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日本の街道歩き〔44〕瀬戸街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 7月25日(火)20時10分45秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
返信・引用
   【街道の概要】 瀬戸街道は江戸時代中期にできた街道であり、瀬戸村で生産された陶磁器を名古屋へ運ぶ産業道路の役目を持っていた。名古屋からは炭や松の木などの燃料を瀬戸に運ぶなど、盛んに人や荷物が行きかう地方の幹線道路であった。現在の瀬戸街道は県道15号、59号、61号などがルートとなっているが、昔はこの県道に隣接する細い曲がりくねった街道で、史跡こそあまり残っていないが道の曲がり具合だけが往時の街道を偲ばせる。瀬戸街道は私の住む多治見から近く、元旦の街道初歩きとして単独踏破した。
【大曽根】 平成29年元旦の朝は気温が2~3度で大地は白い霜に覆われていた。JR大曽根駅をスタートする頃には陽が昇り少し寒さが和らいでいた。大曽根は中山道の脇街道である下街道(恵那の槙ヶ根から名古屋城付近の札の辻まで)との合流点であり、現在もJR、名鉄、地下鉄が集まる交通上の要地である。街道は大曽根駅から北東方面に進むが、名鉄矢田駅までの町並みはまったく昔の面影はない。しかし、緩やかに曲がりくねった細い道だけが、わずかに旧道であると感じられる。ちなみに地図を眺めると、瀬戸街道のルートだけが周辺の方形道路とは明らかに異なっており、今回の事前調べで初めて知る事ができた。矢田駅を通過し、右手に大幸公園を見ながら矢田川に架かる矢田川橋を渡る。私がサラリーマンであった若い頃、マイカー通勤で毎日、通った道であるので勝手知ったる道である。
【小幡】 矢田川を渡ると東区から守山区に入る。空気は冷たいが空は雲ひとつない快晴で街道は東へと進む。まもなく右手に名鉄守山自衛隊前駅があるが、反対の左側には陸上自衛隊の基地がある。正門には陸上自衛隊第十師団司令部の表札が掲げてある。正門の右側に大きな楠の木が立っていて、その前に 「 防人の楠 」(さきもり)の説明文がありこれを読む。楠の由来は、明治30年(1897年)にこの地に陸軍歩兵第33連隊が創設され、その後、騎兵第3連隊、野砲兵第3連隊と変遷し、昭和34年に陸上自衛隊第10師団司令部となり、この楠は栄枯盛衰の歴史の中、風雪に耐えてきたと記してある。その説明文をデジカメで撮ると迷彩軍服を着た正門の衛兵2名のうち1名が私をジッと見つめ、そのまなざしは 「不審者ではないか?」 と言わんばかりであったので師団司令部敷地内の大砲や軍用車を撮影するのを取止め速やかに立ち去った。以前、日光街道を歩いている時も、陸上自衛隊宇都宮駐屯地の正門前でカメラを向けると、衛兵に睨まれた事があったのを思い出した。
 名鉄の瓢箪山駅付近で寒さが和らいだのでネックウォーマーを取り外した。しばらく県道15号を歩くと小幡駅の手前に道標があり、それに従って白山神社へ立寄った。下町の小さな神社かと思っていたが、境内に入ると初詣の参拝客であふれ、お正月らしい光景に出合った。ここでいつもの街道写真を撮ろうとしたが、参拝者が頻繁に行きかうので、三脚に取り付けたカメラのセルフタイマーのシャッターチャンスがなく苦労した。白山神社の由来は説明文によると、今から1400年ほど前に欽明天皇の皇子 「 小懇田王 」(おはるだおう)が創建されたとある。石川県の白山神社のわかれで、縁結びと安産、諸産業開拓豊穣などのご利益があるとのこと。道理で女性の参拝者が多かった。
 小幡1丁目付近でさらに気温が上がり汗ばむ程となったので上着を脱ぎ、ベスト姿になり歩き続けた。喜多山を過ぎるとすぐに東名阪高速道路の上に架かる橋を渡り大森に入る。すると左手の丘の上に金城学院大学の十字架尖塔が誇らしげに聳えていた。この頃になると、はっきり汗が出るようになり、ハンカチで拭いながら歩き続ける。やがて八剣の交差点付近で県道61号線沿いに「 瀬戸街道 」 の道標を見つける。これは現代的な金属製でおそらく平成になってから立てられたものと思う。そこからすぐ東名高速道路の高架ガードを潜るが、ここが名古屋市と尾張旭市との市境である。
【印場】 高架を潜ってすぐに右斜めの細い道に入る。矢田にあった旧道のように建物はすべて現代風であるが、緩やかに曲がりくねる細い道は昔の街道のままである。印場元町を歩いていると道路に長い行列ができていた。有名なグルメ店でもあるかと思いきや、由緒ある渋川神社へ初詣に参拝する行列であった。境内だけでは収まらず、なんと本殿から道へはみ出て、ゆうに100m以上の列をなしていた。ここでも街道写真を撮ろうとしたが境内では無理と判断し、道路へ出て少し離れた所からズームを使って撮影した。渋川神社の由来は、景行天皇の御代に創建され、白鳳5年、天武天皇即位の大典に七柱の神をこの地に合祀されたと記してある。戦国時代には織田信長が江戸時代には尾張藩主の徳川光友が神殿を再建している。ここの鎮守の森には檜、松、樫などの木々が生い繁り、真清水も湧き、瀬戸街道を往来する旅人がしばし休憩したところであった。しかし、昭和34年の伊勢湾台風で薙ぎ倒され、湧水も涸れ果ててしまったという。なお、印場は瀬戸街道の 「 馬稼ぎ 」(馬を使った運搬業)が盛んであり、大切な馬は玄関先で飼われていたという。このあと、街道は再び県道61号と合流し、名鉄旭前駅を通り、尾張旭市の中心部へ向った。
【尾張旭】 順調に街道を歩いていたが、昼時になってもレストランが見つからない。前年の元旦に挙母街道を歩いた時も同じであるが、今回はコンビニが多く、城前交差点の角でファミリーマートを見つけて弁当を買い近くの空き地で澄みきった青空を見上げながら食べたおにぎりがとても美味しかった。ここから少し街道を離れ寄り道をする事にした。名鉄瀬戸線の踏切を渡り、城山公園を目指すと右前方に勇壮なお城が見えてきた。このお城は模擬城であり、実はレストラン 「 城山レストハウス 」である。旭城という名称を聞けば、知らない人なら本物と思うほど精巧に出来ている。写真撮影ポイントとしては最高で、お正月のため車も人も少なく、スンナリ撮影できた。そこからしばらく田園地帯を歩いていると田圃の畦道をジョギングしている人を見かけた。元旦から体を鍛えているなと感心した。そう言う私も元旦から街道歩きをしているが、誰も褒めてくれる人はいないので自分で褒めるしかない。本来の街道に戻り東大道の少し先で左ななめの細い道に入る。昔の旧道で人も車も見かけずヒッソリしている。しばらくすると名鉄三郷駅の近くを通過し、愛知用水を越すと瀬戸市に入る。
【瀬戸】 瀬戸市に入り南山町付近で名鉄の線路の南側へ出なければならないが、踏切がないため平町公園の方へ迂回しなければならない。その平町公園の片隅に高さ2mほどの石碑があり 「 金峰大神社 」 と記してあるが、どういうものか分らなかった。しかし、その横に秋葉常夜灯が立っている。裏側の碑文を読むと天保14年と記してある。やっと街道らしい史跡に触れ合う事ができた。そこから水野駅の南側を通り、細い道を進むと名鉄新瀬戸駅と愛知環状鉄道瀬戸市駅が重なる鉄道高架をくぐる。まもなく名鉄瀬戸市役所前駅の近くに 「 追分 」 という三叉路に出る。追分とは街道の合流点であるが、瀬戸街道と合流する街道名がわからない。左へ曲がるのが瀬戸街道で真っ直ぐ行くと陶磁器の産地である赤津へ通じている。私の推測では赤津街道ではないかと思う。瀬戸市役所前駅の東側の踏切を渡ると街道は登り坂となるが、陽が傾き始め気温が下がり出したので汗は出てこない。
【古瀬戸】 東安戸町の磁祖公園の中に池や野球場があり、丘の上に窯神神社があったので参拝のため立寄る。神社の由来は安永元年(1792年)に瀬戸村で生れた加藤民吉が磁器(陶器ではなく透き通るような器)の製法を九州の肥後で学び、これを瀬戸で広めた。その功績により民吉を磁祖として祀った神社である。民吉が信仰した秋葉大権現の遙拝所を建立するため、尾張藩の許可を得て文政7年に建てたのが始まりである。その後、「 やきもの 」 の神社として関係者に崇敬されている。毎年9月の第2土・日曜日に開催される 「 せともの祭り 」 は民吉を称える祭礼である。さて街道はここから北東の品野方面へ向うが、現在、採掘場となり街道は消滅しているので、その先は進めない。そこで由緒ある古瀬戸の深川神社をゴールとするため坂を下り始めるが道が輻輳していて道に迷ってしまった。困っていると小さな女の子を連れた3人家族が通り掛かったので、深川神社へ行く道を尋ねると、お父さんが親切に教えてくれた。お礼を述べると私の孫の小学校1年生の詩乃と同じくらいの女の子が 「 お宮さんは人がいっぱいでお参りができないから、おうちに帰るの!」と混雑ぶりを説明してくれた。ハキハキした話し方をする女の子であったので 「 教えてくれてありがとうね。バイバイ! 」と言ったら手を振ってくれた。微笑ましい出逢い!であった。急坂を下りアーケード商店街を通り抜けると深川神社の大鳥居に出た。先ほどの女の子が教えてくれたとおり延々と行列が続き最後尾は鳥居から国道248号まではみ出ている。これでは本殿まで1時間は掛かるだろうと思った。しかしここで写真を撮りたく行列を横に見ながら本殿の横まで行き、常夜灯の片隅から三脚を立てなんとか撮影できた。この深川神社は宝亀2年(771年)創建の由緒ある産土神社(うぶすな)であり、無病息災と子孫繁栄のご利益があるという。それにしても辛抱強く行列に並ぶとは信仰心が旺盛な瀬戸市民が多いと感心した。これを持って元旦の街道歩きのゴールとした。
 
