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清津峡渓谷トンネル

 投稿者:田中建治  投稿日:2022年 6月26日(日)15時22分15秒 M014011001032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用
  清津峡は上信越高原国立公園内に位置し日本三大峡谷(黒部峡谷 富山県・清津峡 新潟県・大杉谷 三重県)の一つです。清津峡は約260年前前柱状節理の隆起と清津川の浸食により、地上に露出し、さらに谷が深くなったことで清津峡ができた。
1996年10月に清津峡を見物するための渓谷トンネル(全長750m)が開坑しトンネルの途中にある見晴所から清津峡を見ることが出来ます。
トンネル出口にあるパノラマステーション「ライトケープ(光の洞窟)」は清津峡の景観を反転して写す「水盤鏡」が幻想的な眺めを作り出す。半鏡面のステンレス板が全体を覆い、荒々しい岩の形、色鮮やかな緑、青緑色の河水を、さまざまな反射によって内部に取り込む。峡谷の沢水の冷たさを足で感じながら、風景と一体化した空間を体験することが出来ます。パノラマステーションが撮影スポットとして人気があります。
 
 

退職者の会の活動

 投稿者:石田 宣安  投稿日:2022年 6月22日(水)00時31分16秒 p1120193-ipngn200804tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
返信・引用
  退職者の会の活動を紹介します

私たち「NDS労働組合退職者の会」の主な活動は共済活動ですが、NDS労働組合と合同でレクリエーション(コロナ禍前までは潮干狩り)も行っています。
また上部組織の連合愛知シルバー倶楽部に加入していてシニア世代の制度改善の取り組みなども行っています。
この連合愛知シルバー倶楽部では年に一回秋に総会を開き、取り組みの総括と運動方針を決定し、総会終了後「おたのしみ演芸会」と称し組織内の音楽愛好会の演奏や有名な芸人の落語や歌謡ショウなどが行われ会員の楽しみになっています。
連合愛知シルバー倶楽部には石田が幹事として活動に参加しています。

先日開催された第3回幹事会では
1、11月16日(水)開催予定の「第32回定期総会?おたのしみ演芸会」の開催内容について
2、第26回参議院選挙について
3、日本退職者連合会定期総会意見集約
4、新たな取り組み意見交換
など論議し決定してきました。

なお、おたのしみ演芸会の演し物は落語(鈴々舎馬るこ)と日産労連のフラダンスなどが候補に挙がっています
幹事会終了後、愛知労働局安全課長の賓田氏による「エイジフレンドリーと安全」という題で講演と意見交換が行われました。
高齢者の事故を防ぐためには、働く高齢者の特性に配慮したエイジフレンドリーな職場づくりを進めなければならないなど高齢者に特化した講演でした。

次回幹事会は9月16日(金)に予定されています
 

博物館明治村

 投稿者:古澤文博  投稿日:2022年 6月21日(火)21時19分8秒 softbank126058193054.bbtec.net
返信・引用
  明治期を中心とする60以上の歴史的建造物を移築、保存、展示する野外博物館として愛知県犬山市にある明治村は今年で57年が経ちました。

この明治村は高度成長期の影で消えゆく貴重な明治期の建造物を何とか保存したいと建築家・谷口吉郎氏と名古屋鉄道社長(当時)の土川元夫氏の同級生の二人が力を合わせて昭和40年に開村、平成27年に50周年を迎え今日に至っています。

コロナ渦も少し落ち着いた先日、紫陽花が咲く明治村を訪ねました。観光客も少しづつ増えてきているようで小学生の遠足も見られました。
また明治の衣装着物姿で村内を歩いて観光客も見受けられました。

明治村人気№1の建造物は「帝国ホテル中央玄関」で大正12年竣工です。ここで見られるのは、車寄せ、メインロビー、ラウンジなど、復元するには約17年の歳月を要したとのことです。
聖ザビエル天主堂(京都市)はステンドグラスの光をとおした美しさはいつ見ても綺麗です。季節を変えて太陽光の差し込む角度が変化し教会内部の映り込みが変化するのも見ものです。
 

散居村と庄川峡

 投稿者:古澤文博  投稿日:2022年 6月10日(金)22時49分15秒 softbank126058193054.bbtec.net
返信・引用
  6月はじめに金沢の奥座敷湯涌温泉で3年ぶりに北陸OB会が開催されました。

