teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 <思いやりのあるコミュニティ宣言>
 teacup.掲示板は、皆様の権利を守りながら、思いやり、温かみのあるコミュニティづくりを応援します。
 いつもご協力いただきありがとうございます。

 投稿者
  題名 ※管理者の承認後に掲載されます。
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

  1. nds(0)
  2. 足あと帳(0)
スレッド一覧(全2)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


日本の街道歩き〔79〕飛騨街道①

 投稿者:小林 潔  投稿日:2021年 6月12日(土)17時44分26秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 飛騨街道は飛騨の小京都と言われる高山を目指す街道である。しかし、高山への道筋は幾つかのルートがある。伊勢街道のルートが名古屋、京都、奈良、和歌山、尾鷲などから伊勢神宮を目指すルートが沢山あるように、飛騨街道も信州、越中、加賀、越前、美濃から高山に向うルートがある。
 岐阜県内の一般的に知られているルートは2つある。①中山道の太田宿から分岐する飛騨南街道と②中山道の岐阜・加納宿から分岐する飛騨西街道である。両方とも飛騨金山で合流して、下呂、萩原、小坂、久々野を経由して高山へ向う道筋である。
 2年ほど前に東海テレビ「はじめまして街道歩き」で高井一(たかいはじめ)アナウンサーが1年以上かけて飛騨西街道を歩かれたが、私は自宅の多治見から近い美濃太田スタートの飛騨南街道を歩く事にした。この飛騨街道は律令時代の東山道・飛騨支道でもあり古代から多くの人々が旅した道である。
【美濃太田】 ゴールデンウィークの連休はコロナ禍の第4波の中にあって、人出は少ないと判断し令和3年5月3日に出発した。J R美濃太田駅で電車を降り南へ10分ほど歩くと中山道ルートに到着する。中山道は私の最初の街道歩きとして平成20年に32日間かけて東京から京都まで歩いた街道である。太田宿は中山道69次にあって、江戸から51番目の宿場である。
 私がスタートしたのは太田宿の東の入口にある祐泉寺である。早朝であったので木曽川堤防をジョギングや、ウォーキングする人を多く見かけた。祐泉寺の創建は文明6年(1474年)であるが、寺内には、山岳修行で有名な播隆上人の墓碑、日本ライン名づけの志賀重昴の碑、太田宿出身で小説家の坪内逍遥の歌碑、松尾芭蕉の句碑などがある。
 ここから東へ5分ほど歩くと法華経塚があり飛騨街道追分の説明文が掲示してある。さらに東へ数分歩くと神明堂の交差点に着く。木沢記念病院の南側の角である。この病院は私の孫の詩乃(2009年生れ)と蒼大(2018年生れ)の生誕地である。この交差点が中山道と飛騨街道の追分であり、北東角に石道標が立っている。明治時代に名古屋の商人・伊藤萬蔵が寄贈した道標で「右、東京・善光寺、左、飛騨高山・八百津」と読むことができる。ここから南東へ進むと、木曽川の「今渡の渡し」を越えて伏見宿、御嵩宿へ向う道となる。そして北東へ一直線に伸びる狭い道が飛騨街道である。
【古 井】 街道は島町から中富町へ進み、J Aの角を左折すると大きな鳥居をくぐる。そしてJ R太多線の踏切を越すと、古井神社(こび)の正面に出る。創建は慶長年間(江戸時代初め)であるが、明治42年に元津島神社、八王子神社、中富神社が合祀して、現在の古井神社となった。毎年4月に祭礼があり、鬼の面をかぶったハエ追い男がササラと呼ばれる竹の棒で参拝者の頭を軽く叩き厄払いをする。子供はこれで賢くなると言う。参拝を終え鳥居の前で写真を撮ろうとすると、デジカメの操作を誤りファインダーに映像が映らなくなってしまい、悪戦苦闘する。15分もいじったが元に戻らず、諦めてもう1台、持参していたカメラにS Dカードを入替えて撮影した。最近の街道歩きで撮影に関わるトラブルが続き、自分の不注意を反省している。
 さて気持ちを取り直し出発すると国道248号の高架下を通り、古井小学校を通過する。美濃加茂市東図書館の近くに禅隆寺があり立寄る。臨済宗妙心寺派の寺で本堂も山門も新しかった。境内には美しい日本庭園があり、ウットリ眺めて癒された。さらに進むと古井の商店街に入るが、商店は活気がなく、花や野菜を売る店にだけ、数人の客が集まっていた。その商店街の中にJ R古井駅があるが、無人駅であった。
 街道は直進するが右へ行くと飛騨川に架かる青柳橋へ向い、小山観音に着く。正式名は小山寺(しょうざんじ)と言うが通称、小山観音である。飛騨川の中の小さな島にあるが、木曽川の今渡ダムが完成した時、水没して岩山が孤島になり現在は橋で繋がっている。街道は右手に青柳大橋を見ながら北上すると美濃加茂市から加茂郡川辺町に入る。
【川 辺】 飛騨川沿いに歩くと東海環状自動車道の高架手前に一軒の店が建っていた。看板には「飛騨街道名物、小田巻あります」と書いてある。明治28年創業の小田巻屋である。買って食べたかったが数人が並んでいたので諦めた。このあたりで飛騨川から吹くさわやかな風に押され気分よく歩き続ける。下川辺公民館の付近に常夜灯が立っていて街道気分を醸し出す。宮裏から西栃井に入ると禅原寺、栃井神社を参拝しながら進む。この近くに中部電力の川辺ダム水力発電所がある。
 街道はまもなく中川辺の町へ入って行く。くねくね曲がった狭い道を進むと、川辺町役場、川辺中央公民館に着く。時刻は11時半を過ぎていたので、休日で閉まっている役場の玄関先にレジャーシートを敷いて昼食に、おにぎり?3個を頬張った。
 腹ごしらえを終えて飛騨川沿いに北へ進むと川辺漕艇場に着く。連休中で駐車場は、ほぼ満車であった。ここは全国屈指のボート競技場である。川辺ダムの竣工により、川の流れがなくなりボート競技に絶好の立地となった。全国から多くの選手が集まり、合宿が行われる。地元の高校生や中学生も練習しており、ここから米田富士や山川橋の美しい景色が眺められる。私がここに立寄った時は、1人用、4人用、8人用のボートがたくさん湖に浮かび、掛け声に合わせてオールを漕いでいた。
 そのあと街道筋に戻り、太部古天神社を参拝する。立派な社殿だが創建時期は不明である。江戸時代は川辺村、石神村、鹿塩村(かしお)、栃井村の産土神として川辺総社と言われた。街道はJ R高山線に沿って北上し石神地区の神明神社、本覚寺を通過する。道端に中部北陸自然歩道の道標があり、あたりは広々とした田園地帯である。まもなくJ R下麻生駅を右手に見ながら進み、南天の滝入口を通る。前方に飛騨川橋が見えてくると、まもなく国道41号と合流する。この付近では「うなぎ屋」の店が数軒あり、いい匂いがしてくる。臨川寺付近で国道から離れ、川沿いの狭い道に入る。約1kmほど古い建物が並び、街道の宿場を思わせる光景である。下麻生大牧と言う交差点に山口鉄工の工場があり、まもなく川辺町から七宗町に入る。
【七 宗】 この頃、帰りの列車の時刻が気になってきた。J R高山線は2~3時間に1本しかなく乗り遅れたら長時間待たなければならない。右手に国道、左手に線路を見ながら、その間を進むとファミリーマートの近くに出る。その裏手が旧道であり、私の次男の嫁の在所である岩田住建の前を通る。時間があれば挨拶のため立ち寄りたかったが、電車の時刻まで、あと2km余を25分で歩かなければならず、急ぎ足で素通りした。
 国道と合流すると楕円形の建物の「日本最古の石博物館」の前を通る。1970年にこの近くの飛水峡の河床で発見された石が20億年前のもので日本最古と鑑定され、それを陳列するため七宗町に博物館が造られた。しかし最近、島根県で25億年前の岩石が発見され、日本第2位となってしまった。七宗町は博物館の名称を「日本最古」からどんな名称に変更するか検討中であると言う。その隣の「道の駅ロックガーデンひちそう」は連休中とあって駐車場には多くの車が集まっていた。
 街道は右手に七宗橋を見ながら直進し、J R上麻生駅に向かって進むが、時間があと5分しかない。残り数百mを小走りで進むと鉄道の上越しの陸橋を渡って大廻りしなけれならないが、それでは間に合わないので野原を横切り、改札口を通らず、通ってはいけない所を強引に進み直接プラットホームに駆け上がった。時間は発車時刻ピッタリであったが列車は来ない。すると列車は7分遅れで到着するとアナウンスがあった。必死になって急いだが、結果だけみると「骨折り損のくたびれ儲け」で、むなしいのか喜ぶべきか複雑であった。
 ここで一旦、多治見へ戻り2日目は5月8日に再び上麻生駅から出発した。早朝7時半過ぎから歩き始めたが駅周辺には人が全くいない。駅の北の方に七宗町役場はあるが街道は東へ進み赤色の麻生橋から飛騨川の流れを眺める。そこからさらに東へ行くと有名な景勝地「飛水峡ロックガーデン」に着く。ここは飛騨木曽川国定公園内にあって七宗町から白川町に亘り約12kmの険しい断崖が造り出す景観は見事と言うほかない。甌穴と呼ばれる円形状の「ポットホール」が、約800個も散在し、昭和36年に「飛水峡の甌穴群」として国の天然記念物に指定された。昭和45年3月に飛騨川の河床から約20億年前の「上麻生礫岩」が発見され、当時は日本列島最古の石と鑑定された。
 街道は飛騨川の右岸に沿って狭い道を進み、大柿橋を渡って左岸に出て国道41号と合流する。国道は歩道が付いていない所が多く、危険で歩きにくい。途中、小さな集落を越えて、やがて七宗町から白川町に入る。
【白 川】 国道41号はかなり車の通行量が多く、気を付けなければならない。まもなく国道沿いの「天心白菊の塔」に着く。これは昭和43年8月18日に起こった「飛騨川バス転落事故」の現場である。岡崎観光の貸切バス15台が乗鞍岳に向っていたが、猛烈な集中豪雨に伴う大規模な土砂崩壊に巻き込まれた。その内、5号車と6号車が濁流の飛騨川に転落し107名のうち、104名が死亡すると言う日本バス事故史上最悪の事故となった。この時、国鉄高山本線の上麻生駅と白川口駅の間で線路が土砂崩壊で埋没したが列車は走っておらず死者はいなかった。国道41号は今でも落石の危険が至る所にあり、恐怖を感じる。
 そこから上流へ800mほどの所に中部電力の上麻生ダム(大正15年建設)がある。規模は小さいが、ちょうどダムの放流が行われていて壮観であった。バス転落事故の時、他のバス乗客は落石の危険から逃れるため、豪雨の中、この上麻生ダムまで歩いて避難し、ダムの機械室や資材倉庫で一夜を過ごしたと言う。
 街道は飛騨川の左岸を北上して、やがて白川の町並に入る。左手に飛泉橋を見ながら白川口交差点を右折して白川口トンネルに入る。出ると白川町民会館、白川商工会を通り飛騨川の支流の白川に架かる天神橋を渡る。河股神社を過ぎると、今度は飛騨川に架かる白川橋を渡るが、これは私の苦手な吊橋であり、嫌な気持ちになったが思ったより揺れが少なく安堵した。
 橋を渡るとJ R白川口駅の前を通り国道41号と合流し北へ向う。一人の青年が大きな荷物を積みサイクリングしていた。荷物量からすると長距離サイクリングと思われた。暫く進むと寒八と言う数軒しかない小さな集落を過ぎる。今度は5~6台の大型オートバイのツーリングに出逢う。ブルンブルンと爆音を立てて猛スピードで走って行く。飛騨川はこのあたりで大きく蛇行するため、街道も島口、牧、下桐、大利の集落を通って白川病院に着く。その裏手に明応元年(1492年)創建の大利白山神社があり、幹囲6m高さ30mの大杉を見物する。そこで三脚を立てて写真を撮っていると、生れたばかりの赤ちゃんを抱いた若いお母さんから声を掛けられ「どこか歩いてみえますか」と尋ねられた。「太田から高山までの飛騨街道を歩いています」と言うと「凄い事をしていらっしゃるんですね」と言われ、しばし会話をすると多治見の方であった。故郷は白川町であるが結婚して多治見に住み、出産のため実家に戻って来ているとの事であった。写真を撮り終えて彼女の家の前を通る時、お父さんから「頑張って下さい」とエールを送られた。意外な出逢いに気分がよくなり足取りが軽くなった。
 再び国道と重なり七曲橋を渡ると道の駅「美濃白川」に着くが休憩なしで先を急ぐ。鷲原橋を渡って白川北小学校を通過する。飛騨川の奇岩を見ながら小さな洞門を2つくぐり、河東橋を渡って国道を離れ野原の集落に入る。ちょうど田植えの作業中で初夏の景色を堪能した。山の手に野原城址があるが時間がないので野原八幡神社、野原公民館を通って集落を抜ける。
 しばらく山道を歩くと名倉ダムが見えてくる。昭和11年に建設された旧式ダムで左岸に魚道が設けられている。木々に囲まれた狭い山道を歩いていると、中年夫婦のペアサイクリングを見かけた。見たイメージでは奥さんの方がリードしているようだった。下油井郵便局の近くにある坂東橋を左手に見ながら、まもなく下油井駅に到着する。帰りの列車時刻には50分ほどあったので、小さな無人駅の待合室で、持参していた焼酎を自販機で買ったジュースで割って飲み、疲れを癒した。
 街道歩き3日目は、5月9日にこの下油井駅から出発し狭い道を北に向かった。まもなく白山橋を渡り国道41号に合流するが、歩道が付いていないので気を遣う。あたりは茶畑が広がる白川茶の産地である。右手に新七宗発電所を見て、西へ向きを変えるとまもなく白川町から下呂市の金山町に入る。
 
