出し、全国的に知られるようになった。
 吉浜人形の先の正林寺の前を通りかかると門前に説明板があった。昭和23年から3度の発掘調査によって、この付近で縄文時代の土器、石器、貝殻や、古墳時代の須恵器、中世の行基焼の陶片などが発見され「正林寺貝塚」として史跡に指定された。
そこから、さらに南へ進むが道に迷ってしまい、神明神社に出てしまった。本来の街道ルートへ戻るのにスマホのマップを使ったが、かなりのロスタイムとなった。
【高 浜】 県道50号に出て芳川町あたりで「うどんそばの安兵衛」と言う食事処を見つけた。駐車場に車が停めてあったので営業中だと確信した。迷わず入店した。時刻は午後1時頃となり、お腹がペコペコであったが安堵より嬉しさが込み上げてきた。注文したのは「味噌カツうどん定食」(1050円)であった。味噌カツの八丁味噌、うどんの出し汁、五目御飯が絶品の美味しさであった。ストレス解消に満足し、疲れた足も元気を取り戻した。
 そこから衣浦方面へ向うと大山緑地公園に着く。高浜市の市街地や衣浦湾が一望できる高台にあり、「千本桜の大山」と言う花見の名所にもなっている。桜並木の中に岐阜県根尾村の薄墨桜の子孫が3本あると言うが、分からなかった。公園は広大な敷地で、春日神社、八剣神社、高浜寺などが並んでいる。参拝と写真撮影を終えると、南口に馬頭観音が立っていた。
 そこから曲がりくねった細い道を進むが、高浜の「鬼のみち」と言われる観光ルートを歩く。高浜は昔から鬼瓦の産地であり、道筋にも沢山の鬼瓦が並べてある。途中、太鼓楼と山門の鬼瓦が有名な恩任寺(文明13年・1481年創建)を見学参拝し、その先の清吉坂を通過する。
暫くすると右前方の小高い丘の上に大きな観音様が見えてきた。昭和34年に高浜の鬼瓦師の浅井長之助によって作られた日本一と言われる、高さ8mの陶器製の観音像である。しかし登り口が分からず街角で井戸端会議をしていた中年女性に尋ねたら教えてくれた。
 森前公園の中に「高浜やきものの里かわら美術館」があったが、見学する時間がないので周辺で写真を撮り、疲れた足を休めた。休憩を終え、リュックザックを背負って歩き始めると淡いグリーン色の衣浦大橋が見えてきた。衣浦大橋は高浜市と半田市の市境であり、海上に架かる国道247号の大橋である。旧橋は昭和31年に架けられ、現在の橋は昭和53年に完成している。高浜体育センターを過ぎ、名鉄高浜港駅近くを通って高浜川に架かる高浜橋を渡る。ここから碧南市へと入る。
【新 川】 碧南市に入り、大久手、田尻を過ぎ、碧南新川郵便局あたりで足の裏とふくらはぎが極度の疲労で苦痛が続く。小休止を繰返しながら進むと松江町の「新川病院北」交差点の角にある「新川常夜灯」に着く。ローカルな街道にしては立派な常夜灯で、廻船問屋を営んでいた両口屋半助が文政7年(1824年)に建てたものである。この常夜灯から西へ進むと海に出るが、対岸の半田亀崎へ渡るための渡船場「松江の渡し」があった所である。衣浦大橋が昭和31年に開通するまで、渡し船が運行されていた。
 街道筋は国道247号より内陸の県道50号と重なっており、交通量はかなりある。そこから更に南下すると山神町に山神社があり、公衆トイレを利用して、しばらく休憩する。神社の隣には鶴ケ崎区民館があり、小公園が併設されている。ここから東へ向かえば、名鉄新川駅がある。西光寺、浅間神社を通り、新川に架かる新川橋を渡る。
【碧 南】 ここから碧南の中心街へ入るが、昔は大浜と言う地名であった。碧南市は昭和23年に碧海郡の4町村が合併して誕生したが、碧海郡の南部に位置したことから「碧南」と言う市の名前になった。その中心地が旧大浜町で室町時代から湊町として物流や漁業の拠点として成長し、醸造業などの地場産業も発展した。現在の碧南駅は昭和29年までは「大浜港駅」と名乗っていた。