帰り道に富山平野砺波市にある散居村展望台を訪ねました。

散居村は富山県西部にある砺波平野の広大な耕地に50m~100mの間隔で点在する、屋敷林に囲まれた約1万戸住居群が、散居村です。

展望台からこのような集落が一望できるのは世界でも珍しく、富山県の「ふるさと眺望点」にも指定されています。

あいにくの雨空で遠くは眺望出来ませんでしたが展望台には田んぼに田植えの時期に水が入り夕日が田んぼを赤く染めた写真が掲示されていました。

散居村を後に国道156号線を南下、途中まだ新緑が残る庄川峡に向かいました。庄川峡には船でしか行けない大牧温泉が有ります。

庄川峡には赤い新しい橋がかかり新緑なか赤色が際立っていました。

庄川峡を後に五箇山・白川郷を通り帰途につきました。
 

芝桜咲き誇る茶臼山高原

 投稿者:古澤文博  投稿日:2022年 5月23日(月)21時54分3秒 softbank126058204058.bbtec.net
返信・引用
  2年ぶりに訪ねました茶臼山高原は今、芝桜祭りが6月5日まで開催されています。

ここの芝桜は平成19年度から植栽をはじめ、現在では22,000平方メートルの広大な敷地に
40万株の芝桜が咲き誇っています。

天気に恵まれ青色の空にピンク・白・青紫色の芝桜が美しく映え、標高1358メートルの萩太郎山はまだ少しひんやりと感じる風が吹いていて心地よい気分となりました。

2年前の同じ時期に来た時には無かったウッドデッキのオープンテラスがリフトの終点にある展望台の下に出来ていました。

ここから新緑一色の高原と南アルプスから三河方面の景色をゆっくりと眺望出来ました。

コロナ渦で最近このような展望が良い所に各地に出来ているようです。

 

5月の伊吹山

 投稿者:古澤文博  投稿日:2022年 5月22日(日)21時46分40秒 softbank126058204058.bbtec.net
返信・引用
  5月も中旬になりました。新緑もそろそろ終盤に沖縄は早くも梅雨に入っています。

間もなく東海地方も梅雨に入る季節を迎えています。

4月には残雪が残る伊吹山と桜を撮影してきた伊吹山がすっかり春の装いになりました。

麦畑も間もなく黄金色に変わります。今はグリーン色の穂が出ていました。

度々訪れていた滋賀県米原市の三島池も周辺は新緑一色で池に映る伊吹山もグリーンぽくなっていました。
 

新緑の樽見鉄道

 投稿者:古澤文博  投稿日:2022年 5月 6日(金)21時55分59秒 softbank126058204058.bbtec.net
返信・引用
  5月のゴールデンウイークも後半に入り、各地の観光地は大変賑わっています。