 

梅雨の晴れ間

 投稿者:古澤文博  投稿日:2021年 5月31日(月)22時03分10秒 softbank126108247053.bbtec.net
返信・引用
  東海地方も梅雨に入ってから2週間ほど経ちました。梅雨の中休みに桜の季節に訪れた米原市の三島池に行ってきました。天気に恵まれ三島池はまだ新緑も見ることが出来ました。池のバックには伊吹山が眺望することが出来、近くの田畑は田植えが終わったところと麦が黄金色に色づいた麦畑が広がっていました。  

新緑のメタセコイア並木

 投稿者:古澤文博  投稿日:2021年 5月17日(月)21時39分53秒 softbank126108247053.bbtec.net
返信・引用
  5月も中旬に入り沖縄・九州地方は早々と梅雨入りになり、東海地方も間もなく爽やかな季節から梅雨入りする今日この頃です。
昨年の秋・今年の冬と訪れた滋賀県高島市マキノ町へ新緑のメタセコイア並木を撮影に行ってきました。天気は梅雨入り間近を感じる空模様でしたがそれでも新緑いっぱいで周りの田んぼは田植えも終わり並木道も水に写り、ツーリングのオートバイが並木道を心地よく通過していきました。
 

らっきょう仕込み

 投稿者:石田宣安  投稿日:2021年 5月12日(水)16時37分46秒 p2996082-ipngn201411tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
返信・引用
  今年もらっきょうの季節がやって来た。
スーパーに並び始めたので早速購入し仕込みです。
先ず2個3個くっついているらっきょうを1個1個切り離し水でよく洗います。
次に根と茎の部分を切り落とし形を整えます。
ここまで1時間以上経過、数が多いだけに時間がかかる。
粗塩を振りかけ一晩置き水分を出す。
部屋中に独特の香りが漂います。
翌日分量の砂糖と酢を鍋に入れ砂糖を煮溶かします。
これを冷めるまで待って塩漬けしたらっきょうの水分をよく拭き取り消毒したビンに詰め砂糖酢液を流し入れます。
最後に鷹の爪を乗っけて冷蔵庫または涼しい場所で保管します。
2週間後くらいから食べられるようになりますが時間とともによく漬かり味もまろやかになりますよ。
 