 

クラインガルテン天のなかがわ便り 7月

 投稿者:石田宣安  投稿日:2017年 7月19日(水)23時42分36秒 sp49-98-143-112.msd.spmode.ne.jp
返信・引用
  7月も中旬、先日の雨で積雪も無くなり夏の山になった中央・南アルプスです
今年は春先から気温が上がらず野菜の生育が遅いように思えます

やっとサラダ用の葉もの野菜が食卓に上がり始め、トマト・ナスもボチボチ採れ始めました
今シーズンは雨も少なかったのですが先日の雨で野菜も草と共に元気に育っています

田舎暮らしの楽しみのひとつに地元の人達との交流があります
暖かくなり始めた4月頃から、いろいろなイベントが始まり、蕎麦の会も出店するでのその手伝いや、ボランティア・温泉巡り、お祭りや花火大会見物等忙しくそして楽しく過ごしています

また、たまには旧友が訪ねて来てBBQ何てことも

ここ「クラインガルテン天のなかがわ」にはゲストハウスもありますので是非遊びに来てはいかがですか?
 

日本の街道歩き〔43〕岩村街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 6月26日(月)22時09分5秒 pool-219-140.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 岩村街道は中山道の大井宿から分れて、江戸時代に東濃地方の政治、経済の中心地であった岩村の城下町までの街道である。岩村街道は岩村藩の殿様が参勤交代の時、中山道まで出る連絡街道として使用した道であり、また大井宿から生活物資を運んだり、岩村周辺で生産された農産物や織物などを大井方面へ運搬するのにも使われた。さらに名古屋と信州南部の飯田を結ぶ中馬街道に通じていたので、人や物資の往来でも賑わった街道である。街道筋は田園地帯や山合いを通っているが、一部、明知鉄道の線路と重なっているルートもある。短い街道ではあるが、大井と岩村の標高差がかなりあるため岩村方面に向う時は概ね登り坂であり、大井方面に向う時は下り坂となる。よって歩くスピードもかなり異なってくる。途中、小さな峠が少しあるが、半日もあれば踏破できるのでハイキングコースとしても最適である。
【岩村】 岩村は戦国時代、甲斐の武田信玄と尾張の織田信長が領地争いをした戦場舞台で、天下の名城である岩村城は日本百名城に選ばれている。また奈良県の高取城、岡山県の備中松山城と共に日本三大山城にも選ばれている。標高717mに本丸が建つのは日本最高峰の山城である。霧がよく発生するので別名、霧ヶ城とも呼ばれる。岩村の銘酒 「 女城主 」 は戦国時代、織田信長の叔母である「おつやの方」が元亀2年(1571年)、女城主となったことが名前の由来である。また岩村の城下町は重要伝統的建造物群保存地区に指定され、勝川家、土佐屋、木村邸、高札場などの古い町並みが残り、日本の郷愁を感じる。またグルメも豊富でカステラの 「松浦軒」 「かめや」、五平餅の 「みはら」 、地酒女城主の 「岩村醸造」、漬け物の 「水半」 「およねさん」 などが名店である。
 さて出発は平成28年11月24日午後、明知鉄道岩村駅を友人の井芹英雄氏と二人で歩き始めた。気温は5度でかなり寒かったが元気良くスタートした。途中、城下町の三叉路に古い道標があり 「 右みたけ道、左なこや道 」 と刻んであった。枡形を通り過ぎてまもなく勝川家がある角を左折し裏通りに入るが、これが岩村街道である。曲がりくねった坂道を登ると国道363号を横断する。その左側に大将軍公園を見ながら、さらに急坂を登ると 「 いぼ神様 」の石碑に着く。その石に触れると、イボが取れると言う。ここから細い道はなだらかな下り坂となり、土蔵や古い土塀を見ながら進むと国道363号に合流する。街道は暫らく国道と重なる。まもなく右手に富田の常夜灯と馬頭観音がひっそりと立っている。打杭バス停を過ぎると小さな丘の上に阿弥陀堂があり参拝する。ここから打杭峠の坂を登ると右手の高い所に 「 農村景観日本一展望台 」 があり、急階段を少し汗をかきながら登る。この称号は昭和63年に環境学の権威である京都教育大学の木村教授が宣言され、これをマスコミが報道したことから全国的に脚光を浴びることになった。展望台から岩村の富田地区の豊かな田園風景が一望のもとに眺められる。その隣の 「 乗馬クラブ・クレイン恵那 」 を通ると若者達がインストラクターの指導を受けながら乗馬の練習をしていた。そこから細い道を進むと、すぐに打杭峠の頂上に到達し、ここから中津川市の阿木に入る。
【阿木】 打杭峠を下り数分で左折して小さな集落に入る。暫らくすると左手に塞之神神社があり、道中安全祈願の参拝をするが、境内は枯れ木が多く、少し荒れた感じであった。再び国道に出て阿木交番の角を左折して橋場の集落へ入る。ゆるやかな坂を下ると阿木川に架かる阿木橋を渡る。この阿木川の下流には大きな阿木川ダムがあり、広いダム湖もある。阿木の中心部に入り、阿木保育園の手前を右折すると萬嶽寺があり参拝する。ここは夏になると 「 蓮の花 」 が咲き乱れる事で有名なお寺である。山門には大きな提灯がぶら下り、立派な庭園もある。参拝の後、岩村街道は県道407号と重なり、秋葉坂を登る途中、古い馬頭観音を見つける。さらに坂を登ると左手に阿木城跡へ向う小道が森の中へと続いている。まもなく阿木峠を越えて道は下り坂となる。
【飯沼】 坂を下る途中、右斜めに分れる道に入るが車も人もほとんど通行がなくなる。地図では 「 ホタルの里 」 があるはずであったが探しても見つけられなかった。飯沼の集落は家がまばらに建ち田畑が広がっているのどかな田舎風景である。道端には無人の野菜販売所があり、トマト1袋100円のほか、大根やネギなどが並んでいたが荷物になるので買わなかった。五反田を過ぎ集落の中心あたりへ来ると子安観音と神明神社が並んで建っている。神明神社の鳥居の横に大きなスギの木2本が寄り添うように立っている。これが「夫婦スギ」と呼ばれる有名なスギで樹齢数百年の太くて高い真っ直ぐな大木である。このスギに触れると夫婦仲が良くなると言うので、私もコッソリ2本の幹に手を触れた。その横に小ぶりの子安観音堂があり、私の孫で小学校1年生の 「 詩乃 」 の健やかな成長を祈ってお参りした。その後、街道に戻り、田園地帯の坂を下ると明知鉄道の飯沼駅に着く。あたりに何もなくポツリと駅だけが建っている。この駅は33パーミル(傾斜角度の単位)と言う日本一急勾配な線路を持つ駅である。もちろん無人駅であるがプラットホームに立って良く見ると、恵那方面はハッキリとレールが下がっているのが分る。飯沼駅を過ぎると岩村街道は県道407号を歩くことになるが、歩道が設置されておらず、カーブでは車の接近が分らないので恐い思いをする。やがて空模様が怪しくなり寒さが身に浸みてきたので速度を上げて歩く。
【東野】 岩村街道はダラダラと、どこまでも下り坂が続き右手に明知鉄道の線路が見え隠れする。このあたりの街道は一部不明なルートがあり、部分的には明知鉄道と重なる箇所もあるが、線路の上は歩けないので、ひたすら県道を歩く。左側は急峻な山が連なり谷の合間を歩く感じで、少し薄暗さもある。雲行きが変わりポツリポツリと小雨がぱらついたが、まもなく止み、傘は差さずに済んだ。しかし気温が下がり始め寒さを感じるようになる。しばらく歩き続けると、やっと山合いから抜け平地に出ると東野の集落に入る。浜井場というバス停の近くに 「 東野の石幢 」 が立っている。石幢(せきどう)とは仏堂に飾る経文を書いた石碑のことである。そのすぐ先に 「 東野の大灯籠 」 が立っている。建立は享保元年(1716年)と記してあるが地方の街道にしては大き過ぎる灯籠である。このあたりから恵那市の市街地が見下ろせるようになり、東野駅入口の信号を過ぎ大門を通って大井の宿場へと向う。
【大井】 国道19号の 「 宮の前 」 交差点あたりから左手に恵那大橋や阿木川公園が見える。国道を横断すると右手に荘厳な武並神社が見える。永禄7年(1564年)の建立であるが、社殿は東濃地方唯一の中世神社建築で立派である。この神社の近くに大きな枝垂れ桜があるが、時期が晩秋なので枯れ木でしかない。右手に恵那高校を見ながら 「 御所の前 」 交差点を過ぎ、細い道を進むと中山道と合流する。ここが岩村街道の終点である。この角に 「 中山道ひしや資料館 」 がある。大井宿の有力な商家で庄屋の古山家住宅を改修し、宿場の資料館として平成12年から公開されている。この日は、もう夕方で薄暗くなっており閉館していたので入館は出来なかった。そこから東へ50mほどの所に大井宿本陣があったが太平洋戦争直後に火災に合い、現在では立派な門だけが残っている。最後の街道写真を撮ったあと、恵那駅まで歩きJR中央線の電車に乗る頃は、日が暮れて晩秋の風情を感じた。多治見駅では同行者の井芹氏と居酒屋で無事の踏破に祝杯を挙げ疲れを癒した。
 