今年は雪の季節、桜の季節と写真撮影してきた樽見鉄道を再び訪ねました。
爽やかな新緑の季節、水田に水が入り、山々は黄色・薄緑・濃い緑と美しい景色を見せてくれます。

いつもの撮影場所に着くとやはり撮り鉄さんは一人二人います。ちょっと話しかけてみるとなんと北海道からこの連休を利用して来ているとのことビックリです。

最近は爽やかな季節が短く感じます。

今回は快晴、樽見鉄道の単行の列車が新緑の中過ぎていく風景を撮影してきました。
 

日本の街道歩き〔90〕養老街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2022年 4月26日(火)23時02分41秒 global221-206-122.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 養老街道は美濃街道の大垣・塩田橋を起点に杭瀬川沿いに南下し、多良街道と接しながら綾野を進み、相川を越して蛇持、飯田、直江を通って牧田川に出る。川を越して九里半街道と交差し、高田の町を通り、柏尾から険しい山道を越えて養老の滝に出るルートである。
 昔から養老の滝を見物するのに利用された街道である。明治時代に入ると養老公園が開設、整備され、文化人や政治家も多く訪れるようになった。中でも明治43年には、大正天皇がまだ皇太子であった時に、この街道を通られて養老の滝まで物見遊山された。現在はマイカーや養老鉄道を利用して滝を訪れる観光客が多くなり、街道を歩く人は私のような街道マニアくらいしかいないであろう。
【大 垣】 出発は令和4年4月5日である。その3日前に八神街道(やがみ)〔清洲~祖父江〕を踏破したばかりで、疲れが少し残っていたものの、満開の桜を愛でながらのスタートであった。
 JR大垣駅から養老鉄道に乗換え西大垣駅で下車して歩き始める。まず、目についたのが残雪の伊吹山である。程なくして、私が平成24年に踏破した美濃街道(垂井~名古屋)を西に向い塩田橋に着く。ここが美濃街道と養老街道の追分である。杭瀬川に架かる塩田橋を渡ると有名な「塩田の常夜灯」があり、ここで最初の街道写真を撮る。江戸時代には杭瀬川の塩田湊があり、船の安全を見守った常夜灯である。また伊勢神宮の遥拝所にもなっている。隣には古びた石道標が3つ立っており、「塩田橋」、「養老街道」は判読できるが、もう1つの道標は摩耗が激しく読み取れない。
 ここの立派な常夜灯は平成30年9月4日の台風21号により破損してしまい、近づくと危険なので黒い大きなカバーで覆ってある。以前、私が美濃街道を歩いた時は凛々しく立っていたので痛ましい姿を見るのは残念である。そこには説明書きがあり「現在、修理方法について検討中」と記してあるが、4年以上も放置されたままである。
 天気は快晴、風は強いが、春の陽気に快適なウォーキングを楽しむ。街道は杭瀬川の堤防沿いに一路南下するが、犬の散歩する人や、ジョギングをする人と出逢う。途中、静里町村中公園を過ぎると、まもなく東海道新幹線の高架をくぐる。
【綾 野】 高架をくぐると右折して杭瀬川から離れる。すると広場で20人くらいの老人たちがゲートボールに興じている。大きな声や笑顔で動き回る姿を見ていると、健康そうな老人ばかりで、同世代の者としても嬉しくなる。
 綾野郵便局、J A西美濃綾里支店を過ぎると立派な真宗大谷派の真照寺に着く。土塀もお堂も新しそうであるが、荘厳な印象を受ける。綾野の集落の中心部であるが、車や人の往来はほとんどない。その近くにもう1つの真宗大谷派の浄徳寺がある。
 そこから南下すると県道96号に合流して多良街道と交差するが、すぐに左折して田園地帯に入る。暫くは、延々と続く田圃の中を歩くが、右手に残雪の伊吹山が凛々しく聳えている。ちょうど街道筋に菜の花畑があり、雪山とのコラボが絵になると思い、写真を撮る。
さらに進み、水都大橋西と言う交差点を過ぎると左手に森が見える。これは杭瀬川スポーツ公園で、平成7年に開設され、15haの広さを持つ。サッカー、野球、ソフトボールなどの競技場のほか、水生植物観察ゾーンも併設されている。