新緑の樽見鉄道

 投稿者:古澤文博  投稿日:2021年 5月 6日(木)22時06分45秒 softbank126108247053.bbtec.net
返信・引用
  新緑を求めて岐阜県の大垣市大垣駅から本巣市の淡墨桜で有名な樽見駅までの34.5キロの第三セクターの樽見鉄道の撮影に行ってきました。この樽見鉄道は大垣市から本巣市根尾まで南から北へ走るローカル鉄道です。
昭和31年国鉄樽見線が大垣駅から谷汲口駅まで開通しました。がしかし昭和59年この国鉄樽見線が廃線となることが決まりました。その後この路線の存続を望む多くの人々の応援のもと第3セクターとして「樽見鉄道」として誕生その後地域の皆さんの願いによって路線延長工事が進められ、平成元年ついに樽見駅までの全線が開通しました。沿線には西国33観音の札所谷汲山華厳寺が有ります。
爽やかな新緑をバックにのんびりと1両のディーゼルカーがトンネルを抜けて川を渡り水の入った田んぼの側を走り抜けていきました。
 

愛岐トンネル群

 投稿者:古澤文博  投稿日:2021年 4月28日(水)22時06分51秒 softbank126108247053.bbtec.net
返信・引用
  日本3大廃線トンネル群(碓氷峠トンネル群・北陸線トンネル群・愛岐トンネル群)の一つに明治33年国鉄中央(西)線が名古屋~多治見間が開通した愛知県春日井市にある旧国鉄中央(西)線高蔵寺~多治見間の8キロの間に13基のトンネル群があり、昭和41年に廃線となりました。その中で定光寺から古虎渓までの間に1.7キロの廃線後をウオーキングが出来ます(トンネルは3号~6号)。
2007年市民グループを結成し発掘調査を開始、2009年NPO法人化して活動を本格化。その後経済産業省「近代化産業遺産」認定など注目を浴びることになりました。春と秋の公開時に全国から多くの人々が訪れようになり2016年には登録有形文化財に認定されました。
新緑が美しい春の公開に行ってきました。スタートの3号トンネル入口には実物大の蒸気機関車の幕が掛かっておりトンネルの中は薄暗くひんやりとして気持ちよく、足元はバラストがそのままで線路内を正に歩く感じを味わうことが出来ました。秋の紅葉も素晴らしい景色が見られることでしょう。
 

豊橋散歩

 投稿者:石田宣安  投稿日:2021年 4月28日(水)20時02分48秒 p2996082-ipngn201411tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
返信・引用
  豊橋散歩
一日一万歩以上を目標に歩き続けて3ヶ月、代謝が下がったぶん運動しなきゃってことで続けています。
コースは「豊橋公園」「みゆき公園」「向山大池公園」「市街地徘徊」等。
特に豊橋公園はお気に入りのコースです。
姫路城を築いた池田輝政が城主だった吉田城址が公園になっています。
再建された鉄櫓(くろがねやぐら)と池田輝政が造ったと云われる石垣が残っており、戦国時代にはに重要な城だったようです。歴史好きにはたまらない場所ですよ。
 

茶畑と三河の小京都西尾の街歩き

 投稿者:田中建治  投稿日:2021年 4月17日(土)15時21分26秒 M014011001032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用
  松平五万石の城下町として栄え、まちの中心部には昔ながらの家並みや路地が残り三河の小京都と呼ばれる昭和レトロを漂わせる西尾はお茶の街でもある。西尾の抹茶生産が本格するのは明治に入ってから、明治5年(1872年)頃には紅樹院の住職・足立順道師が宇治から茶種と製茶技術を導入したことで地元農家が栽培を開始した。
西尾城は永久の乱(1221)の戦功により三河国の守護に任じられた足利義氏(のちの吉良氏)が築城した西条城がはじまりとつたえられます。伊文神社はおよそ1150年前の平安文化華やかなりし頃に創建された。詳しく西尾市のホームページをご覧ください。
コースは米津駅ー稲荷山茶園公園ー岩瀬文庫ー伊文神社ー歴史公園・近衛邸ー西尾駅 約8.1Km
写真1 西尾城本丸・二の丸案内図
写真2 本丸丑寅櫓
写真3 伊文神社
 