日本の街道歩き〔42〕谷汲街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 6月22日(木)22時01分52秒 pool-219-140.aitai.ne.jp
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  【街道の概要】 谷汲巡礼街道は中山道赤坂宿(大垣市)を起点として西国33番霊場谷汲山華厳寺に至る街道である。この街道は室町時代中頃には、ほぼ現在のようなルートに定まったと言われる。昔は京都方面からの巡礼者も江戸方面からの巡礼者も中山道から分岐する赤坂追分から北を目指して大勢の旅人が歩いた街道である。赤坂から揖斐川を渡るまでは郊外の平坦な道で、のどかな雰囲気が続くが川を越えてからは山合いに入り、中でも小野坂峠は険しい山道で鬱蒼とした森の中を進む。峠を越えれば再びのどかな風景となり、由緒ある谷汲山華厳寺の山門まで街道が続く。道中には道標、常夜灯、地蔵等が多く、古い道標は自然石を利用して造られているものが多い。今回は秋の恒例行事「谷汲もみじまつり」の開催日に合せて、近所に住む友人の井芹英雄氏と一緒に歩いた。
【赤坂】 出発は平成28年11月13日の秋晴れのウォーキング日和。中山道の赤坂宿は中世の頃から杭瀬川の舟運が発達し、物資が集積した交通の要所である。中山道を往来する旅人で栄え旅籠も多かった。JR美濃赤坂駅からスタート地点の追分までは現在も古い建物が多く残っており、往時を偲ぶ事ができる。谷汲街道の起点となる中山道の赤坂追分付近の道は微妙に曲りくねっており昔のままの街道筋である。またこの辺りは神社やお寺が多く、しかも立派な門構えばかりである。追分を出発すると、まもなく西濃鉄道貨物線の踏切を渡り河合石灰の工場に出るが、ここから先は私有地となるので右折して矢橋鋼材の横を通って迂回する。あたりは民家が散在し田園風景である。南市橋町界隈では右手に国道417号が並行しているが、所どころ、街道が部分的に消滅しているので、そのたびに迂回を余儀なくされる。この頃になると、陽が高くなり朝の寒さは和らぎ、早足で歩くと汗ばむほどになる。
【池田】 揖斐郡池田町に入ると道は昔のままで伸びており、道に迷う事がなくなる。片山という集落の中に立派な鳥居を構える八幡神社があるが、事前の調べでは鳥居前の常夜灯が濃尾地震の被害で上半分が欠けて無くなっているという情報を得ていた。しかし実際は新品のピカピカ石の常夜灯に変っていた。よく見ると平成27年建立と記してあったので出来たてホヤホヤの常夜灯であった。その先の八幡小学校の前に古い道標があり谷汲巡礼街道の説明板が立っていた。道標はかなり古く室町時代の製作であり、街道筋には巡礼者の為の施行宿や湯茶接待所が置かれていたと記してあった。ここを過ぎると直ぐに杭瀬川の小さな橋を渡り六乃井の集落に風変わりな 「 乳くれ地蔵 」 が立っていた。ここの説明文によると文政6年(1823年)5月、街道の八幡村で一人の老人がうずくまり苦しんでいた。その老人は道行く女性に「どうかあなたの乳を飲ませて下さい」と懇願するが、誰も気味悪がって近づこうとしない。それを見て八幡村の庄屋竹中家の嫁、おみねは哀れに思い老人の前で胸元を広げると老人は「お止め下さい」と言って身の上話を始めた。老人は伊予国氷見村(現在の愛媛県西条市)から谷汲山への巡礼にきたが、この地で倒れ、息絶え絶えに地蔵尊建立のために蓄えたお金を託せる人を探していたと言う。おみねは亡くなった老人の願いどおり、この地に地蔵尊を建立した。それ以来この地蔵を「乳くれ地蔵」と呼ぶようになり、乳の出ない母親が詣でると乳が出るようになった事から、現在でも参拝者が多いという。そこから暫らくして養老鉄道の踏切を渡ると左手の方向に池田町役場が見える。街道は北へ向い広々とした田園地帯に入る。しかし途中で道路工事のため全面通行止の標識が立ち歩行者も立入り禁止となっていた。迂回するには時間がかかるため強引に立入り禁止エリアに入ったが、日曜日のため重機は動いておらず何とか無理に押し通った。しばらくすると揖斐川の堤防が見えてきて杉野の集落に入る。しかし道が複雑でかなり迷いながら橋を目指した。
【揖斐】 揖斐川に架かる大きな三町大橋を渡ると池田町から揖斐川町に入る。この日は第29回揖斐川マラソン大会が開催され全国から9000人のランナーが揖斐川沿いのコースを走った。しかし谷汲街道のルートとは離れているのでレース風景は見られなかった。昔はここ三町大橋より少し下流の所に川渡し場があった。その近くに古い小さな常夜灯があり、ちょうど昼時となったので秋晴れの中、青い空を仰ぎ、川のせせらぎを聞きながらおにぎりを頬張った。食後、揖斐川の支流である桂川に沿って進むと、権現山の下を貫く松山トンネルが見えてくる。このあたりから山麓の道に変る。志津山の麓の円通寺や東光寺を過ぎ県道251号と合流する。ここから谷汲街道最大の難所である小野坂峠に差掛かる。県道は日光の 「 いろは坂 」 のような九十九折のヘアピンカーブが続くが、街道は自性院の脇から険しい山道に入る。おびただしい倒木やゴロゴロした石が散在し蜘蛛の巣も張っている。実に歩きづらい。事前に調べた時も道が所どころ消滅している箇所もあり藪漕ぎを強いられるという情報を得ていた。実際に歩くとどれが道なのか分らず疑心暗鬼で進むと県道の小野坂トンネルに出てしまった。ここから旧道への道があるはずだが見当たらず、やむなくトンネルをくぐる事にした。この道は西国自然道コースと重なっているが、まったく手入れがされておらず道標もないので初めて歩く者にとっては困難極まる道である。また鬱蒼とした森林で熊やイノシシが出没しそうな昼間でも暗い道である。
【谷汲】 何とか小野坂峠を越えると谷汲に入る。街道は県道251号沿いであるがしばらくすると、左手に荘厳な春日の日枝神社がある。その近くに渡船場跡の標識が立っているが周りを見ても川がない。昔は舟で渡るほどの川があったのか不思議に思った。現在は見渡す限り田園地帯である。その先に街道から外れて谷汲ゆり園があるが今回は素通りした。揖斐川特別支援学校、谷汲保育園を過ぎると県道から分れ、地蔵や古い石道標が並んでいる道に入る。重軽地蔵(おもがる)を過ぎと谷汲中学校の手前に柿の無人販売所があった。一袋に大きな柿が5個入って、たったの100円である。形が歪んでいたり小さなキズがあったりするが、これはお値打ち物と考え、2袋を買い蓋のない金属箱に200円を入れた。お金を入れた箱の中を勘定すると2~3千円はあったと思うが、現金が丸見えなので盗む人がいないか余分な心配をしてしまった。ちなみに購入した柿を帰宅してから食べたが甘くて美味しかった。
【華厳寺】 予定より早い時間に谷汲山門前に到着した。ちょうど「谷汲もみじまつり」の開催日とあって観光客で溢れていた。参道の途中に、まつり広場があり、たくさんの屋台が並び特設ステージから踊りや太鼓の賑やかな音楽が聞こえてくる。参道脇のモミジの中には真っ赤な紅葉も見られるが全体的にはまだ少し早いタイミングであった。参道の中ほどに大きくて荘厳な山門が立っているが、この山門が谷汲街道の終点である。そこから本堂へはさらに数百m歩かなければならないが、道端に 「 本堂へ七丁半 」 とか 「 本堂へ五丁 」 というような丁石が設置してあるので歩く目安になる。一丁とは109mであり、三十六丁で一里である。本堂前の階段を登ると線香の臭いやお経を唱える声が聞こえてくる。谷汲山華厳寺は延暦17年(798年)に創建され、12世紀中頃(平安時代後期)には西国33番霊場の1に挙げられている。ここでゆっくり 「 もみじまつり 」 を見物したかったが、バスが2時間に1本しかなく、時間がないので急いでバス停へ行き、樽見鉄道の谷汲口駅に向った。バスの運転手は中年の女性であったがハンドルさばきは鮮やかで安心して乗る事ができた。また同行者の井芹氏が運転中に話し掛けると丁寧に応えてくれたが、その会話の一部始終が運転手のマイクを通して車内に放送されていたのは面白かった。柿を2袋も買いリュックザックは疲れと相まってかなり重く感じられたが、無事に踏破できた達成感を味わいながら帰りの列車の中で自宅から持参していたお酒をチビリチビリ飲みながら疲れを癒した。
 