 街道はさらに田園の中を南下し、野口の集落に入る。ここから相川を越さなければならない。昔は船渡し(段海の渡し)があったが、今も橋は架かっていない。やむを得ず上流へ500mほど北上して養老橋へ迂回しなければならない。往復で1kmの無駄足となるが、仕方ない。養老橋からは、また残雪の伊吹山と満開の桜を眺め癒される。この養老橋が大垣市と養老町の境界になっている。今度は相川沿いに南下して、東海環状自動車道の高架をくぐる。
【蛇 持】 高架をくぐると蛇持(じゃもち)の集落に入る。小さな色目川を渡ると色目川排水機場に出る。色目川土地改良区が受け持つ338haの排水を行い、この付近の輪中内の水害を防ぐ施設である。そこから少し西へ行くと、柿経池(こけら)があり「蛇持経塚跡」の石碑が立っている。昭和8年に池の底から沢山の檜の薄板が発見され、その板には経文が書いてあり、柿経と言って養老町文化財に指定されている。
 ここで気温が上昇し、上着を脱いで水分補給とせんべい、チョコレートを食べて休憩を取る。蛇持の集落は狭い道が入り組んで迷路のようになっている。そんな中、路地の一角に祐泉寺があり、立寄って参拝する。ここも真宗大谷派である。 集落のあちらこちらに美しい花が咲いているが、私は花の名前が無知なので、ただ眺めるだけである。でも花で疲れが癒される。集落を出ると再び田園地帯に入る。
【飯 田】 街道は南へ向うと、やがて飯田の集落に入る。町中に養北幼稚園があるが、閉園しており、入口はバリケードで封鎖してある。過疎になり園児が少なくなってしまったのだろうか。ちょっと寂しい光景である。その近くの養北小学校の前を通るが、春休みのため運動場はガラーンとしている。その先の小畑川の河畔に桜並木があり、満開の桜の下で街道写真を撮る。
 そろそろ昼時になり、食事処を探すが、こんな田舎にあるはずがないと思っていたら街道が県道96号と交差する所に「日本料理わか山」の看板を見つける。なんか高級そうな和食料理店で入店を躊躇したが、ここを見逃すと、どこで昼食にありつけるか心配となった。でも勇気を出して店に入った。お品書きを見ると、2千円台、3千円台のメニューばかりで不安になったが、メニューの最後のページに1200円の和食ランチがあったので注文した。私の大好きな刺身、天ぷら、出汁巻き卵、茶わん蒸し、筑前煮、味噌汁、デザート、抹茶が付いて、この値段ならお値打ちと思った。昼食は当り外れがあるが、今回はラッキーであった。なお料理の器の隅に、この料理店の庭に咲く桜の花びらが一輪添えてあり、風流まで味わう事ができた。
 腹ごしらえを終えて街道に戻り、小畑川に架かる小畑橋を渡ると名神高速道路と東海環状自動車道が交差する養老ジャンクションが見えてくる。ドコモショップ養老店の角を右折して名神高速道路の高架をくぐる。
【高 田】 高架をくぐると直江の集落に入る。静かな町で人は見かけない。多芸公民館から御鍬神社へ行くと春日神社の表示がしてある。地図が誤りなのか、現地は春日神社であり不思議に思う。 そこから南下して牧田川へ向い、堤防の坂を登る。すると、あっと驚く桜並木が突然現れる。圧巻の絶景にウットリする。ここに大きな大神宮常夜灯「直江新屋敷燈明」が立っている。牧田川の船渡し跡である。現在は下流300mほどの所に高田橋が架かっていて、ここを渡る。
 対岸にも大きな大神宮常夜灯があるが、桜並木はない。ここから高田の中心部へと向う。しかし道を間違えて高田駅前の交差点に出る。近くには養老町役場がある。ここは平成29年に九里半街道を踏破した時に通過した所である。その時に知った事であるが昭和29年に高田町と養老村が合併した時、町は高田の方が大きいのに、新しい町名は「養老町」になった。その当時、高田町の人々は不満を持つ人がいたが、「高田」より養老の滝を有する「養老」の方が全国的な知名度が高いので命名された経緯がある。そのいきさつがあってか、町役場は高田に立地している。
 さて道を間違えたので本来の街道筋に戻るため大宮神社を目指して西へ進む。すると大きな「ミズノテクニクス養老工場」の前を通る。野球のバットやボール、ゴルフクラブ、テニスラケットなどを製造しているが、プロ野球選手であったイチロー選手の木製バットは、ここでオーダーメイドされていた。町中に入り、桜が満開の真宗大谷派の専念寺を参拝するが、疲労と足痛で暫く休憩する。小腹が空いたのでリュックも中から羊羹とチョコレートを取出し糖分補給もした。