日本の街道歩き〔78〕赤穂街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2021年 4月16日(金)20時31分53秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 古代の国家経営の基幹である五畿七道の重要幹線道路であった山陽道は多くの人々や物資が行き交い、情報、文化、流通、伝播の役目を果たしてきた。江戸時代になると、参勤交代が制度化され、道の名が西国街道と呼ばれるようになり、人馬乗継ぎを担う問屋場・立場や本陣・脇本陣・旅籠などの宿泊施設が整備され、旅人の指針となる一里塚などが設置された。
 西国街道は京都の東寺から下関の赤間関まで結ぶが、播磨国(兵庫県の一部)の姫路から津山方面へ向う美作街道(みまさか)、相生から赤穂へ向う赤穂街道が分岐している。私は、その姫路と赤穂を結ぶ播磨の街道を以前から歩きたいと思い、コロナ禍の緊急事態宣言が解除されたタイミングと桜の開花を見定めて踏破した。
【姫 路】 出発は令和3年3月29日。名古屋から姫路に向う新幹線は空席が多く、特に新大阪を過ぎると一車両に数人の乗客しかおらず、密になる心配はなかった。早朝8時半頃に姫路駅に到着し、20分ほど歩いて姫路城大手門に着いた。姫路城はこれまで何度も訪れているが、外国人観光客やバス団体観光客で大混雑していたのがうそのように閑散としていた。そのお陰で城内の写真撮影が楽で、天守閣入場の待ち行列はまったくなく、満開近い桜並木を愛でながらスムーズに見学ができた。姫路城は2009年から2015年まで6年間の「平成の大修理」期間中は美しいお城が見えなかったので、修理完了後、初めての見学に胸がときめいた。
 私が日本の風景で大好きなものは「富士山、桜、お城」である。特にお城には歴史があり天守閣や石垣を見つめていると、日本人の心の古里のように思える。日本の城の内、現存天守閣は12城あるが、中でもダントツで美しいのは姫路城である。外国の城も興味があり、ドイツのノイシュバンシュタイン城は「新しい白鳥の城」(ドイツ語の訳) と言う意味であるが、「白鷺城」の別名を持つ姫路城には勝てない。
 姫路城の創建は貞和2年(1346年)赤松貞範が最初に築き、城主は度々変わるが、天正9年(1581年)羽柴秀吉が三重天守を築く。現在の五層七階の連立式天守閣は慶長14年(1609年)池田輝政が築いた。城内には国宝が8棟、重要文化財が74棟もあり、池田氏、本多氏、榊原氏、酒井氏、松平氏、酒井氏が目まぐるしく入封し、明治維新を迎えている。
 この姫路城には3つのエピソードがある。 ①徳川家康の孫娘である千姫は大阪城の豊臣秀頼と結婚するが、大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶ。しかし奇跡的に救出され、本多忠刻と再婚し姫路城の化粧櫓に住み、夫婦睦まじく暮らした。が、忠刻が31歳で病死すると江戸城へ帰り、70歳で生涯を閉じている。 ②明治維新の時、城が民間に払下げられ百円で落札したが、取壊し費用が莫大である事が分かったため、落札者は返納し、その後、陸軍歩兵第10連隊が駐屯した ③昭和に入り、太平洋戦争で姫路市も大空襲を受け姫路城の天守閣最上階に焼夷弾が命中する。しかしそれが不発弾であったため、幸運にも奇跡的に焼失を免れ、現在に至っている。
 さて1時間も費やして見学、花見、撮影を終え、隣にある好古園へ向う。ここは姫路城の西御屋敷があった所で、姫路市制100年記念事業として、平成2年に開園した豪華な日本庭園である。池泉回遊式庭園が9つもあり、総面積は1万坪もある。庭園のたたずまいは江戸時代を彷彿とさせ、映画やドラマのロケ地として良く使われるようだ。私が入園した時は、観光客を一人しか見かけず、写真撮影は思いのままで日本庭園の美しさをタップリ堪能できたのは嬉しかった。
【播磨高岡】 姫路城と好古園の見学が終り、人通りの少ない街道を西へ向って進む。街道ルートは国道2号線より1本北の狭い道である。しかし住宅街の中を通るので昔の面影はまったくない。単調な路地を歩くとJ R姫新線の播磨高岡駅近くの線路を上越えする。時刻は午前11時頃であったが、早朝の朝食のため空腹となり食事場所を探すが、郊外を歩いているため見当たらず、スマホのグーグルマップで調べても無さそうであった。そこで街道沿いの「セブンイレブン下手野東店」に入り幕の内弁当を買ってコンビニの隣の空き地で食べた。食後すぐに夢前川(ゆめさき)に架かる夢前橋を渡るが、川の両岸に桜並木があり、八分咲きであったが癒された。橋が苦手な私であるが、橋の歩道幅が広く高所恐怖症は起きなかった。
 この夢前川は播磨五川と呼ばれ、他に加古川、市川、揖保川(いぼ)、千種川があり、いずれも播磨灘に注いでいる。街道は国道2号と重なり、通行量の多い道を歩くと、やがて登り坂となる。しばらくして右手に見える青山ゴルフクラブあたりに差掛かると、姫路市から揖保郡(いぼぐん)太子町に入る。
【山 田】 坂道は笹ヶ峠に差掛かるが国道2号を歩くので、排気ガスと騒音に悩まされる。峠の頂上あたりで国道から分れ旧道に入るが、山田の集落に入る前に道に迷い少々焦ってしまう。車道に出ると「国道2号太子竜野バイパス」の高架が見え、太子東I.C近くで高架をくぐり、国道179号に入る。左手に上之池と言う溜池が見え、山田1号、2号古墳を探すが見当たらなかった。
 まもなく街道は山陽新幹線の高架と並行し、しばらく列車の爆音を聞きながら歩く。右手に太子メモリアルパークがあり、ここの桜は満開を迎えていた。その先で国道179号から分れて右折する所に題目石と言う大きな石碑が立っていたが、行書で書いてあるため読むことが出来なかった。
 街道は登り坂となり車が通らない狭い道を歩く。この頃、スマホのLINEが良く鳴り街道歩きの応援メッセージが入るので短文で応答しながら歩く。山道に差掛かると竹藪の中に古い井戸があった。「桜井の清水」と言われ、昔の旅人は、ここで休憩して乾いた喉を潤したのだろうか。石碑に和歌が刻んであったが、不明瞭で詠めなかった。その先の右手に黒岡神社の鳥居と大きな常夜灯を見て進むと太田の地蔵を見る。そして小さな大津茂川を渡る。
【太 子】 街道は太田の町並みに入り、住宅地の中を歩く。まもなく、太田小学校の前を通るが運動場では子供たちが「キャッキャッ」と騒いで遊んでいた。3月末なので春休みに学校へ来て遊んでいるようだ。このあたりで、かなり暑くなり、腕まくりするが汗が出て喉が乾く。小学校前の自販機で冷えたピーチネクターを買って飲んだが、濃い桃のジュースで美味しかった。しばし腰かけて足の疲れを休ませた。南の方角に小高い立岡山が見え、そこに聖徳太子の感動岩があるが、遠くから眺めるだけにした。さらに西へ進むと太子町の中心街に入る。エディオンやユニクロなどの大型店が立ち並び人通りも多くなった。太子郵便局を過ぎて、すぐに右折して5分ほど進むと斑鳩寺(いかるがでら)に到着する。ここは兵庫県揖保郡太子町であるが、聖徳太子ゆかりの斑鳩寺なら、奈良県の飛鳥地区なのに、なぜここが太子町なのか下調べの時まで不思議に思っていた。推古天皇14年(606年)聖徳太子が法華経を天皇に講じられ、これに御感された天皇より播磨国揖保郡に土地360町歩を賜った。大和国斑鳩の里から移住してきた人々が当地の荘園を「斑鳩荘」と命名し、伽藍を建立した。市内には鵤町(いかるが)と言う漢字を用いた町名もあった。平安時代には法隆寺の荘園となり、斑鳩寺は法隆寺の別院として七堂伽藍、数十の坊庵で壮麗を極めたが、戦国時代の天文10年(1541年)赤松氏と山名氏の戦禍を受け、すべて灰塵と化した。その後、龍野城の赤松氏が再興し、さらに豊臣秀吉から300石の寄進を受け、江戸時代には歴代将軍の御朱印地となった。私が見学した三重塔は永禄8年(1565年)に再建されたもので、また聖徳殿は大正5年に法隆寺夢殿を模して造営されたものである。
 さて参拝を終え南へ向うと前方に小高い丘が見える。それは太子山公園と呼ばれ、聖徳太子像が立っているのが見えた。まもなく太子町役場を通るが、建物はモダンなビルであった。飛鳥時代の寺院風な建物かと思っていたが、予想は外れた。郊外に出て田園地帯に入ると、道は狭く曲がりくねって街道らしい道筋となる。途中「阿宗神社丁石」や「茶屋垣内の地蔵」を見ながら林田川の方へ進む。このあたりから南へ1kmほどのところに剣豪の宮本武蔵の生誕地がある。
 宮本武蔵は天正10年(1582年)播磨国揖保郡宮本村(現在の石海神社付近)で生まれたが、美作国宮本村が出生地と言う説もある。これは吉川英治の小説「宮本武蔵」に書かれているが、武蔵が書いた「五輪書」には生国播磨と記載されているので美作は誤りと思われる。父は赤松氏の支流、新免氏の一族であると言われる。五輪書には、武蔵は13歳で新当流の兵法者、有馬喜兵衛と決闘して勝利し、16歳で但馬の秋山と言う強力な武芸者に勝利したと記載されている。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の時は、豊前(福岡県)を領有していた黒田如水の家来として東軍側で九州各地を転戦した。その後、京都の室町幕府の兵法指南役である吉岡一門との決闘に勝っている。そして最も有名な決闘は佐々木小次郎と巌流島で戦って勝利した事である。生涯で60回余りの勝負すべてに勝利している。それから幾つかの変遷があり、寛永17年(1640年)熊本藩の細川家に仕え、正保2年(1645年)熊本で62歳の生涯を閉じる。今年は東京オリンピックが開催されるが、漢字で「五輪」と名付けたのは読売新聞社である。それは宮本武蔵が書いた兵法書「五輪書」が由来となっている。