日本の街道歩き〔41〕下街道脇道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 6月10日(土)21時26分37秒 pool-219-140.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 中山道大井宿の西方の槙ヶ根追分から分岐し、現在のJR中央本線沿いに下街道のルートが通っている。本街道の中山道は大湫、細久手、御嵩、伏見、太田、鵜沼を経て名古屋へ出るが、下街道は瑞浪、土岐、多治見、春日井を経て名古屋へ行くので、4里も短い。その下街道から瑞浪で分れ小里、駄知、下石、妻木、笠原を経て瀬戸市の上半田川までの脇道を下街道脇道と言い、さらに瀬戸街道を通って名古屋へ通じている。地方の脇街道であり、物資の運搬や地元民の往来だけなので、定められた宿場はなく街道に付帯する施設等もない。ただ旅人のための常夜灯や粗末な道標、小さな地蔵などが僅かに残っている。
【瀬戸】 出発は平成28年10月7日の日本晴れの日であった。今回は私の近所に住む多治見市の ウォーキング倶楽部「道行会 しでこぶし 」 の会長である井芹英雄氏が同行した。スタート地点の国道248号の上半田川口(かみはだがわくち)までは、以前、多治見から路線バスがあったが、廃止されたので、私の長男、秀樹にマイカーで送迎してもらった。朝は涼しい気候であったので長袖を着用した。出発してすぐ、右手にJR東海の野球グランドがあり、車の通行が少ない道を東へ向って歩く。あたりは田園風景で左手に東海自然歩道のルートが見える。中平橋を渡る頃から上半田川の小さな集落に入る。寺前橋バス停の角を左折すると吉祥寺の前に出る。ここで汗を拭い水分を補給して休憩したあと、坂道を登り始める。道は舗装から草道に変り上半田川峠を目指しての山登りである。鬱蒼とした森の中を歩くが、いたる所にイノシシが掘った穴がいっぱいある。雰囲気的に熊かイノシシが今にも出没しそうな森なので熊除けの鈴を鳴らしながら登る。汗をいっぱいかき、約20分ほどで峠の頂上に着くと木の門扉がある。午前9時から午後5時までしか開かないので夜間は通行できない。以前、笠原の 「 潮見の森 」 へ登る途中、この門扉を見かけた事があるが、街道のルートとは知らなかった。
【笠原】 門扉から先はきれいに舗装された車道を歩く。つづら折りの坂をドンドン下ると途中から眼下に笠原の街が見え、涼しい風が秋を感じさせる。笠原は日本一のタイル生産地であるが、近年はやや衰退している。坂を下ると梅平の交差点に出て、人一人が歩ける狭い旧道の坂道を歩く。梅平橋を渡り念仏坂のアップダウンを過ぎると、また小さな尾張坂を登る。すると辛口の日本酒で評判の三千盛酒造の前を通り笠原の中心部へ出る。以前、多治見市と合併する前に笠原町役場があった所に、「 モザイクタイル・ミュージアム多治見 」 が今年、平成28年6月にオープンしている。この建物は日本を代表する一流建築家の東大教授、藤森照信氏が設計したユニークな美術館で異彩を放っている。ここでトイレを借用し小休止するが入館はしなかった。その後、大坪橋を渡り、真っ直ぐに狭い坂道を登ると上原に着く。その直後、「 道行会しでこぶし 」 の女性会員である宮川さんと遭遇し、三人で会話を交わす。本当に偶然の出逢いである。街道歩きには、いろいろな出逢いがあるが、それも楽しみのひとつである。そこから石拾方面に歩いて多治見市と土岐市の境界がある境橋の手前で右折する。
【妻木】 街道は東へと向きを変え、しばらく歩くとエキップという工場近くの三叉路を左斜めの道に入る。坂を登り東海環状自動車道の高架ガードをくぐると峠の頂上に着く。ここが妻木西峠である。笠原方面から登ると小さな峠であるが、妻木側からだと結構きつい峠である。道は蛇行して森の中を歩くので、いかにも街道らしい峠越えである。坂を下ると左手に丸多製陶所があり、枡形の角を曲がる。このあたりで昼時となったので、近くの神宮寺(じぐうじ)の境内で弁当を食べようとしたが、門が閉まっていた。するとかなり年配の女性住職が車から降りて門の中に入ろうとした時、我々二人を見て 「 どこか歩いているの? 」 と話し掛けられた。少し話をしたが境内に入る許可を得られずやむなく神宮橋を渡って妻木の町へ入り、県道19号を歩いた。どこで昼食をとろうか悩んでいると明神口バス停の先にスーパーマーケットのバローを見つけ、店の横にあるベンチでお握りをたべた。そのあと、再び歩き始めると右側にとてもモダンでシャレた交番を見つけた。それは妻木下石交番であったが、ここではお手洗いは借用しなかった。
【下石】 県道19号の右手にあるウェルフェア土岐を過ぎると下石町(おろし)に入る。この下石町は陶磁器の産地で特に 「 とっくり 」 が有名である。下石貢(おろしみつぎ)の交差点を直進すると、駄知線の廃線跡を越して右折する。旧道は道が狭いが県道66号と合流すると急に車の通行量が多くなる。街道沿いにはコンビニ、喫茶店、そば屋が所どころにあり、下石川橋を渡る。その先に山神温泉の大きな石碑が立っている。山神温泉は鎌倉時代、薬師如来に導かれた落ち武者が発見したと言われ、昔から湯治場として親しまれてきた風情を、一軒宿の 「 湯之元館 」 が引継いでいる。料金はやや高いが大浴場から眺める山の四季が美しいと言われる。ちなみに私はまだ入湯した事はない。街道はやや山がちな地形となり若宮神社を過ぎると、街道は県道から分れ細い道に入る。史跡らしきものは見当たらないが、ゆるやかにカーブする道は往時の街道筋を連想させる。土岐市総合運動公園が右手に見えてくると再び県道と合流する。このあと、街道は登り坂となり、山神峠を目指す。
【駄知】 山神峠の三叉路で右折して駄知(だち)の町に入るが県道66号を真っ直ぐ進むと 「 陶史の森 」があり、さらに行くと 「 道の駅どんぶり会館 」 がある。駄知も陶磁器の産地であり、道の駅では名物のどんぶりが販売されている。さて坂を下り駄知の中心地へ向うが、途中、小学生が大きな声で 「 こんにちは~! 」 と言ってくれたので、こちらも大きな声で挨拶をした。昔、この駄知には鉄道が敷かれていた。大正11年(1922年)に土岐津駅と東駄知駅を結ぶ全長11kmの駄知鉄道が開通したが、昭和49年(1974年)に廃線となった経緯がある。街道は丸山橋の交差点から車が通行できない狭い道へ入り肥田川に架かる千歳橋を渡る。このあたりは製陶所の工場が多く、まもなく八王子神社に着く。ここで流れ出る汗をふき、ペットボトルのお茶をガブガブ飲み干す。しばらく休憩して境内の道標を見る。新しそうな石柱であるが大正12年の銘がある。三列書きで表示してあり、その内容は 「 右 曽木村鶴里村ヲ経テ三河ニ至ル、 前 下石町ヲ経テ多治見町ニ至ル、左 瑞浪町及ビ岩村町ニ至ル 」 と記してある。ここ八王子神社から街道は登り坂となり堀越峠を目指す。蒸し暑さも加わってまた汗が流れ出す。堀越の交差点で 県道66号と合流するが、ここが堀越峠の頂上である。
【小里】 峠を下ると上山田の三叉路に着く。左へ行くと瑞浪市街地へ、右へ行くと小里(おり)へ通ずる。ちょうど交差点に差し掛かった時、前方からパトカーが来て赤信号で停止した。その時、後方で急ブレーキをかけた乗用車が 「 キッキー、キッキー  」 と タイヤの摩擦音をたてて止まった。その大きな音にビックリしたが、どうも信号無視しようとしたがパトカーがいるため仕方なく急ブレーキをかけたようであった。その後なだらかな坂を下ると無名橋という小さな橋を渡るが、その近くに古い常夜灯を見つけた。あたりは田畑が広がり、まばらに民家が点在している。その先の瑞浪クリエーションパーク入口を過ぎると左手に灌漑用の釜糖下溜池を見ながら進む。坂を下り切ると稲津町小里の集落に入り、小里川に架かる小田橋を渡る。右手遠方には小里山が見える。この山の頂上には小里山城跡が史跡として保存されている。私はこれまで3回登ったことがある。天文3年(1534年)美濃源氏の支流である小里光忠が築城し、のちに織田信長に従うことになる。戦国時代、織田家と武田家の勢力争いは、ここ東濃地方が戦場となり小里山城も石垣を備えた堅固な城郭の改修工事を始めたが、岩村城が落城すると天正2年(1574年)工事は中止された。県道66号の下小里を左折し、萩原口バス停あたりから小里川沿いに県道20号を南へ進む。
【瑞浪】 小里川に沿って街道はゆるやかな坂を下り、瑞浪市街地に向って歩く。市原で国道19号を横断すると、左手に中京高校の校舎が見え、屋上からはたくさんのスポーツ競技の垂れ幕が掲げてあった。まもなく土岐川に架かる瑞浪大橋を渡ると瑞浪市消防本部を右手に見る。その先のJR中央本線の高架を越すと、すぐに一日市場(ひといちば)の交差点に着く。ここに美濃源氏の本拠地があった一日市場館跡があり現在は八幡神社の境内となっている。この角が恵那から続いてきた下街道と合流し、下街道脇道のゴール地点である。清和源氏の一族である源光衡は、源平合戦で源頼朝に従って軍功を挙げ美濃国土岐郡へ移住し土岐氏と改姓する。文治5年(1189年)には美濃国守護職に任じられ一日市場に居館を構える。南北朝時代には後醍醐天皇の命に応じ、土岐氏は足利尊氏と共に鎌倉幕府打倒に功を挙げ、のちに美濃、尾張、伊勢の三国の守護職を兼ねる太守となる。しかし土岐氏は正平8年(1353年)に岐阜の川手城へ移ったため、一日市場館は廃止された。ちなみに天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、美濃源氏の支流であり、ここ一日市場に光秀の胸像が立っている。ゴールの後、JR瑞浪駅から電車で多治見へ帰り、同行の井芹氏と駅前の居酒屋で街道踏破の祝杯を挙げた。そのあと二次会として私の中学校時代の同級生であるメグちゃんとユキちゃん(二人とも私と同じ年のギャル!)が経営するスナックで心行くまでカラオケを楽しみ疲れを癒した。
 

