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日本の街道歩き〔75〕焙烙街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2021年 1月 9日(土)22時21分17秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
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  【街道の概要】 焙烙(ほうろく)とは陶器で作った平らな鍋のことで、豆や茶などを炒るのに用いられ、直径30cm、深さ4cmくらいの土鍋である。調理の道具だけでなく、お盆の送り火、迎え火の皿などにも使われた。猿投地方で焼かれた焙烙鍋を名古屋で売るため運んだ人々が通った道を「焙烙街道」と呼ぶ。
 江戸時代、名古屋の火葬場は吹上付近にあったが、名古屋監獄が吹上に造られたため明治30年代に名古屋東部丘陵(自由ヶ丘の西、日泰寺の北東)に移転し三明火葬場が造られた。大正4年に八事に火葬場ができても市中から近いため、利用が続き「葬列の道」と言われた。太平洋戦争が終り、この地に大きな団地(自由ヶ丘)が開発されると火葬場は閉鎖され、八事に移転統合され人々の往来は少なくなった。
 昔、火葬場に向う事を「法六字道」と言われ、これが「ほうろく」と言う名の由来とも言われる。ルートは現在の東区筒井町の東海高校(江戸時代は建中寺の境内の一部)付近から東へ向い、猪子石から猿投方面へと続いていたが、その中で現在の自由ヶ丘あたりまでの道を焙烙街道と呼ぶ。
【建中寺】 お正月に街道歩きをするのは、一年間の道中安全を願うためであり、今回で6回目である。令和3年の元旦は寒波襲来で積雪があったため、止む無く延期とし、出発は1月3日となった。
 J R 千種駅から筒井町の建中寺まで20分ほど歩いて到着した。寺の山門には大きな字で「謹賀新年」と掲げてあったが、コロナ禍のためか、境内には2~3人しかいなかった。建中寺は尾張徳川家の菩提寺(浄土宗)で慶安4年(1651年)尾張2代藩主の徳川光友が父である初代藩主、徳川義直の菩提を弔うためと、尾張藩すべての人々の心の拠りどころとして創建された。広さは当時、4万8千坪もあり、周囲は石垣と堀で囲まれていた。天明5年(1785年)大曽根の大火で焼失したが天明7年に再建され、太平洋戦争中の昭和20年の名古屋大空襲の際には幸運にも被害を免れた。寺の建造物や仏像の多くは文化財に指定されており、現在の建中寺公園にある総門は当時のまま残っている貴重な建物である。
 ここで最初の街道写真を撮り街道歩きをスタートする。そして建中寺幼稚園の前を通り一路、東へ向う。
【黒門町】 建中寺東交差点の北東にある黒門公園では寒さで体が冷え公園内のトイレで小用を済ます。この辺りは黒門町と言い、名古屋城二の丸にある黒門の警備を担当する御持筒組と御持弓同心の屋敷があったので黒門町と名付けられた。また元禄8年(1695年)現在の筒井小学校の東隣りにある自然院(じねんいん)と言う寺に京都の黒谷から阿弥陀如来像が移されたことから黒谷門前あたり一帯を黒門と呼ぶようになったとも言う。
 この黒門町は私の父方の祖母が昭和の初めに新婚生活を過ごした場所でもあり、郷愁を感じた。以前、私が小林家の家系ルーツを調べていた頃の昭和54年に東区役所へ行き昭和32年に消除された除籍謄本を取得したことがあった。その住所は「名古屋市東区黒門町81番地」と記されており、現在は縁もゆかりもない人が住んでいると思うが、黒門東公園の西側あたりで、その近くを歩いた。さて、街道は北へ進むと東海高校が見えてくる。
【百人町】 名門の私立東海高校の敷地は、江戸時代は建中寺の境内であった所で、この付近で開かれた市場で「焙烙」が売られていたと言う。東海高校は明治21年に浄土宗学愛知支校として創立されたが、当初は東区東桜2丁目にあって、昭和32年に現在地に移転した。
 東海高校の前に吉田小路と言う道幅2mくらいの狭い道があるが、これが焙烙街道の道筋である。暫くすると道は枡形となり、道幅は広がるが、町並みは古い屋敷が立ち並び昔の面影が少し感じられる。百人町の町名の由来は、慶長16年(1611年)江戸の百人組が尾張藩に転じ、渡辺半蔵百人組となり、この地にその屋敷があったことから百人町と称した。百人同心組の組屋敷は当初、中区呉服町にあったが、途中、矢場町に移転し、さらに元禄7年(1694年)に現在地に移った経緯がある。
 街道はまもなく J R 中央線に差し掛かるが、その手前に法恩寺と言う小さなお寺がある。しかし民家の庭の中に小さなお堂が建っており、参拝するのに他人の庭に入らなければならないため気が引けた。
 さて中央線の上に架かる松軒橋を渡るが、この地名の「松軒」は、尾張藩の家老であった成瀬豊前守が隠居して松軒と名乗って、ここに屋敷を構えたのが由来である。また豊前守(ぶぜんのかみ)から、この辺りは豊前町(とよまえ)と言う町名が付いている。
【千 種】 松軒橋を渡ると東区から千種区へ入り、大和公園を過ぎると都通り1丁目の交差点を通過する。ここから東へ向うが、この街道筋は戦前に陸軍の兵器支廠から国鉄中央線へ接続する軍用線路が通っていたルートである。まもなく右手に広大な千種公園が見えてくる。この公園にはテニスコート、野球場、ふれあいの森ステージ、ジョギングコースなどがあり、とりわけ有名なのは5月から6月にユリの花が1万本も咲く花壇がある。私がここを通った時は枯れ野の花壇の周りで、お正月のジョギングやウォーキングをしている人たちをチラホラ見かけただけであった。