 道が狭い街道を歩くが、いたる所に大小の大神宮常夜灯が立っており、街道筋の雰囲気がある。しばらく進むと大きな鳥居の押越八幡神社に着く。寛文3年(1663年)に建立されて宝暦年間に改修された。街道はさらに南下して養老小学校を通り、押越付近のトミダヤ養老店、養老ミート本店、カネスエ養老店を通過する。すると県道56号にぶつかり、左手に養老警察署を見ながら県道を横断する。
【柏 尾】 街道は右手に養老山系を見ながら、狭くて曲がりくねった道を進むと、浄誓寺の裏手に出る。ここは平成29年に美濃脇街道(関ヶ原~桑名)を踏破した時、昼食のおにぎりを食べたお寺で懐かしかった。裏門から寺に入り、正門で写真を撮るが、ここも真宗大谷派である。この寺でも水分と糖分の補給をして、そこから街道は長い長い登り坂が始まる。
 この坂は明治時代の政治家や文化人が人力車で登ったと言う。大正天皇が皇太子の頃この道を通っているが、御輿か人力車であったか分からない。しばらく登ると右手に広い養老ふれあいセンター公園があり、ここも桜が満開であった。さらに登ると特別養護老人施設「白鶴荘」、養老バーベキューを通過する。
 道は徐々に狭くなり、傾斜がきつくなってきたので、ハーハーゼーゼーと苦しみながら進む。しばらくすると三差路があり、石道標が立っている。「右・たき道、左・いせ道」と表示してある。そして小さな里程石が設置してある。養老の滝まで「二十丁」と言う表示である。一里(3927m)は36丁、一丁は約109mである。二十丁は2180mなので、坂道を休憩しながら行くと、1時間では到達できない事を知る。街道は「十九丁」「十八丁」……の里程標を見ながら延々と坂道を進む。ようやく山道を抜け、集落に入ると正慶寺を右手に見ながら歩き続ける。
【養 老】 養老駅から観光客が歩く道を眼下に見ながら、高い所を歩くと「豆馬亭」と言う古い建物の前を通る。明治13年に創業した老舗旅館で、北原白秋などの著名人が滝の見物に来た時に宿泊している。
 さらに進むと高級旅館の千歳楼の前を通り、養老神社に着く。鬱蒼とした森の中にあり、急傾斜の長い階段を見ると、高所恐怖症の私は登るのを断念し下から手を合わせて参拝とした。養老神社は「養老孝子伝説」の源丞内ゆかりとされ、奈良時代の養老年間に建立された。美濃国神名帳には養老明神と記載されており、明治時代初めに元正天皇聖武天皇を合祀して養老神社に改称された。境内には菊泉水があり、日本名水百選に指定されている。
 参拝後、観光客のルートに合流して紅葉橋、万代橋を進む。途中、足の弱い人たちは休憩しながらゆっくり歩いている。私も途中、小休止を2回ほど取り、やっと養老の滝に到着した。伝承では昔、貧しい一人の孝行息子(源丞内)が病弱な老いた父親を養っていた。ある日、息子が酒好きの父親に酒を与える事ができず、悔いていると、酒の香りがする不思議な泉を発見した。泉の水を瓢箪に詰めて父親に与えると、病気が治っただけではなく白髪が黒髪になり、皺も無くなったと言う。その話を聞いた奈良時代の元正天皇は、現地を行幸し「老いを養う若返りの水」として、年号を「養老」に改めた。この伝承は、「養老の滝」とも「菊水泉」とも言われ、現代まで語り継がれている。養老の滝は揖斐川の支流の滝谷川の上流に位置し、落差32m、幅4mで「日本の滝百選」であり、環境省の「名水百選」にも指定されている。
 ところで、この滝は私にとっても生まれる前から由緒ある滝である。私の両親は昭和23年秋に結婚前の恋愛時代にデートでここを訪れている。その時、私は既に母のお腹の中にいて、昭和24年3月に誕生した。誕生前に養老の滝の音を聴いているので、特別に由緒ある滝である。私が高校入学の時、初めて見た住民票によると父母の婚姻届けは昭和23年11月であった。日数の計算をして苦笑した。
 さて無事に養老街道をゴールして帰途に就く。途中、ドンピシャの満開桜が3000本も続く養老公園内にはたくさんの施設がある。養老寺は親孝行の源丞内が開創したと言われ、天平時代には七堂伽藍があり、多芸七坊(現在の養老郡一帯)に数えられた。戦国時代の永禄年間には織田信長によって寺が焼かれたが、慶長12年(1607年)に高須藩主の徳永寿昌によって再建された。
 坂を下ると広大な養老公園があり、養老キャンプセンター、養老パークゴルフ場、養老ランド、養老天命反転地、岐阜県こどもの国があり、その中を通って養老鉄道の養老駅に到着した。かなりの疲労感があったが、元気に帰宅できた。
 