【竜 野】 街道は林田川を渡って太子町から「たつの市」に入る。J R駅名は竜野であるが、市の名前は、ひらがなの「たつの市」である。これは平成17年当時の龍野市、新宮町、御津町、揖保川町が合併した時に命名されたが、周辺の町村を憚ったものであろう。なおたつの市の中心は街道の林田川の渡しより北へ3kmほどのところであり、そこには龍野城の城下町があったところである。龍野は脇坂藩5万3千石の城下町であったが、現在の人口は7万6千人の地方都市である。
 この頃になると、中国から飛来する黄砂で空は霞んでいるが、直射日光を浴びずにいられるので助かる。しかし、暑さは増し、街道沿いにあったファミリーマートで75円のガリガリ君を買い、しばし休憩した。 再び新幹線と並行して歩くが、乗願寺や揖保小学校の満開の桜を見て癒された。J R山陽本線の踏切から北に向きを変えると揖保中学校の前を通る。そこから西へ向きを変え、国道2号と合流して大河の揖保川大橋を渡る。昔は「揖保川の渡し」があった所である。橋を渡ると正條宿に入るが、道は狭いが宿場の面影はまったくない。J R竜野駅を過ぎ、郊外へ出てしばらくすると片島宿の集落に入る。宿場間距離が短い理由は分からなかった。街道はたつの市から相生市へ入る。
【相 生】 街道筋の西池、塚森古墳を過ぎ、市街地へ入って行く。まもなくJ R相生駅の前に出て前日に予約しておいた駅前のビジネスホテル「相生ステーションホテル」にチェックインするが、小さなトラブルにあう。フロントで名前を言うが予約は入ってないと言われた。予約はしてあると言うと受付係はパソコンを何度もチェックしていたが、「予約受付の記録が入っておりません。申し訳ございません。しかし部屋は空いていますのでお泊りになって頂けます」と悪びれた表情で言われ、朝食付き料金5750円を支払って7階の部屋に入った。
 1日目は久しぶりの長距離で疲れ、直ぐに風呂へ入り隅々まで良く洗った。入浴後、相生駅前のコンビニで買った缶ビール2本を飲んで弁当を食べ、パジャマ姿でビールを飲む自分を写真に撮った。スマホのLINEで応援者に写真やコメントを送信し、午後9時過ぎには熟睡に入った。翌朝5時40分に起き、リュックザックの荷物支度をして食堂のバイキング朝食に行った。料理の数量から推測して宿泊者は5~6名であった。しかし20種類以上の献立が用意されており、これではホテルは赤字ではないかと思った。コロナ禍の影響で経営が大変かと同情する。
 さてホテルを7時にチェックアウトして相生駅前に出るが、霧が立ち込めていた。新幹線が停車する駅なので、さぞかし大きな駅かと思ったが駅舎は小さく乗客も少ない。現在の相生市の人口は2万9千人で著しい人口減少に悩んでいる。何はともあれ2日目の街道歩きをスタートする。駅から南へ5分ほど歩くと西国街道の筋に出る。5差路の交差点が追分である。東は姫路、西は岡山、南西は赤穂である。追分の石道標があり、写真を撮ろうと三脚を立てるが通勤、通学の人たちは無言で通り過ぎる。狭い路地に入り赤穂浪士の「神崎与五郎の孝子井戸」を探すが見当たらなかった。その先の芋谷川(おこく)に架かる芋谷橋を渡ると、右手に那波公園(ななみ)があり、桜が満開であった。那波小学校を過ぎると漁船が停泊する那波港に着く。小さな港で今回の街道歩きで初めて海を見る。佐方川に架かる工和橋の手前で国道250号と合流し、車の通行量が多くなる。
 街道は相生産業高校、J R西相生駅を過ぎ、登り坂が始まる。赤穂街道最大の難所である高取峠に差掛かる。飛鳥時代はこの辺りは鷹が多く生息し、鷹狩りの名所であったので「鷹取峠」と呼ばれた。これがのちになって漢字が変り「高取峠」となった。今は国道250号と重なり、車の往来が激しく、しかも歩道が無く、路肩が30cmもない道である。カーブでは急に車がかすめる様に接近して来るので、危険極まりない。峠道の脇に「高取峠トンネル早期着工」と言う大きな看板が掲げてあったが、道幅が狭く、急カーブが多いので、その意味がうなずけた。こんな道を歩く人はまず、いないだろう。と言って自分は歩いている。でも所どころに満開の桜が咲き、登り坂の苦しさを癒してくれる。かなり登り続けると車が数台駐車できるくらいの空き地があり、ここで休憩して用を足し、飴を頬張った。しばらく歩くと相生市から赤穂市に入る。
【赤 穂】 赤穂市の表示板を通過して1分ほどで高取峠の頂上に到達した。すると右手に小さな公園があり、その隅に「早駕籠像」が立っている。忠臣蔵で有名な「江戸城、松の廊下刃傷事件」の知らせを伝えるため、赤穂藩士の早水藤左ヱ門と萱野三平が早駕籠に乗りこの高取峠を越えたモニュメントである。当時、江戸から赤穂まで最速の早駕籠でも7日はかかるが、この時は昼夜連続で駆け続け、なんと4日半で到着している。ちなみに私の街道歩きなら35日くらいは掛かるだろう。
 ここでしばらく休憩したあと、今度は下り坂が始まる。足取りは軽くスピードが出て汗もかかない。J R赤穂線のトンネルはこの山の下を通っている。やがて坂の勾配が緩やかになって来ると眼下に街並みが見えてくる。平坦な道になると道幅が広くなり、歩道も付いている。天気は晴れているが黄砂のため空はドンヨリしている。
 まもなく千種川に架かる坂越大橋(さこし)を渡る。この橋はまだ新しく、幅が広い歩道が付いているので安心して渡れた。橋を越すと、J R赤穂線に電車が走っているのが見えた。坂越中学校の校庭に満開の桜が咲いている。しばらくすると左折すれば坂越の集落へ行く坂越橋があり桜並木が連なっている。千種川の対岸の町が坂越である。江戸時代は西廻り航路を巡った北前船の寄港地として栄え、赤穂の塩の積出港でもあった。現在でも古い建物が保存され歴史文化遺産を見る事ができる町である。しかし、峠越えで足が疲れ、赤穂城の見学でタップリ時間を取りたいため、寄り道するのを見合わせて、一路、赤穂の城下町を目指した。
 小さな野中橋を渡り赤穂警察署の角を左折すると市街地に入る。イオン、マルハン、エディオン、赤穂市文化会館などが立ち並び、加里屋を通り中広を右折すると赤穂城の大手門に着く。私は播州赤穂城には平成21年に名鉄日帰りバスハイキングで来た事があるので12年ぶりであった。赤穂と言えば忠臣蔵で良く知られ、映画やテレビドラマで頻繁に取上げられ、日本人なら誰でも知ってる歴史舞台である。12年前と比較して変わった事は、城内の至る所で再建工事が進んでおり、石垣、門、塀、櫓、庭園などの復元が進んでいたのに驚いた。
 赤穂城の創建は慶長5年(1600年)姫路城主、池田輝政の弟、池田長政が築城し、池田氏の分家が代々3万5千石の大名として継承していたが、正保2年(1645年)池田輝興が発狂により正室を殺害する「正保赤穂事件」を起こし改易となる。そのあと、広島藩浅野家から分家した浅野長直が入封する。長直は城の改築、城下の上水道整備、赤穂塩の開発など藩政の基礎を固めた名君である。長直の孫が忠臣蔵に登場する浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)である。9歳で家督を継ぎ、筆頭家老の大石内蔵助に藩政を任す。 長矩は天和3年(1683年)に霊元天皇の勅使饗応役を拝命し、高家・吉良上野介義央の指南により無事に役目を果たす。その直後、三次藩主(みよし)浅野長治の娘、阿久里と結婚する。元和6年(1693年)備中松山藩(現在の岡山県高梁市)の水谷家が改易になったので長矩は城請取役を命じられ3500人の軍勢を率いて備中松山へ出向き、無事に城を請け取っている。
 そして元禄14年(1701年)に東山天皇の勅使饗応役を命じられ、1回目の饗応役の時と同じ指南役は吉良上野介となった。ところが3月14日、将軍の「勅答の儀」の日に江戸城本丸松の廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上野介に「この間の遺恨覚えたるか~」と叫び脇差で切りかかる大事件を起こす。将軍徳川綱吉は激怒し内匠頭は即日切腹、播州赤穂藩は改易、お家断絶の処分となる。内匠頭は享年33歳。辞世の句は「風さそふ 花よりもなほ我はまた 春の名残りを いかにとやせん」無念であったと思う。ここから忠臣蔵の物語が始まる。翌年、元禄15年12月14日に筆頭家老の大石内蔵助を始めとする赤穂浪士四十七士が江戸、本所松坂町の吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ち、泉岳寺の内匠頭の墓前に首を供えた。この物語は日本人なら誰もが知っているが、私も大きな関心を持っている。私が元禄時代に生き、赤穂藩士であったなら討入りに参加していたと思う。なお、私が平成24年に東海道を京都から東京まで歩いた時、高輪の泉岳寺の赤穂浪士の墓に、京都で買った線香を四十七士全員に備えた。
 さて桜が満開の赤穂城を見学したあと、大石内蔵助旧宅を訪ねた。長屋門だけは残り当寺、江戸から駆け付けた早駕籠の使者はこの長屋門をたたいている。感慨深いものを見た。大石内蔵助の辞世の句は「あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」である。内匠頭の悲壮な歌とは対照的で使命を果たした満足感が汲み取れる。そのあと赤穂大石神社を参拝する。大正元年に赤穂浪士を祀って創建され、参道には四十七士の石像が並んでいる。次に浅野家の菩提寺である花岳寺を参拝し、その近くの「息継ぎ井戸」を見学した。これは早駕籠の2名の使者が江戸から駆け付け井戸の水を飲み、一息ついた場所である。
 赤穂街道の踏破を終え、赤穂駅へ向う途中、駅前の食事処「衣笠」へ立寄り、遅めの昼食を取る。注文したのは「穴子天丼定食」と、ご褒美の大瓶ビール。赤穂名物の大きな穴子天ぷら丼に、赤穂浪士討入りそばが付いていた。討入りそばを食べると「さあ~これから吉良邸に討入りだあ~」と言う気分になった。とても美味しかった。帰路は赤穂駅から在来線で相生駅へ行き、空席だらけの新幹線に乗換えて名古屋へ向った。足がかなり疲れたが念願が叶った街道歩きであった。
 