 この千種公園からさらに東へ進むと愛知工業大学名電高校の校舎が見えてくる。明治45年、名古屋電気学講習所として創立、大正元年、私立名古屋電気学校となった。当初は中区の久屋公園付近にあったが、大正5年に中区新栄町に移転、そして昭和12年に千種区若水町の現在地に移転した経緯を持つ。
 プロ野球のイチロー選手(本名は鈴木一朗)は、この名電高校出身である。彼は守山区で出生し、豊山町で育った。名電高校野球部では、三塁手、左翼手、投手を経験し、甲子園にはレギュラー選手として二度出場している。1991年のプロ野球入りに際しては地元の中日ドラゴンズを希望したがドラフト会議でオリックスから4位指名を受けた。日本プロ野球では、首位打者、打点王、盗塁王、最多安打、最多出塁率などのタイトルを何度も獲得している。そして2000年からアメリカのメジャーリーグに入り、マリナーズ、ヤンキース、マリンーズなどを経て、2019年、復帰したマリナーズを最後に引退した。メジャーリーグの数々の偉大な大記録を幾つも塗りかえ、世界に誇るプロ野球選手となり、東海・名古屋の英雄である。私が心から尊敬する日本人の一人である。さて、街道は名電高校から南西に向けて一直線に進む。
【振 甫】 街道は振甫町に入り、暫く進むと登り坂に差し掛かる。「振甫」の地名の由来は、江戸時代の初め、中国の明(みん)から日本に帰化した張振甫(ちょうしんぽ)にちなんで名付けられた。張振甫は明の王族で中国の内乱を避けて日本に亡命した医師であるが、優れた人物であったので、時の尾張藩主、徳川義直に口説かれ名古屋に定住した人である。寛文9年(1669年)には尾張2代藩主、徳川光友の援助があって、日泰寺の近くに鉈薬師(なたやくし)を建立している。なお、千種区振甫町、振甫プール、振甫保育園、振甫郵便局の名称は張振甫に由来している。
 坂道を登り切ると、私が平成30年に歩いた四観音道(笠寺観音~龍泉寺)と焙烙街道が交差する所に石道標が立っている。四観音道の街道歩きの時に探したが見つける事が出来なかったが、今回はその道標を見事に探し当てた。道標には「東、やごと・ひらばり」、「南、あつた・かさでら」、「西、あらこ」、「北、せと・りゅうせんじ」と記してある。街道は南の方角にあるヨーロッパ風の東山給水塔を見ながら広い天満通に出る。
【覚王山】 天満通には中央分離帯があり横断歩道がなく、陸橋が設けられているが、その登り口が分からず困っていると、通行人の老人が「道路を横断したいんですか?それなら少し戻った所に陸橋の登り口がありますよ」と教えてくれた。陸橋の北側には、名古屋市の「水の歴史博物館」があり以前、駅ちかウォーキングの時、見学した事がある。
 そして陸橋を渡っていると、その下を青い乗用車が「ドスーン」と言う音を立てて、前の白い乗用車に追突した事故を目撃した。おそらく脇見運転をしていたと思われるがブレーキを踏むことなくぶつかったので双方の車はかなり損傷が激しかった。しかし両方とも怪我はなかたようで、追突された車から降りてきた中年男性は「どこを見て運転しとるんじゃー!免許証を出せー!」と怒鳴りつけた。降りてきた加害者は若い女の子でとても可愛い顔をしていた。一部始終を見ていた私は、明らかに女の子が悪いと分かっていたが、凄いけんまくで怒る男性が怖そうで、少しかばって上げたい気持ちはあったが、素知らぬふりをして通り過ぎた。何か申し訳ない気がした。
 暫く進むと覚王山日泰寺舎利殿の北側に沿う狭い道に入る。右手に大きな塔が見えたが、これは日清戦争の戦死者記念碑で、形は砲弾をイメージしたものである。この塔は当初、広小路通と武平町通の交差点にあったが、大正9年にここへ移された。
 すこし先に日泰寺の広大な墓地が現れる。しばらくして月ヶ丘公舎を過ぎると左側に小さなお堂が沢山並んでいる。横2m、高さ2mくらいの大きさで、ひしめき合って続いている。これは四国八十八ヶ所観音巡りを模したミニ札所である。誰が手向けたのか所どころにお花が供えてあった。
【自由ヶ丘】 狭い街道は南ヶ丘と言う交差点でバス通りに合流し、広い道に出る。ここから右に左に延々と墓地が続く。左手には北山墓地が広がるが、戦前に三明火葬場に併設して造られたものである。南ヶ丘と言う地名に北山と言う墓地の名前があるには理由があるという。墓地は元々、熱田の北山(今の神宮公園)にあって熱田宿の旅人や遊女のための墓地であったが、昭和15年に神宮公園が整備される事になり、覚王山の裏山に移転した経緯がある。
街道の右手、つまり南側にも墓地があり、日泰寺の広大な墓地が自由ヶ丘方面へ続いている。まもなく千種消防署がある自由ヶ丘3丁目交差点に着くが、このあたりまでを焙烙街道と言うが、この先、道筋は不明となり猿投方面へと続く。
 帰りは地下鉄自由ヶ丘駅から電車に乗るが、駅周辺はコロナ禍の影響で人は少なかった。周りは高層ビルが立ち並び都会風な街並みとなっている。自由ヶ丘駅のプラットホームの乗客は私一人だけであった。そして大曽根駅で J R 中央線に乗換えて多治見へ戻った。
 
 
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