日本の街道歩き〔89〕八神街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2022年 4月21日(木)17時30分15秒 global221-206-122.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 八神街道(やがみ)は元和元年(1615年)尾張藩の家老で美濃国の中島郡八神に領地を持つ毛利広義が名古屋城へ登城するための道として開設された街道である。八神は現在の岐阜県羽島市の東部にあって、街道ルートは、木曽川を渡し船で越し、祖父江、山崎、森上、片原一色、矢合、北島、増田、迫間、西市場を経て、清洲城付近で美濃街道に合流する。現在の稲沢市から清須市にかけて広がる濃尾平野の田園地帯を通っており、愛知県の県道67号にほぼ沿っている。
 道中には古い道標などが残っているが、知名度が低いので現地でも知っている人は少ない。今回は桜の満開時期に合せて時期を選び、春爛漫の街道旅であった。
【清 洲】 出発は令和4年4月2日。前日の中日新聞「桜だより」で清洲公園が満開となったので出発日を決めた。コロナまん延防止措置が解除されたばかりで、電車の通勤客はマスクをしっかり付けている。名鉄新清洲駅で下車し、すぐにスタートした。
 五条川に架かる長者橋から北へ向い、清洲小学校を過ぎると五条橋に出る。ここは美濃街道のルートである。私は平成24年に垂井から名古屋までの58kmの美濃街道を三日かけて歩いているので懐かしかった。まもなく清洲城に到着するが、お城の東側は誰もいないので、写真は撮りやすい。五条川に架かる大手門前の朱色の橋を渡ると、カメラを持った人や、子供連れの家族らが満開の桜の写真を撮っている。清洲公園の桜並木は200本ほど植えてあるが、密集しているので見応えがある。
 清洲城は応永12年(1405年)、尾張国の守護職である斯波義重が本城の下津城(おりづ)の別邸として建てたのが始まりである。しかし戦乱により文明8年(1476年)に下津城が焼失したので守護所が清洲に移転し、尾張の政治、経済の中心地となった。時代は下り、弘治元年(1555年)、織田信長が那古野城から清洲城に移転した。そして永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いには、この城から出陣している。
 本能寺の変の後の「清洲会議」以降の城主は、織田信雄、豊臣秀次、福島正則、と続き、関ヶ原合戦以後は、松平忠吉(家康の四男)、徳川義直(家康の九男)と変り、人口6万人の尾張最大の都市になった。しかし慶長15年(1610年)、徳川家康の命令で「清洲越し」が実施され、尾張藩は名古屋城へと移転し、清洲城は廃城となった。平成元年に天守閣が復興された。
 さて清洲公園の桜並木をタップリ味わってから美濃街道へ戻る。再び五条橋へ出て、西へ進むと清涼寺がある。元は甚目寺村にあった曹洞宗の寺であったが、寛永年間(17世紀中頃)に現在地に移転した。美濃街道の清洲宿の中心地にあり、門前に高札場があって「札ノ辻」と呼ばれた。そこには道標「甚目寺、佐屋」と常夜灯があり、当時の様子は「尾張名所図会」にも描かれている。
 清涼寺から北へ100mほど行くと、今回の八神街道のスタート地点である追分に到着する。ここから狭い曲がりくねった旧道をジグザグに歩くと、名二環高速道の高架と国道302号の上下幹線道に突き当る。しかし横断歩道が見当たらず、あたりを見回すと近くにアンダーパスの入口を見つける。その高架下の歩道を進んでいるとチリンチリンと自転車のベルが鳴り、高齢のお婆さんが「ごめんなさ~い!通して下さ~い!」と大声を上げて接近して来たので、道を譲った。
 しばらくすると、量販店のヨシヅヤの前を通り、名鉄の線路に突き当るが踏切がないので困ってしまった。良く見ると、そこにある柵は付近の柵と様式が異なるので以前は踏切があったのではないのか。きっと名鉄が通行量の少ない踏切を廃止したに違いないと思った。強引に線路を渡ろうかとも考えたが、電車が頻繁に通過するので止めた。しかたなく線路伝いに名古屋方面へ300mほど行くと、踏切があるので迂回した。往復で600mのロスウォークにガッカリする。線路の向かい側に出ると清洲なのはな保育園があり、これを過ぎると清須市から稲沢市に入る。
【中之庄】 稲沢市に入り増田南バス停を過ぎると家がまばらになり、田園風景に変わる。しかしこの日の天候の影響か、持病の花粉症が激しくなり、鼻水が止まらない。暫くは休む暇なく鼻を嚙みながら歩くが、持参していたポケットティッシュ3個を使い果たし、ハンカチで鼻水を拭きながら進む。困っていると、前方にセブンイレブン稲沢中之庄店を見つけた。立寄ってお手洗いを済ませると、棚にポケットティッシュが置いてあったので迷わず購入する。6個入り165円であったが、何とタイミングが良いかと運の強さを喜んだ。しかし、休憩した後、歩き始めると鼻水がピタリと止まってしまい、結局一度も使用することなく、家まで持帰る事になった。