日本の街道歩き〔77〕伊賀街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2021年 4月13日(火)18時06分21秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 伊賀街道は伊勢国の津から長野峠を越えて、伊賀国の伊賀上野に至る十二里半の街道で、現在の国道163号に概ね沿っている。
慶長13年(1608年)、藤堂高虎が伊勢・伊賀の二国の大名として伊予今治から移封され、津を本城に、伊賀上野を支城としたため、二つの拠点を結ぶ藩の官道として整備された。伊勢国側の美里の追分では松阪市の月本追分を起点とする奈良街道がここで交わり、伊勢神宮への参拝者や水産物・種油・綿などの物資が運ばれるのに利用された。街道は伊勢国側には片田宿、長野宿があり、伊賀国側には平松宿、平田宿があり、現在でも宿場町の面影を残している。
 記録によると、この街道を松尾芭蕉が4回も通行しており、他に吉田松陰、頼山陽、梁川星厳、高山彦九郎など歴史上の人物も通っている。私はこの街道を伊賀上野から津に向って歩いた。
【伊賀上野】 スタートはコロナの緊急事態宣言が解除されて間もない令和3年3月18日で、雲一つない快晴に恵まれた早朝6時に旅立った。多治見から名古屋、亀山、伊賀上野で乗換えて伊賀鉄道の西大手駅で下車したのが午前10時を過ぎていた。直ぐに街道の始点である「鍵屋ノ辻」へ向った。そこは伊賀街道と奈良街道の追分であり、角に大きな石道標「右いせみち、左ならみち」が立っている。ここは日本三大仇討のひとつ「鍵屋ノ辻の決闘」の場所であり、映画やテレビドラマで何度も取上げられた有名な辻である。ちなみに三大仇討の他の二つは①曽我兄弟の仇討ち(建久4年・1193年)、②赤穂浪士の討入り(元禄15年・1703年)である。
「鍵屋ノ辻」事件の発端は、寛永7年(1630年)備前の岡山藩士、19歳の河合又五郎が同僚の17歳の渡辺源太夫を殺害して行方をくらました事から始まる。岡山藩主の池田忠雄は又五郎の行方を探らせると、江戸の旗本直参、安藤治左衛門の屋敷にかくまわれている事が判明したので身柄引き渡しを要求したが応ぜず、大名と旗本の対決に発展した。殺された源太夫の兄、渡辺数馬は藩主から仇討の免許を与えられ、姉婿の剣豪、荒木又右衛門に助太刀を頼み、全国を探し回った。4年後の寛永11年に居場所を突き止め、又五郎が剣術の達人、河合甚左衛門ら11人と奈良から江戸へ向う事を知り、数馬・又右衛門ら4人は、伊賀上野城下の鍵屋ノ辻にある茶屋萬屋で待ち伏せた。ここで史上有名な「伊賀上野鍵屋ノ決闘」が行われ、見事、仇討が成功した。その待ち伏せした茶屋萬屋は復元されて今でも営業している。
 見学と写真撮影を終えて伊賀上野城へ向った。戦国時代、織田信雄(信長の次男)の家臣である滝川雄利が砦を築いたが、その後、天正13年(1585年)に筒井定次によって城郭が形成され、さらに時代が下り慶長16年(1611年)徳川家康の命令で藤堂高虎が大規模な拡張改修をした。現在、近隣一帯は松尾芭蕉を祀る俳聖殿、芭蕉翁記念館、伊賀流忍者博物館がある。この城の石垣は大阪城の石垣と同じ高さ30mもあり、日本一と言われる。なお、現在の天守閣は昭和初期に建てられた模擬天守である。
次に芭蕉の俳聖殿を参拝し「俳句が上手になりますように」と祈願した。私は俳句を始めて4年になるが、なかなか上達できないので、これを契機に精進しようと誓った。歴史上の有名な俳人と言えば、松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶、正岡子規などを知っているが、芭蕉を一番尊敬している。芭蕉は寛永21年(1644年)伊賀の阿拝郡(今の伊賀市) で武家出身の富農、松尾家の次男として誕生し13歳の頃から俳諧の道に入った。私と同じように全国を旅して、多くの紀行文を執筆しているので、街道歩きの先生であり、紀行文の先生であり、俳句の大先生でもある。私にとっては神様のような存在である。芭蕉の紀行文は「野ざらし紀行」(江戸・伊賀上野・奈良・京都・名古屋・甲府・江戸),「鹿島詣」(江戸・鹿島神宮・江戸),「笈の小文」(江戸・名古屋・伊賀上野・伊勢神宮・吉野・和歌浦・奈良・大阪),「更科紀行」(岐阜・木曽・信州更科・善光寺・江戸),「奥の細道」(江戸・日光・白河・福島・仙台・平泉・月山・酒田・新潟・出雲崎・直江津・金沢・永平寺・敦賀・大垣),「嵯峨日記」(京都嵯峨野に滞在して作句)など数多くあり日本全国の街道を歩いている。私も芭蕉の弟子の曽良や宗波たちと一緒に同行したかったな~。 えっ?
 私が最も好きな芭蕉の句は「荒海や 佐渡によこたふ 天の川」である。私が北国街道で出雲崎まで歩いた時、海岸から遠くに霞む佐渡の島影を見て、この俳句を口ずさんだ事を覚えている。
 さて長い時間を掛けて伊賀上野城公園を散策して街道に戻ろうとした時、持参していたカメラの三脚を踏み付けてしまい、壊れてしまった。カメラを設置する事はできるが折り畳み収納が半分しか出来ず、移動は手で持つか、長いままリュックザックに入れるしかなく難儀を強いられた。
 その後、上野の街を歩きだすと「上野天神宮」の前に出る。三脚を立てるのに苦労し写真を撮る。この天神様は菅原神社が正式名であり、菅原道真を主神としている。平安時代に創建されたが、天正9年(1581年)天正伊賀の乱のあと、藤堂高虎による城下町の建設の時、城郭鎮護として祀られた。神社の門の横に「疫病感染除祈願」と言う幟が掲げてあり、コロナ感染症の退散を祈願している切実な状況をくみ取れた。
 街道を東へ進むと伊賀鉄道の広小路駅横の踏切を渡る。市街地を抜け、家がまばらになると寛政11年(1769年)に造られた大きな太神宮常夜灯が見え、街道らしい風景に変わった。矢谷川に架かる車橋を渡る頃、時刻は11時半となり、朝食が5時であったので、お腹がペコペコであった。どこか昼食を食べる所がないかと思ったとたん、目の前に食事処「陣屋」があり、これはラッキーと思い入店した。大浜街道を歩いていた時は食事処を探すのに苦労したが今回は「食べたい」と思った瞬間に見つけたので嬉しかった。しかし、直ぐに食べられる日替定食を注文したが、ボリューム満点は良いが味が今一で少し残してしまった。
【寺 田】 街道はまもなく国道163号と合流し、西明寺、中瀬を通り過ぎると名阪高速道路の中瀬インター近くで高架をくぐる。このあたりは田や畑が広がり田舎風景に変わった。さらに東へ進むと服部川に架かる寺田橋に差掛かる。その橋の手前に大きな常夜灯を見つける。
 下調べではまったく気付かなかったが、その隣に「荒木又右衛門生誕地」の大きな石碑が立っており、説明板が掲示してあった。又右衛門は慶長4年(1599年)伊賀国、服部郷、荒木村に、服部家の次男として生まれた。幼少より備前の池田家に小姓として勤め一時、養子に出されるが後に故郷に戻り、荒木と名乗った。この頃、大和国、柳生村の柳生十兵衛に剣術を学び、後に剣豪となる。その後、大和郡山藩に仕官して渡辺源太夫(河合又五郎に殺害される)の姉、みねと結婚する。妻の弟である渡辺数馬(源太の兄) の仇討に助太刀として協力し、「鍵屋ノ辻の決闘」で又五郎を討ち、一躍有名になる。後に鳥取藩に仕官するが40歳で死去した。