クラインガルテン天のなかがわ便り

 投稿者:石田宣安  投稿日:2017年 5月21日(日)15時23分13秒 sp1-72-2-118.msc.spmode.ne.jp
返信・引用
  5月も半ばを過ぎ、やっと野菜の植え付け時期がやって来たここ中川村です
中央・南アルプスにはまだ雪が残っていますが、回りの田んぼでは田植が始まっています
マイ畑はトマト・ナス・オクラ・ズッキーニ・トウモロコシ・さつま芋・里芋・豆類・カボチャetc.の栽培が始まりました
今年も、野菜作り・蕎麦打ち・地域のボランティア・温泉巡り等楽しみが盛りだくさんです
ここクラインガルテン天のなかがわにはゲストハウスもありますので是非遊びに来てはいかがですか?い
 

日本の街道歩き〔40〕伊勢別街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 5月14日(日)20時09分43秒 pool-219-140.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 伊勢別街道は東海道の宿場である関(現在の三重県亀山市)から伊勢参宮街道の津まで4里26町(約19km)の連絡街道である。なお、1里は36町で1町は109mである。京都方面からお伊勢参りに来た旅人が通った街道で関宿の東追分で東海道から分岐して南下し楠原、椋本、窪田を経て津の江戸橋で伊勢参宮道と合流する。伊勢別街道の名前の由来は、江戸からの伊勢神宮参詣者は東海道の四日市宿・日永追分で伊勢参宮街道に入るが、その支道と位置づけられたものである。
【 関 】 スタートは平成28年10月1日、雨が降る中を電車に乗るが亀山市の関駅に着いた時は止んでいた。関駅は小さな駅で降車客は僅か2~3人だけである。東海道の関宿は旧街道の宿場町の景観保護に努めており、時代劇のイメージの中を歩く。以前、東海道を京都から東京まで踏破した時に歩いており、懐かしさがあった。しかし観光シーズンではないので、ほとんど人を見かけない。わずかにカメラを持った人と小さなリュックを背負った若者の二人しか見掛けなかった。服装や携行品からして街道歩きの人ではないようだった。さて関宿の東追分に着きスタートの写真を撮るが雨上がりの薄暗い空であったので常夜灯に照明が灯っていた。街道はこの追分を右折して坂を下り、鈴鹿川に架かる勧進橋を渡る。勧進橋の名前の由来は、江戸時代に洪水で橋がたびたび流されたが、その都度、勧進による浄財を集め橋を掛け直してきた経緯があったことから。その橋の少し先から左折して狭い道に入るが、その角に「鈴鹿駅跡」の史跡があり見学する。大化の改新の後、全国に駅制がひかれた時、この鈴鹿駅は馬20匹を常備し、駅舎、厩舎、井戸などの設備が整えられ松の木が植えられた。現在は、その碑文が石に刻まれ、説明板も立ててある。狭く曲がりくねった道を進むと急に登り坂が始まり、かなり勾配がきつく、アレ?こんな所に峠があったのかと思ったが、すぐに頂上に着き安堵する。まもなく名阪国道(国道25号)の高架をくぐるが、右手に見覚えのある建物を見つける。ここが関ドライブインである。これまでウォーキングバスや貸切バスで大和、奈良方面へ往来する時、ここで必ず休憩した所である。街道はやがて田園風景に変り県道10号から離れて細い道に入る。
【楠 原】 小さな集落に入ると古い家が立ち並んでいる。道は狭く微妙にカーブしているが、関宿のようなイメージがあり、ここが楠原(くすはら)の宿場である。永享3年(1431年)に室町幕府6代将軍の足利義教が宿泊し、その35年後に8代将軍の足利義政が妻の日野富子を同行して伊勢参宮の時にこの宿場で休憩している。宿場には亀屋をはじめとする多くの旅籠や問屋場、高札場が置かれ、現在でも連子格子の古い家屋が多く連なっている。また楠原には上町、中町、瀬古の3つの風呂屋地蔵があり、病気の時にお参りすると治ると言われる。宿場を通り抜けると県道10号と合流するが、中ノ川に架かる新玉橋(しんたま)を渡る。その先を県道から離れて左折し坂を登ると「林」 の集落に入る。ここに昔、立場 (たてば:2つの宿場の中間にあって荷物や馬を継ぎ立てる所) があった。町の中に明治か大正かと思われるレトロな木造建物が残っている。これは昔の明村役場(あきら)である。まもなく昼時となり、県道10号と伊勢別街道が交差する角に道標を兼ねた小さな常夜灯が立っている。 「 右 さんぐう道、左 京道 」 と石に刻んである。ここで朝、コンビニで買ったおにぎりを食べ、暑さで汗だくになりながら、一路、南へ歩く。
【椋 本】 ほとんど人も車も通らない道を歩いていると前方に大きな土手が見えてくる。これが灌漑用溜池の横山池である。土手が高くて水面を見る事ができない。途中、土手に階段があったので登るとかなり広い池で、水面のはるか遠方には鈴鹿山脈の峰が眺められる。慶応2年(1866年)地元の駒越五良八が私財2万両を投じて完成させた池で、この付近の200町歩の田圃に水を注ぐ事ができるようになった。池の土手に沿って仁王経の石碑がたっている。文化2年(1805年)に建立され疫病が流行しないよう、また疫病が村に侵入しないように祈願されたものである。やがて椋本(むくもと)の宿場に入る。宿場の中には枡形の道があるが1600mも続く大きな宿場で数多くの旅籠が建っていた。百五銀行椋本支店の近くに石道標と木柱が立っている。道標には 「 左 さんぐう道、右 楠原 」 と刻まれている。そこを左折して突き当ると、古い旅籠 「 角屋 」 (かどや)がある。文化3年(1806年)に創業され軒下には参宮講札が多く掲げてある。これは参宮講の指定旅籠である事を示す。椋本宿の東入口で県道10号と合流し、その先の伊勢自動車道の芸濃インターの高架をくぐる。まもなく県道から外れ高野尾(たかのお)の旧道を歩くが単調で景色も見るべきものはない。再び県道と合流する所に銭懸松(ぜにかけまつ)があったという石柱がある。病気になった参詣者がこの松の木に銭を結びつけると回復したとか。
【窪 田】 またまた県道から分れ大里の集落に入る。気温が高くなり汗が出て喉が渇くので頻繁に水分を補給する。豊里中学校、向沖橋、大里小学校を過ぎると窪田の宿場に入る。途中、右手に汐見坂があり、ここから親鸞聖人が一身田を眺めたという。窪田バス停の近くに本陣跡の表示があるが宿場の面影はない。JR紀勢線の手前を右折して狭い道に入るが有名な窪田常夜灯が見つからない。近くで庭の草取りをしていた老人に尋ねると、よほど暇だったのか案内してくれた。高さ9mもある津市最大の常夜灯で近江の商人が文化14年(1817年)に寄進したもので、台座には寄進者の名前が千人以上もビッシリ記してある。その後、この常夜灯は地震によって3回も倒れたが、その都度、地元の人々が再建してきた。
【一身田】 紀勢線の線路沿いに歩くと小さなJR一身田駅(いしんでん)の傍を通るが、ここで寄り道して高田山専修寺(せんじゅじ)へ向う。専修寺は浄土真宗10派のうちの一つ、真宗高田派で山号は高田山。本寺は栃木県真岡市高田にあり、本山は津市一身田町にあり、本寺と本山の住職は同じ人である。一身田の本山は文明10年(1478年)に建立されたが、戦国時代に栃木県の本寺が戦火で炎上したり、教団内部の対立があったため、その後、歴代上人が一身田の本山に居住するようになる。寺の正面に豪華な唐門と山門があり、寺内はとても広く、巨大な御影堂や如来堂などがあり、重要文化財も数多い。さすが大本山だけあってスケールが違い圧倒される。全国に真宗高田派の寺院は600ヶ寺以上あるが、名古屋市西区那古野に元禄5年(1692年)建立の名古屋別院がある。私はまだ行ったことがない。専修寺の参拝を終え、一身田小学校の角の伊勢別街道の道標を見ながら伊勢鉄道のガードをくぐり五六橋(ごろくばし)を渡る。
【 津 】 民家が密集する町並みを進むと自転車に乗った5人の女子高生に 「 こんにちは~ 」 と挨拶され若返った気持ちになり少し嬉しかった。三重短期大学を過ぎ近鉄電車の踏切を渡ると、右手に近鉄江戸橋駅が見えてくる。しばらくすると左手に大きな 「 江戸橋常夜灯 」 が聳えている。ここが伊勢別街道と伊勢参宮街道との合流点でゴールである。ここを左折すると江戸橋を渡って東海道の四日市宿へ向う。直進すると松阪を通って伊勢神宮へ向う。この常夜灯は安永6年(1777年)の銘があり、嶋田氏という一人の寄進によるもので春日型の形式である。津市内に現存する最古の常夜灯である。江戸時代には伊勢神宮への参詣が盛んで、特に60年周期で爆発的な参拝客が街道に溢れたと言う。昔の絵図をみると銀座通りみたいである。この常夜灯から東へ50mほど行った所に江戸橋が架かっているが、現在は橋の架け替え工事中で、あるべき橋が無かったのは残念であった。ちなみに江戸橋の地名の起源は、津藩のお殿様が参勤交代で江戸へ向う時、お城の留守居の人達が、この橋まで見送ったのでその名が付けられたとのこと。ゴールのあと伊勢参宮街道をJR津駅まで歩き帰途についた。予定より時間が多くかかったので暮れなずむ頃となり喉の渇きを癒すため缶ビールを飲み、ほろ酔い気分で電車に乗った。
 