 さて街道は中之庄の集落に入ると連子格子の家、黒壁の土蔵などを見かけ宿場町らしい雰囲気が醸し出される。町中では民家の前に「中之庄の道標」を見つける。文字が摩耗しているが、ひらがなで「やがみ、なごや」と読み取れる。
 そこから街道は北へ向きを変え、狭い道を進むと民家の庭にサッカーのゴールポストが1個、設置してある。大きさは本物と同じである。たぶん、中学生か高校生の子供がゴールキーパーの練習をするため父親にでも作ってもらったに違いないと想像した。
 まもなく豊田合成稲沢工場の西側を通り、宝田公民館に着く。公民館の隣の公園には枝ぶりが見事な桜が満開に咲き誇っていて癒された。暫く休憩したあと、歩き始めると「土之社」と言う神社入口の1対の常夜灯を見て進む。まもなく北島陽春公園の隣にある陽春院に着く。お堂や鐘楼が立派な曹洞宗の寺である。
 そろそろ昼時となり、食事処を探していると、「北島皿屋敷」交差点に「うま屋ラーメン稲沢店」を見つける。店員の威勢の良い掛け声が飛び交い720円の特製ラーメンを食べたが絶品の美味しさであった。このラーメン店から北へ500mほど行くとアジサイ寺で有名な性海寺がある。何度も訪れた事があるが、境内には90種、1万株以上のアジサイが咲くのは壮観である。その後、街道は県道67号と重なり、西へ向って真っ直ぐな道を歩くと大江川を渡り梅須賀の交差点に着く。
【矢 合】 梅須賀で県道67号から外れて狭い旧道に入る。小さな梅須賀川を渡ると矢合の集落に入る。左手には尾張国分寺跡がある。天平13年(741年)聖武天皇の命で全国に国分寺が建立され、尾張国では、この矢合の地に建てられたが元慶8年(881年)に焼失してしまった。
そこから北へ5分ほどの所に鈴置神社(すずおき)があり、ここの桜も満開であった。境内には大きなクスノキがあり稲沢市の保存樹木に指定されている。また境内には石道標もあり、坊さんの絵が彫り込まれた石柱に「八神道」と書いてある。
 この矢合付近を歩いていると、植木園をあちこちに見かける。植木の歴史は嘉暦3年(1328年)矢合村の円興寺の柏庵禅師が中国から柑橘苗木の生産技術を持帰り、近隣の農家に伝授したのが始まりである。昭和40年代に全国的な緑化ブームが広がり、稲沢固有の庭園用植木の生産が主流となった。全国には他に、川口市(埼玉県)、池田市(大阪府)、久留米市(福岡県)が植木生産で有名であるが、稲沢市を含めて日本4大植木生産地と呼ばれる。
 なお、この街道から北へ少し行くと有名な矢合観音があるが、時間がないので先を急ぐ。街道は三宅川に架かる正楽橋を渡り、再び県道67号と合流して、一路、西へ一直線に進む。
【一 色】 しばらく県道67号を進むが、足が疲れたので「デイサービス長楽」と言う老人介護施設の前で休憩し、持参した甘い羊羹とチョコレートを食べて体力の回復に努める。この辺りは家がまばらな一色の集落であるが、景色が単調でつまらない。
暫く、どんどん西へ進むと片原一色の集落に入り、古びた小さな富士社の隣にある善応寺を参拝する。この寺は織田信長の家臣で、鉄砲隊長であった橋本一巴の祖先が創建した浄土宗の名刹である。日本庭園が美しく本尊の大日如来は愛知県文化財に指定されている。
 その先のセブンイレブン一色市場店を過ぎると右手に片原一色小学校がある。明治時代に創設された歴史ある小学校であるが、校庭に八神街道の石道標がある。学校の敷地内には無断で入る事ができず、正門は鍵が掛かり門扉で閉ざされている。小学校は春休みで無人となっており、どこからか入れないかとウロウロしていると、垣根が切れている所があり、体を細めて校庭に侵入した。少し罪悪感があり監視カメラに撮られているかもしれないと思った。それでも目当ての石道標を探し当て「右やがみ、左なごや」の文字が読み取れた。その隣には今では珍しい二宮金次郎の石像が立っている。この片原一色小学校の石道標が見られて気分良くして、八剣神社の満開の桜を眺めながら街道歩きを続けた。
【森 上】 八剣神社から県道67号を離れ、狭くて曲がりくねった道を進むと日光川に架かる森上橋を渡る。日光川の川岸に連なる桜並木が川面に垂れ下がり絶景を見る事ができた。まもなく名鉄尾西線の踏切を渡ると右手に森上駅がある。その頃、トイレへ行きたくて我慢していたが、駅員に頼んでホーム内にあるトイレを使わせてもらった。その後、森上駅前のロータリーを歩くとイチョウ並木の石碑が立っていた。この辺りはイチョウ並木が多く、昨年の秋に私が所属している夕顔句会の吟行で、この付近をウォーキングして俳句を作った所である。