 歴史の勉強をした後、橋を渡り寺田地区に入る。街道は国道163号と重なっているが、国道の幅員が狭く歩道が無いので常に大型車がかすめ危ない。 やがて山合いに入り服部川沿いに進むが、川のせせらぎ、ウグイスの鳴き声、そよ風に押され気分良く歩く。暫くすると「中之瀬摩崖仏」に着く。大光寺に属する阿弥陀三尊像が岩肌に彫られているが、高さは5mくらいである。三体は鎌倉時代から室町時代にかけて順次彫られたもので、服部川の対岸から拝んだと思われる。
【真 泥】 街道を東へ進むと真泥(みどろ)地区に入る。途中、砕石工場があり、騒音と粉塵に悩まされながら、小走りで通過する。やがて山合いを抜け、田園地帯に入ると大きな燈籠が見えてきた。これは千戸(せんど)の大燈籠と言われ高さは4mほどある。しかし燈籠の裏側には明治20年と記してあり、江戸時代に伊賀街道を歩いた旅人は、これを見ていない事になる。
 辺りは家屋がほとんどなく、広々とした田畑が続く。炊村(かしき)、畑村(はた)を過ぎ、真泥橋、真泥大橋を渡ると大山田の集落に入る。
【大山田】 国道163号から分れ、左側の狭い道に曲がると宿場町に入る。昔は平田宿と言われ土蔵や連子格子の家が並んでいる。車や人の往来はほとんどなく静かな町並みである。平田宿は上野宿と平松宿の間が長いので、承応2年(1653年)に馬継ぎの宿として設置されたが、札ノ辻には問屋場(といやば・荷物や馬の継立てをする所)と高札場があったと言われる。寛延年間(1750年頃)の宿場規模は戸数176,人口729人と言う記録が残っている。
 宿場内には大山田保育園、ミニストップ、大山田西小学校、西町だんじり小屋などがある。宿場の中心地あたりには梅屋博物館、札ノ辻、道標などがあり、往時の面影が残っている。
 道を歩いていると地図を持ちながら私と反対方向に歩いている同年配の男性とすれ違い挨拶を交わした。しかし軽装でスニーカーを履き、小さなショルダーバッグ姿なので街道歩き人ではなく只の観光客かと思った。
 宿場の外れに近づくと、東町だんじり小屋、植木神社の前を通る。植木神社は文永年間(北条時宗の頃)に創建され、現在まで続く祇園会例祭は豪華絢爛であると言う。門前には芭蕉の句碑「枯芝や ややかげろうの 一二寸」があるが、解説がないので意味が分らなかった。この前で一人の中年女性がキョロキョロしながら歩き、私が横幕を持って写真を撮っていると物珍しそうにのぞき込んできたが、挨拶をしてこなかった。再び国道163号と交わり服部川沿いに街道を東へ進む。
【阿 波】 やがて山合いの道となり単調な景色を見ながらひたすら歩く。木の館、川北公民館、正覚寺などを通るが見どころがなく足の疲れを感じる。やがて寺坂橋あたりから国道を離れ、阿波の集落に入る。辺りは平地となり、田畑が広がる。小さな宮谷川の土手に満開近い八重桜の並木があり、うっとり眺め癒された。
 地図によれば、まもなく阿波神社があるはずであるが見当たらず、礎石らしきものが残っているだけであった。服部川に架かる新天神橋と大橋を渡り、豊田酒店を左折して川沿いの狭い旧道に入る。このあたりは「平岩の渡り瀬」と言われ、川のせせらぎが心地良い。また、川底まで透き通るほど水が綺麗で、街道筋には満開の八重桜が咲き、春の訪れを実感させてくれる。本当に癒される。
 しばらくすると、小さな道標があり富永橋から新大仏寺への矢印があるが、時間がないので直進する。まもなく国道163号と交わり阿波郵便局を過ぎると左折して平松宿に入って行く。江戸時代初期は平松宿より1.3km東に上阿波宿があったが、万治元年(1658年)、天和元年(1681年)、元禄7年(1694年)、元禄8年(1695年)、元禄9年(1696年)に起きた度重なる大火があったため、宿場を平松に移した経緯がある。
 藤堂家の津藩は本城を津城とするが、支城の伊賀上野城には城代家老を置いた。藩主が伊賀上野巡見のため伊賀上野城へ向う時、長野峠を越えたが、平松宿で休憩するための「お茶場」が設けられていた。
 明治時代になり、伊賀地方に鉄道や国道が整備されると、長野峠の存在は小さくなり宿場は衰退するが、そのままチルド保存されたため、当時の町並みが残っている。平田宿を過ぎると遙か右手の山の上に風力発電の大きな羽根が見えたが、青山高原の風力発電機と思われる。まもなく伊賀街道最大の難所である長野峠に差掛かる。しかし国道163号に長野トンネルと新長野トンネルが開通してからは、旧道はまったく通行が途絶え、やがて樹木に覆われ街道ルートが消滅してしまった。現在のトンネルは長さが2000mもあり、歩くには排気ガスと車との接触危険があるので、トンネルの手前で引返し、バスで伊賀上野の上野市駅まで戻った。
 上野市駅は観光目的のためか正面に「忍者市駅」と言う大きな表示がしてあり、隅の方に小さく「上野市駅」と書いてあるだけである。帰路の鉄道は、上野市駅、伊賀上野駅、亀山駅、名古屋駅で乗継ぎがあり、ローカル線のためそれぞれの待合時間が30~50分もあるので、帰宅に要する時間が約5時間かかるため、駅前のコンビニで缶酎ハイ2本と幕の内弁当を買って列車内で夕食を取り、夜遅く帰宅した。
【平 木】 2日目は、前日壊れた三脚の代わりを持って電車に乗り、近鉄津駅で下車した。この日は山奥を歩くので津駅前のコンビニで弁当を購入してから、バスで平木へ向った。2日目も快晴に恵まれ、バスの車窓からこの日、歩くルートを確認しながら、1時間10分かかって平木に到着した。バスの乗客は津駅から3人のみで直ぐに2人が降車し、終点まで乗ったのは私一人だけであった。それだけ過疎の地域であり、恐ろしいほど山奥で寂しい所である。
 バスの終点は長野峠の麓で、下車してからトンネルの手前まで歩いた。旧国道163号の峠ルートは急カーブが多く危険個所が多いのでその対策として新長野トンネルが建設された経緯がある。長野峠は昔からお伊勢参りの旅人や、奈良や京都の都から伊勢の斎宮まで赴任する皇女が越えた峠である。さらに本能寺の変の時、徳川家康が堺から岡崎へ逃げ帰る時に、この峠を越えている。また俳人の芭蕉が元禄2年に伊勢神宮参拝を終え、伊賀へ帰る途中、峠の茶屋で詠んだ俳句が「初しぐれ 猿も小蓑を ほしげ也」である。
 さて長野峠から平木へ戻り、街道を歩き始めるが、ゴールの津まで下り坂が続くので気分的に軽やかである。下り坂を歩いているとサイクリングの若者が苦しそうな表情をしながらペダルを漕いでいた。声には出さなかったが「頑張れ!」と声援を送った。暫くすると、道路工事個所があり一方通行のため、ガードマンが旗を振って車を制していた。私がそこに差掛かると、無線機で「歩行者が一人、通過しますので誘導願います」と別のガードマンに伝えていた。こんな所に歩行者が現れるなんて予想もしないような顔をしていたが、親切丁寧に誘導してくれたので「ありがとうございます」と礼を述べた。そこから更に坂道を下ると、今度は「ブルルーン!!」と言う爆音をあげてナナハンの大型バイク2台が登ってきた。そのうち後ろのバイクは長い髪をなびかせた女性ライダーであった。革ジャンを着てカッコいいな~と思って見とれていた。