日本の街道歩き〔39〕美濃脇街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 5月13日(土)20時32分55秒 pool-219-140.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 美濃脇街道は中山道の関ヶ原宿から東海道の桑名宿を結ぶ約51kmの地方街道である。本来の美濃街道(美濃路)は中山道の垂井宿と東海道の宮宿(熱田)を結ぶ官道であり、大名の参勤交代にも使われた幕府の道中奉行が管理する正式街道であるが、今回の美濃脇街道は西国や北陸方面からお伊勢参りやお多度参りの参拝客が歩いた道である。よって正式街道に付きものの本陣や一里塚は設置されていない。岐阜県では別名、伊勢街道あるいは多度街道と言われ、一方、三重県では美濃街道とも言われる。
 なお、途中の牧田宿の外れで九里半街道と交差している。もともと九里半街道とは若狭の小浜から琵琶湖西岸の今津湊を結ぶ38kmの街道であるが、その距離が九里半であったので、その名前が付けられた。一方、琵琶湖東岸の朝妻湊(米原市)から養老を結ぶ街道も同じ距離であるので、こちらも九里半街道と名付けられた。美濃脇街道のルートは関ヶ原から県道56号に沿って南下し、駒野から桑名まで国道258号の近辺を通り、七里の渡しの発着点である桑名湊まで続く街道である。
【関ヶ原】 スタートは夏の暑さが少し和らいだ平成28年9月23日。今回は街道歩き仲間の川島淳二氏と初日だけ同行した。JR関ヶ原駅から南へ100mほど歩くと中山道に出る。関ヶ原は古代から交通の要所で街道が整備された江戸時代は、中山道を東へ向えば江戸へ、西へ向えば京都である。北へ向かえば北国脇往還で木之本へ、南へ向えば美濃脇街道で養老、多度を経由して桑名へ。また慶長5年(1600年)に天下分け目の関ヶ原合戦があった所で知名度は非常に高い。中山道から分れるとすぐに「本多忠勝陣跡」の史跡がある。本多忠勝は徳川家康の家臣であり、関ヶ原合戦では東軍の諸将として軍功を挙げ、後に桑名城主となる。東海道新幹線をくぐり街道は山寄りの道を進む。烏頭坂追分地蔵(うとうさか)を越えると右手に島津豊久の墓がある。関ヶ原合戦で敗れた西軍の島津軍は戦場から離脱し、ここ烏頭坂まで逃げたが東軍の井伊、本多の軍勢に追撃され、大将の島津義弘を薩摩へ落ちのびさせるため、甥の島津豊久がここにとどまって奮戦し討死にした場所である。
【牧田】 烏頭坂を下り牧田の集落に入り木曽神社に着く。この神社は源平合戦に登場する木曽義仲を祀ってあるが、なぜここが義仲と関わりがあるのか不詳であった。入口の横には松尾芭蕉の句碑 「 義仲の 目覚めの山か 月かなし 」 が建てられている。 牧田の宿場は車や人の往来がほとんど無くひっそりとし、由緒ある八幡神社、麦房神社, 琳光寺を通過すると、馬鹿でかい 「 牧田の常夜灯 」 が高く聳えている。道はくねくね曲がり往時の宿場の道筋が偲ばれる。牧田小学校を過ぎると二又馬頭観音、二又古墳、法泉寺と続き、やがて牧田川の河畔に出る。ここから街道は牧田川に沿って東へ進むが、名神高速道路建設の時、街道は高速道路の盛り土の下になって消滅してしまったため、広瀬橋を渡って南岸を迂回しなければならない。この橋のたもとに九里半街道の道標があり、また東海自然歩道の案内板も立っている。ここから街道は広々とした田園地帯を真っ直ぐ南へ進む。途中、サイクリング走行中の人が手を振りながら田圃の中を走り去って行った。
【養老】 真泉寺がある沢田の集落を通過し、県道56号を左手に見ながら、ひたすら田圃の中を歩く。あたり一面は稲穂が垂れ下がり稲刈りが近いと感じさせる。しばらく行くと 「 養老ミート 」 という看板のある大きな精肉工場があり、通り過ぎると左手に養老小学校、養老警察署が見える。このあたりが石畑の集落で浄誓寺というお寺の境内で昼食を取る事にした。足が少し疲れ汗をいっぱい掻いているので、腰掛けるとホッと一息つける。昼食のあと、街道は小さなアップダウンを繰返し柏尾まで来ると道が二手に分かれ、その角に道標がある。 「 右 たきみち、左 いせみち 」 と読む事ができる。 「 たきみち 」 とは養老の滝のことである。坂を下ると県道56号の交差点 「 養老公園東」を横断し、まもなく養老鉄道の養老駅に到着する。ここでお手洗いへ行きたくなるが、トイレは駅構内にしかなく、駅員の了解をとってホームへ入る。養老駅の前には養老名物の瓢箪のオブジェと、孝行息子の石碑が立っている。養老の滝まではここから2kmもあるので今回は行くのを見合わせた。養老の地名は、奈良時代の元正天皇(女帝)が霊亀3年(717年)この地を訪れ、当地の美泉が若返りにたいそう効能があり、自分自身の病気も回復したので 「 老いを養うことができる 」 と感心され元号を 「 霊亀 」 から 「 養老 」 に改元された。養老町はその元号を地名として取り入れた珍しい地方自治体である。来年、平成29年が西暦2017年にあたり、養老改元1300年という記念の年を迎えるため、地元では、いろいろなイベントが予定されているようだ。また養老改元の舞台となった養老の滝は、親孝行の息子が山中に薪を取りに行くと清い湧き水がお酒となり、貧しく年老いた酒好きの父に飲ませたという伝説があり、ここ養老町は親孝行の精神をずっと大切にしている。養老駅から少し南へ歩くと大きな石碑が立っており「第13代横綱・鬼面山谷五郎生誕地」と記してある。街道は養老の高札場跡を見て、しばらくすると小倉隧道をくぐる。しかし山でもないのになぜトンネルがあるのか不思議に思い、近くの農家の老婆に尋ねると、トンネルの上に川が流れているとのこと。そうではないかと予想が的中した。中山道の草津宿の天井川と同じである。これまで全国の街道歩きでも何度か見かけた景色である。南小倉公民館の近くの大神宮常夜灯を過ぎると養老町と海津市との境界が近づいてくる。