 イチョウは「生きている化石」と言われ、2億5千万年前の古生代・2畳紀から続く植物である。イチョウは中国から日本に渡来したのは仏教の伝来と同じ頃と言われ、祖父江町内には樹齢100年を越える大木が多い。毎年、晩秋になると黄金色に染まったイチョウ並木が絶景となり、多くの観光客が訪れる。また祖父江銀杏も有名で、品種には「久寿」、「金兵衛」、「藤九郎」、「営神」などがあり、良質な銀杏は全国に出荷されている。
【祖父江】 街道は祖父江の町中に入り、J A愛知厚生連稲沢厚生病院の近くで休憩する。その後、領内川に架かる堂前橋を渡ると、大きな平和堂ショッピングセンターを左手に見て進んで行く。町並みは古い家が連なるが商店街は寂れた感じである。
 祖父江高熊の交差点を過ぎると善光寺東海別院に着く。折しも善光寺の御開帳が翌日の4月3日から始まるので、その準備が完了していた。長野市の善光寺は「牛に引かれて善光寺参り」と言われ、1400年の歴史を持ち、7年に一度の御開帳がある。全国に6つの善光寺があるが、いずれもコロナ禍のため昨年はすべて中止になり、1年遅れで今年、令和4年に御開帳が行なわれる事になった。
 全国にある六善光寺とは、善光寺(長野市)、元善光寺(飯田市)、甲斐善光寺(甲府市)、祖父江善光寺(稲沢市)、関善光寺(岐阜県関市)、岐阜善光寺(岐阜市)である。
 街道はさらに西へ向う。祖父江幼稚園、歓喜院を過ぎると、やがて愛知県営木曽川祖父江緑地に到着する。ここで右折して北へ進み、木曽川の岸を目指す。祖父江緑地は木曽川沿いの広大な公園で、テニスコート、屋外プール、バーベキュー広場、トリム広場、冒険広場、中央広場があり、何百台も入れる駐車場も備えてある。私がここに着いたのは、午後3時半過ぎであったが、春休みを利用して家族連れが多く、満開の桜の木の下で、大勢の子供たちが遊んでいた。
 街道は緑地に沿って北へ進むと祖父江砂丘に着く。昭和36年に木曽三十六景の一つに選ばれ、小規模であるが日本唯一の河畔砂丘である。毎年、秋には稲沢サンドフェスタが開催される。砂丘は砂粒が細かくて歩きにくい。「砂を持ち帰らないで下さい」と言う看板が立っている。
 そこから、さらに木曽川に近づくと馬飼ビーチと呼ばれる川岸があり、若者がウインドサーフィンを楽しんでいた。風が強いのでサーフィンが転倒するが、すぐに立て直して川面をスイスイと滑っていた。ここから木曽川の対岸に陸地が見えるが、美濃国、現在の岐阜県羽島市である。ここから「八神の渡し」で木曽川を渡るが、街道歩きはここでゴールとなる。現在は下流の方に馬飼大橋が架かっているが、昔は木曽川を船で渡った場所である。
【八 神】 現在では船渡しがないので対岸に渡れないが、八神の集落(羽島市桑原町八神)が見える。この集落に八神城跡がある。鎌倉時代に毛利氏が築城したのが始まりである。この毛利氏は戦国時代の覇者であった中国地方の毛利ではなく、河内源氏の末裔である美濃の毛利氏である。
 戦国時代の美濃・毛利氏は、土岐氏、斎藤氏、織田氏に仕えていた。江戸時代に入ると尾張徳川家に仕え、八神城周辺を領地としていた。現在では土塁、石碑くらいしか残っていなくて、住宅地になっている。その城跡には毛利氏の子孫が今でも住んでいる。
 長い街道歩きを終えて帰途に就くが、電車は名鉄尾西線の山崎駅まで4kmもある。しかし交通機関がないので、歩くしかなく疲れ切った足を引きずるように1時間ほどかけて山崎駅に着いた。久しぶりの長距離であったが、頑張って歩き通す事ができ、安堵と、まだ現役が続けらそうだと思った。
 

一年街道?を行く

 投稿者:古澤文博  投稿日:2022年 4月14日(木)22時15分31秒 softbank126058204058.bbtec.net
返信・引用
  三重県の四日市市を起点に福井県越前市までの国道365号線は通称一年街道?とも言われています。私はよくこの街道を利用して写真撮影に出かけています。

今回は岐阜県上石津から滋賀県米原市伊吹まで桜が満開の並木と伊吹山を撮影してきまた。

名神高速道路養老サービスエリアを出て牧田川沿いを365号に向かうと桜並木が出てきました。桜並木と田植えの準備をするためのトラクターが田おこしを始めているところに出会いました。

365号線を北上、関ヶ原をすぎ米原市伊吹に向かいました。365号線を外れ奥伊吹に向かう途中に姉川沿いある道の駅「伊吹の里」付近に伊吹山をバックに桜並木と芝桜、そして海抜1377メートル石灰岩の伊吹山と桜を撮影再び365号線に戻り木之本に向かいました。
 

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