 衣浦湾の東海岸は近代になって埋立てられ、豊田自動織機、日鉄日新製鋼、丸紅飼料、伊藤忠製糖、トヨタ自動車衣浦工場など沢山の大工場が連なり、工業地帯を形成している。
 街道は道場山町、天王町を過ぎ名鉄碧南中央駅を通過して羽根町に着く。ここで街道から離れて左折し、大浜陣屋広場に寄り道する。大浜陣屋は明和6年(1769年)から明治5年(1872年)まで約100年間、駿河国沼津藩の水野家が西三河の領地(飛地)を支配するために設置した役所(代官所)である。なお、水野家は徳川家康の生母・於大の方の実家で江戸時代当初は信州松本の7万石であったが、紆余曲折があり転封や石高の増減などを何度も繰返し、5万石で明治維新を迎える。大浜陣屋跡は現在、小さな公園となっており老人たちの憩いの場所となっていた。
 見学を終え、街道筋に戻り、西方寺へ向った。西方寺は建仁3年(1203年)に創建され有名な楼閣状の太鼓堂(お城のような建物)を擁する古刹である。明治4年に「新民序」と呼ばれる学校が造られ、後に小学校となり、碧南市の学校教育発祥の地と言われる。
その先に重厚感のある黒い板塀の「九重味淋」(ここのえみりん)の工場が建っている。九重味淋は安永元年(1772年)に創業され、味淋業界最古の歴史を誇る。
 この辺りの路地裏は昔の面影が残りノスタルジーな雰囲気の家並みが連なっている。その路地を突き抜けると大浜漁港に出る。港内は小さな漁船がビッシリと並び、レジャー用のモーターボートも繋いであった。
 時代は戦国時代にさかのぼり、天正10年(1582年)京都・本能寺で織田信長が明智光秀に討たれた時、徳川家康は和泉の堺で町見物の最中であった。家康は家来を数十人しか連れておらず、明智軍の追跡から逃れるため、伊賀越えをし、伊勢湾を船で知多半島方面に向かった。その時、この大浜湊に上陸して岡崎、浜松方面へ命からがら逃げ帰った経緯がある。
 大浜漁港の南側には、昭和48年に開通した衣浦トンネルがあり、半田市へ直接行く事が出来る。私は数年前、名鉄ハイキングで、このトンネルを歩いて渡った事がある。
 さて大浜漁港から県道50号へ戻り堀川に架かる港橋を渡る。すると左手に古い西洋館の建物が目に入る。建物の真ん中に3階建ての八角形の塔が聳え、レトロな2階建ての鉄筋コンクリート造りである。これは大正13年から昭和36年まで大浜警察署として使われた建物で、後に公民館として利用され、平成21年に外観整備工事をして保存されている。
 そこから更に南下すると清浄院、本伝寺、観音寺など数多くの立派な寺院が連なり、ひときわ境内が広い称名寺に着く。参拝のため坂道を登って境内に入ると、なんと梅が満開で、その美しさに感嘆した。暫くうっとり眺めていると、一人で散歩している高齢の老婆が「本堂の裏に1本の梅の木に赤と白の2色の花が咲いている木があるから見に行くといいよ」と勧めてくれた。早速、本堂の方へ行ったが、残念ながら花は半分くらいは散っていた。
 この称名寺は歴応2年(1339年)の創建で16世紀に松平信忠(徳川家康の曾祖父)が寺領を寄進している。また天文12年(1543年)家康の父である松平広忠がこの寺で行われた連歌会で「めくりはひろき園のちよ竹」と詠んだので、住職が家康の幼名を竹千代にするよう勧めたと言われる。その後、徳川家康、徳川家光も寺領を寄進している。
 この称名寺の到達をもって、大浜街道のゴールとし、帰宅のため、疲れた足を引きずりながら名鉄碧南駅へと向った。
 
 
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