【津屋】 海津市に入り下多度小学校を過ぎると右手に本慶寺があり参拝する。このお寺は昔、津屋城があった所である。戦国時代、津屋城は高木正家が居城としていたが、関ヶ原合戦で西軍の石田三成に従ったため、御家は断絶し廃城となった。その後、慶長8年(1603年)に当時の高須城主の許しを得て、この地に本慶寺が移され現在に至っている。街道は南濃町津屋へ入り美濃津屋駅の踏切を渡ると古い道標があるが、ここで街道を外れて寄り道をする。徒歩15分ほど東へ行くと津屋川の堤防に出る。ここに有名な彼岸花の群生地があると聞いていたが、現地を見てガッカリする。地元の老人に尋ねると8月は雨が降らず、9月に入ると大雨が続き川の水位が異常に高くなり、例年の3割ほどしか咲いていないと嘆いていた。街道に戻り志津南谷橋を渡ると小さな道標があり読みづらい文字を必死に解読しようとしていたら、道路の反対側にあるガソリンスタンドの中年の店員が近づいて来て道標の読み方を教えてくれた。そして近くに 「 七ツ墓 」 の史跡があるから案内しましょうと言い、仕事をほったらかしにして一緒に歩いてくれた。明和6年(1769年)志津村で村の財政について村民と村役人の間で論争が起き、村民の代表が大垣藩役所へ訴え出たが、一揆を恐れた藩の役人は代表7名を大垣城外で死刑にしてしまった。一揆まで企てていなかったのに理不尽な藩の仕置きに志津村の庄屋たち7名が犠牲になったのを慰霊して 「 七ツ墓 」 が建てられた事が説明文に記してあった。そのガソリンスタンドの店員に案内のお礼を述べると、どこか歩いているのと尋ねられ、関ヶ原から桑名まで昔の街道を歩いていると伝えると感心していた。
【駒野】 街道は徳田の交差点で県道56号と重なり庭田を過ぎると道端に 「 たまご自動販売機 」 が設置してあった。初めて見る自販機を覗くと、卵がガラスケースに入っていてお金を入れると扉が開く仕掛けである。JA西美濃南濃支店を通るとすぐに市神神社がある。通りがかりの女子高生に道を尋ね駒野駅に着き、汗びっしょりで1日目のウォークを終え、一旦帰宅する。翌日、駒野駅まで電車で来て再スタートする。早朝は涼しく快適な気分で、ついつい演歌の鼻歌が出てくる。寒窓寺近くの畑で草取りしているお婆さんに朝の挨拶を交して西浄寺あたりまで来ると不気味な光景に出くわした。なんと!カラスが何百羽も空を舞っている。あたりは人も車もいなくて、襲われそうな恐怖心に駆られた。なんとか無事に通過し美濃山崎駅の手前から、やや人里離れた寂しい街道を歩く。
【石津】 国道258号と合流すると前方に磐若谷トンネルが見えてくるが、その手前を左折して坂を登り石津へ向うと左手に揖斐川が現われる。数日前から雨続きで水量が多く大河を思わせる。すると前方左に長い橋が見えてくる。揖斐川に架かる海津橋である。その先の願海寺を過ぎると薩摩義士のお墓がある円成寺に着く。宝暦3年(1753年)江戸幕府は薩摩藩に濃尾三大川(木曽川、長良川、揖斐川)の治水工事を命じた。薩摩藩は家老の平田靱負を責任者として藩士947名、総工費40万両を越える巨費を投じて宝暦5年に完成するが、莫大な借金や病死33名、自害51名の犠牲者を出した一切の責任をとり、家老の平田靱負は切腹する。犠牲となった薩摩藩士のうち13名のお墓がこの円成寺に造られた。参拝して見学が終ると街道は石津駅の近くを通って、太田で再び国道258号を横断し曲がりくねった旧道を歩く。しばらくすると左手に三切池という灌漑用の細長い池を見ながら美濃松山駅の近くを通って一路、南へと歩く。
【多度】 岐阜県と三重県の県境を過ぎると雲行きが怪しくなってきた。多度町は多度山と多度大社で有名な所でこれまで何度も訪れているが、街道から1.5kmも離れている多度大社だけは参拝しようと思い、貴重な時間を割いて往復した。途中、多度郵便局あたりから雨が降り出し、ザックカバーを取り付け、傘を差して参詣路の坂を20分ほどかけて登る。参道の中ほどに 「 宮川清めの池 」があり説明文を読むと、宝暦年間の頃から多度大社の参拝者は、ここで手を洗い、口をすすぎ、身を清めてから神域に入ったといわれる。小さな池は現在、金網で囲ってあり、直接、水を手にできないが、毎年5月の祭礼の時は池の水を汲めるようである。ようやく多度大社に到着したが、雨降りのため参拝客が極めて少なかった。多度大社は三重県では伊勢神宮、二見神社、椿大社に次ぎ参拝者が多く年間140万人を越える。伊勢神宮との関係が深く、昔から 「 お伊勢参らば多度もかけよ、お多度かけねば片参り 」 と詠われている。毎年5月5日には上げ馬神事があり、境内の急坂を人馬が駆け上がり、その年の豊作・凶作を占う。また11月23日には参道に設けられた馬場で流鏑馬祭り(やぶさめ)が行なわれる。帰りも同じ参道を歩くが、桔梗屋、大黒屋といった老舗の料亭や和菓子屋が並んでいる町並みは風情がある。本来の街道に戻り円正寺あたりから遠くに木曽三川公園の展望タワーが小さく見える。街道が県道26号と交差する付近に白色の巨大な鳥居があり周囲を圧倒している。郊外へ出ると田園風景に変るが田圃の畦道に赤い彼岸花が咲き乱れ旅情をなごませてくれる。街道は養老線に沿って進み、多度東小学校、野志里神社を過ぎ下能代駅を右手に見ながら歩く。
【桑名】 雨が降り続くので傘を差したまま歩くと深谷の集落に入る。法光寺付近で子犬がウロウロしていて、こちらに接近し吠えてきた。犬は苦手であるが小さいので争っても負ける事はないと思ったが早く立ち去ってもらいたいため、折りたたみジャンプ傘を勢いよく開いたり閉じたりして威嚇すると逃げて行った。深谷小学校あたりでトイレへ行きたくなるが街道筋には公衆トイレはない。と思ったら深谷幼稚園の近くに、なんと!交番を発見する。入口に「桑名警察署深谷派出所」と書いた表札がある。何とタイミングが良いのだろう。躊躇することなくドアを開けて中へ入ると若いお巡りさんがいて 「 お手洗いをお借りできますか? 」 と言うとO,Kの返事が出た。使用後、お礼を述べると、私の旅姿を見て 「 どこか歩いてみえますか? 」 と尋ねられ 「 美濃脇街道を関ヶ原から桑名まで2日かけて歩いています 」 と答える。それから私の街道談義が始まり興味深そうに聞いてくれ、別れ際に 「 気を付けて歩いて下さい 」 とエールを送ってくれた。今回も日本のお巡りさんとお友達になった。街道は東名阪高速の桑名東インターの横を通り、JRと近鉄のガードをくぐる。福島の交差点あたりから、長良川、揖斐川に架かる伊勢大橋が見える。この橋は平成25年、佐屋街道を名古屋から桑名まで歩いた時に渡った、とてつもなく長い橋である。街道は国道1号と重なり南下する。蓮見町あたりで国道1号から離れ、東へ向うと海蔵寺がある。ここにも宝暦治水工事で亡くなった薩摩藩士のお墓がある。道を少し北にとって諸戸庭園、住吉神社を通り、船馬町にある七里の渡し、桑名の大鳥居に到着する。ここが終点で東海道と合流する。近くに桑名城跡の九華公園が見える。江戸時代には、桑名宿と宮宿(熱田)の間は東海道唯一の海路で、その距離が七里(28km)であることから「七里の渡し」と呼ばれた。ここはちょうど伊勢国の東の入口にあたるため伊勢神宮の 「 一の鳥居 」 が天明年間(1780年頃)に建てられた。最後の写真はこの鳥居の前で撮りゴールの喜びを噛みしめた。
 