【長 野】 しばらくして急坂の下りから緩やかな道になると、長野の宿場に入る。国道から別れ旧道に入ると道の両側は古い家屋が並んでいるが、人影はまったくない。すると家の前で段ボールの整理をしていたお婆さんと逢い「こんにちは」と久しぶりに人と挨拶をした。長野宿は宿場の機能として問屋場が設置されていたが今はない。商店は一軒もなく、あったのは理髪店だけであったが、らせん状の点灯は回っていなかった。バス停はあるが2時間に1本くらいの運行であり過疎の集落である。
 宿場の南の外れに道標と宿場案内板が立っていたが、その近くに「長野氏城居館跡入口」と言う表示板があった。南北朝時代から室町時代にかけて、ここを本拠に安濃郡と河芸郡あたりを支配した豪族の長野氏の城である。地図によれば、山の中を30分ほど歩くと西の城、中の城、東の城が標高540mの山腹にあると言う。
【美 里】 しばらくして旧道は国道と合流し、車の通行はあるが幅員が狭く歩道が付いていないので車に引っ掛けられないよう注意して進む。分郷、柳谷を過ぎると大東寺の前を通り美里の集落に入って行く。
 まもなく国道から分れ、再び旧道を歩くが、そろそろ昼時になり津駅のコンビニで買った弁当を食べようと適当な場所を探すが見当たらない。街道沿いに常夜灯や一万度碑と言う石碑を幾つも見ながら歩き、再び国道と合流する。すぐに東足坂(ひがしあしさか)と言うバス停を見つけた。屋根とベンチがある停留所で弁当を食べるには最適の場所であった。この辺りはコンビニや食事処がまったくなく、弁当を買っておいたのが正解であった。
 食べ終わってから長めの休憩を取り歩き始めたが、道は平坦に変わった。J A安芸の近くに大きな石碑があり「五百野皇女塚」(いおのこうじょづか)と記してあった。日本書紀によると五百野皇女は第12代、景行天皇の第七女で日本武尊(ヤマトタケル)の姉にあたり、久須姫と呼ばれた。皇女は伊勢の斎王として任を終え、都へ帰る途中、病気のため五百野の地で亡くなり葬られたと言う。
 その先の稲葉バス停の近くに常夜灯や石柱が並んでいる追分がある。直進すれば津へ向うが、右折すると松阪市の月本追分へ向う奈良街道である。「右・さんぐう道、左・津道」と言う道標があるはずであるが、探しても見つからなかった。そこに大きな弘大師の石像が立っていたが真新しかった。ここを過ぎると街道は森の中へ入り、寂しい道を歩き続ける。
【片 田】 森を抜けると、やがて片田の宿場に入る。かなり足が疲れてきたが、足取りはまだ、しっかりしている。街道は国道と重なるが土蔵や連子格子の家が多く残っており、宿場のイメージがある。宿場を通り抜けると周辺に新しい団地が点在している。津の郊外エリアに入り車の通行量が多くなってきた。
 片田志袋団地(かただしぶくろ)の中に坂本山古墳があるので寄り道した。坂道の多い団地の中に小高い丘があり、階段を登ると八重桜が咲いている円墳があった。この坂本山には元々7基の古墳があったが、昭和44年の宅地造成のため壊され、現在3基が残っている。築造年代は4世紀後半から5世紀初め頃で古い方である。古墳からは剣・刀子などの鉄器や、壺・器などの土師器(はじき)が出土している。ここでまた、ハプニングがあった。前日、三脚が壊れたので別の三脚を持参したが、古墳の前で撮影する時、今度は三脚の付け根が折れてしまい、二日連続の三脚トラブルに嘆いた。でも煩雑さはあったが写真撮影は可能だったので不幸中の幸いであった。
 そこから5分ほどの所に平忠盛塚があるので続いて見学した。忠盛塚と呼ばれるこの地は「平氏発祥地」と言われる。桓武天皇の曽孫、高望王を祖とする平氏は、初め東国に土着し勢力を張っていたが、平将門の乱や平忠常の乱のあと、東国は源氏の地盤となり、平貞盛の子、維衡(これひら)の時、伊勢・伊賀を本拠地とするようになった。私が訪れた場所には「平刑部卿忠盛公誕生地塚」と言う石碑が立っていた。山桜の木がある丸い土盛りが忠盛塚であり、50mほど離れた所に産湯池がある。忠盛は太政大臣となった平清盛の父である。なお、伊勢平氏の中には安濃津三郎や桑名冨津二郎と言う武士もいる。かなり時間を掛けて見学が終わると、伊勢自動車道の高架をくぐり、津市内へと入って行く。
【 津 】 街道は殿村、野田を通って五軒町バス停から東へ進み安濃川の手前の櫛形を右折して川沿いに東へ進む。北河路橋を過ぎ、神納町(かのう)の交差点で左折し、国道163号から分れる。すると右手にとてつもなく大きな木が聳えていた。「名残の大木」と呼ばれ、見上げるばかりの高さに驚く。その先に安濃川に架かる納所橋のたもとに小さな延命地蔵尊があり、道中の無事を感謝した。
 この近くに名門の津高校があり、津市立新町小学校の隣あたりに「谷川士清(ことすが) の旧宅」がある。ここは現在、史料館となっており入館して見学した。谷川士清は松阪の本居宣長と並んで日本を代表する国学者である。宝永6年(1709年)現在の津市八町に医者の息子として生まれた。幼い頃から学問に優れ、21歳の時、京都へ遊学して、医学、儒学、本草学、神学を学び津へ帰る。家業の医者の仕事を続けながら国学の研究を続け多くの門人を指導した。士清の学問業績は数多いが、日本書紀の研究は特筆され、また日本で初めて五十音順の国語辞典「和訓栞」を作った功績は偉大である。そこから200mほど離れた所に谷川神社があり、境内に反古塚(ほごつか)がある。士清が研究した「日本書紀通志」の下書きを埋め、後世に正確に伝わるよう塚を作った。
 さて残るは、あと2kmであるが、かなり足が疲れてきた。八町(はっちょう)の旧道は車が少なく歩きやすい。J Rと近鉄の踏切を渡り、津市役所の横を通って津城に着いた。時間は午後4時を過ぎており、夕方のジョギングや子供連れで散歩する人を見かけた。城内の日本庭園を鑑賞し、藤堂高虎の銅像を見て、再建された模擬隅櫓で最後の写真を撮る。
 津城は安濃川と岩田川に挟まれた津市の中心地に位置する。現在の津市の古称は安濃津(あのつ)であり、平安時代から伊勢の政治、経済の中心であった。鎌倉時代には藤原南家の流れをくむ長野氏が支配していた。津城の起源は戦国時代の永禄年間に長野氏の一族、細野藤光が小規模な安濃津城を構えた事に始まる。永禄11年(1568年)織田信長の伊勢侵攻により、弟の織田信包が入城して整備し天正5年に五重の天守閣を造った。
 その後、時代は下って慶長13年(1608年)伊予今治藩の藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石を持って移封し、城の大改修を行った。その後、10万石の加増を受け32万石で明治維新を迎える。津は江戸時代を通じて伊勢神宮参拝の宿場町として栄え「伊勢は津で持ち、津は伊勢で持つ。尾張名古屋は城で持つ」と言う有名な伊勢音頭に謡われた。
 津城を伊賀街道のゴールとし、この後、近鉄津新町駅まで歩き帰途についた。帰宅後の冷えたビールがたまらなく美味しくて「生きてて良かった」と、至福のひと時を過ごした。
 

レンタル掲示板
/29