日本の街道歩き〔38〕菰野街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 4月10日(月)13時15分46秒 pool-219-140.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 菰野街道(こもの)は東海道の宿場町である四日市の北町から出発し、湯の山温泉へ向う途中の城下町・菰野まで約13kmの短い街道である。慶長5年(1600年)菰野城に土方氏が入城し、城下町を造ると四日市宿との往来が頻繁となり、また菰野藩主の参勤交代で東海道へ出るまでの連絡道として使われた。ルートは四日市から三滝川の南岸堤防沿いに西へ進み、高角(たかつの)から支流の矢合川沿いに智積(ちしゃく)を経て菰野に至る。菰野からさらに西へ進むと湯の山温泉に行かれるので別名・湯の山街道とも呼ばれる。大名の参勤交代や物資の輸送だけでなく鈴鹿山系の麓にある湯の山温泉へ湯治、遊山の旅人も多く通った街道である。
【四日市】 出発日は平成28年9月10日で、残暑厳しいというより猛暑の中、近鉄四日市駅をスタートした。駅から数分歩くと旧東海道の道筋に入る。過去の街道歩きで四日市宿は2度、通過している。平成21年の伊勢街道(名古屋~伊勢・151km)、平成24年の東海道(京都~東京・495km)で四日市の繁華街を通る街道を歩いた。四日市市の中部西小学校の南西角に、江戸時代、北町陣屋が置かれたが、ここが東海道と菰野街道の追分であり、スタート地点である。すぐに国道1号線を横切り四日市西町郵便局を過ぎると、老舗の和菓子屋 「松生堂」 を通る。かなり古そうな店構えである。その先に西町公民館があり、隣に延命地蔵尊が立っている。ここで菰野街道歩きの道中安全を祈願した。ここから三滝川の南岸堤防道に入るが、ここが千草街道(菰野方面への別ルート)との追分で、昔は舟渡しがあった所であるが現在は明治橋が架かっている。近鉄のガードをくぐると視界が広がり、はるか前方に御在所山が望める。この堤防道は道幅が狭くて歩道も付いていないが、これでも国道477号で、かなり危険である。そのため三滝川に架かる堀木橋から野田橋までの間は、河川敷へ降りて遊歩道を歩いた。御在所山の中腹に立つロープウェイの鉄塔が遠目に見えるようになった。ここで街道写真を撮っているとジョギングしていた30歳前後と思われる若者が私の作った街道横幕を見てニヤリと笑い、手を振ってくれた。再び堤防道に戻り、久保田橋、生桑橋、新尾平橋を右手に見ながら進むが気温がグングン上昇し汗が止めども無く流れ、水分の補給が追いつかないほどであった。
【川 島】 街道は三滝台団地入口の交差点を過ぎると川島の集落に入る。街道筋には食事処が少ないと思ったので、近鉄川島駅近くのコンビニ・サークルKで昼食用のおにぎりを買う。川島の町並みは現代風の家屋ばかりであるが、狭い道幅やくねくね曲がる微妙なカーブは昔の道を連想させる。ここで街道から外れ、近鉄電車の踏切を渡って小高い丘の上に立つ川島神社を参拝する。ここでも三脚を立てて街道写真を撮っていると、神社の前を通る女子高生や車の運転手がジロジロと私を見つめていた。足の疲れは感じないが暑さと水分不足で体がだるくて呼吸が乱れがちになったため、長めの休憩を取り、次の町へ向った。
【高 角】 川島から約1.5kmで高角(たかつの)の町に入る。近鉄高角駅の北側に高角橋が架かっていたが、三滝川と矢合川が合流する地点で三角州のような地形をしている。このあたりで国道477号から離れ、田園地帯を歩く。車の往来に悩まされる事はなくなったが、樹木や家屋がまったく無く直射日光をまともに受け、さらに汗がいっぱい噴き出てくる。右手に東名阪自動車道の四日市インターを見て、その高架をくぐり矢合橋を渡る。
【智 積】 左折すると、日本名水百選で名高い智積(ちしゃく)の町へ入る。古い建物が多く、道も狭くて不規則に曲がりくねって、いかにも昔の宿場という印象を受ける。しばらく歩くと森に囲まれた椿岸神社があり参拝する。そこからすぐの所に西勝寺という日本庭園が美しい立派な寺院がある。その周囲は水路で囲まれ、透き通る綺麗な水の中で大きな鯉が泳いでいる。これが有名な 「智積養水」と呼ばれるものである。 「養水」 は 「用水」 という文字を使わず「暮らしを支え命を養う水」という意味が込められている。
智積養水の起源は正徳元年(1711年)、四日市陣屋代官の石原政利が建設したと伝わっている。江戸時代の智積村は地下水も地表水も得られなかったため、日照りが続くと旱魃に見舞われ、たいそう農民が難儀をしていた。そこで三滝川の伏流水が湧出する菰野村の神守(かもり)の蟹池から水路が曳かれた。長さ1.8 km、水量は1日あたり19トン、水温は1年を通して安定している用水である。しかし戦後、産業発展とともに、用水の汚染が進み、昭和40年代から住民による浄化運動が展開され、昔のように鯉が住める川が蘇えった。私が街道歩きで見た養水も、とても透明度が高く綺麗で大きな鯉が何匹も元気よく泳いでいた。
その後、昭和60年7月(1985年)に環境保全活動と水質の良さが認められ、環境庁の日本名水百選に選定された。地元の人々の努力に拍手を送りたい。JA四日市桜支店を過ぎ、右に左に目まぐるしく道を曲りながら智積の町外れにある地蔵堂に到着した。ここで滝のように流れた汗を拭き、やや遅めの昼食にコンビニで買ったおにぎりを食べ十分な休養を取った。食後、再び歩き始め金渓川に架かる三重橋を渡る。
【菰 野】 金渓川の北岸に沿って西へ進むと正面に御在所山が大きく見え、ロープウェイの鉄塔もクッキリと高く聳えているのが確認できた。近鉄の踏切を越すとすぐに県道140号(菰野~大安)の高架をくぐる。この道路は通称 「ミルクロード」 と呼ばれている。語源の由来は県道140号沿いに 「八風牧場」 があり、乳牛が放牧されているからと言う。三重県には、この他に松阪から多気へ向う農道を 「 ビーフロード 」 という名前を付けている。松坂牛の美味しさを強調したいのだろうか。街道は左手の山腹にあったと言われる宿野城跡を見ながら菰野町へ入ると国道477号と合流する。このあたりの国道は道幅が広く、歩道も付いているので安全に歩く事が出来る。宿野の交差点の先で街道筋の国道477号と国道306号が交差する。亀山方面からくる昔の「巡見街道」との追分であり 「西久保の辻」 と呼ばれる交差点であるが、その道標を探したが見当たらなかった。菰野の繁華街に入ると右手に大きな菰野厚生病院があり、その先の三叉路にバカデカイ石燈籠が立っている。高さが7~8mもある灯籠であるが説明文を読むと、1984年に菰野ライオンズクラブが 「友愛の灯」 として設置したもので、史跡とは無関係であった。ここで国道477号から離れて左折し狭い旧道へ入る。この通りは東町商店街と呼ばれるメインストリートであるが、残念ながら閉ざされた商店が多く、寂れた感じは否めない。途中、連子格子の古い建物に 「 油桂旅館 」 (あぶけ)の看板を見つけ、最後の街道写真を撮ったが営業している気配は無かった。そこからさらに西へ進むと菰野町役場があるが、その手前に街道の終点 「 札の辻 」 がありゴールインをした。この角に昔、問屋場(といやば)と言われる、荷物の継立てや馬と駕籠を手配する建物があったが現在は空き地となっている。ほぼ予定通りの時間に到着でき、ここから猛暑の踏破で疲労困憊を感じながら近鉄菰野駅まで歩き、帰途についた。
 

クラインガルテン天のなかがわ便り

 投稿者:石田宣安  投稿日:2017年 3月25日(土)22時23分33秒 sp49-98-157-251.msd.spmode.ne.jp
返信・引用
  中川村の「クラインガルテン天のなかがわ」で野菜を作ったり、地元の手打ち蕎麦の会で修行したり、地域の環境を考えて活動している竹の会を手伝ったり、リタイア後ライフを満喫している私です

そんな私に、昨年BS日テレから取材依頼があり、約6時間の密着取材を受け、今年1月11日に放送された番組が再放送されます

番組内容は、シニアの生き方として、田舎暮らし、移住、起業、終活がテーマ

私その中で、田舎暮らしのコーナーで、クラインガルテンを利用し、リタイア後の生活を満喫している者の代表?として出演しました

番組名は、BS日テレ「徳光和夫シニア時代を楽しく過ごそう?知っトクなっとくライフプラン」です

再放送は
4月1日(土)19時~20時54分です

良かったら視てください
《BS日テレ》ですよー

因みに、ここ中川村はふきのとうが出始め、やっと春がそこまで来てるかなという感じです
畑を耕し、本格的な農作業ができるのを心待ちしている一番良い時期です?
 

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