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日本の街道歩き〔42〕谷汲街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 6月22日(木)22時01分52秒 pool-219-140.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 谷汲巡礼街道は中山道赤坂宿(大垣市)を起点として西国33番霊場谷汲山華厳寺に至る街道である。この街道は室町時代中頃には、ほぼ現在のようなルートに定まったと言われる。昔は京都方面からの巡礼者も江戸方面からの巡礼者も中山道から分岐する赤坂追分から北を目指して大勢の旅人が歩いた街道である。赤坂から揖斐川を渡るまでは郊外の平坦な道で、のどかな雰囲気が続くが川を越えてからは山合いに入り、中でも小野坂峠は険しい山道で鬱蒼とした森の中を進む。峠を越えれば再びのどかな風景となり、由緒ある谷汲山華厳寺の山門まで街道が続く。道中には道標、常夜灯、地蔵等が多く、古い道標は自然石を利用して造られているものが多い。今回は秋の恒例行事「谷汲もみじまつり」の開催日に合せて、近所に住む友人の井芹英雄氏と一緒に歩いた。
【赤坂】 出発は平成28年11月13日の秋晴れのウォーキング日和。中山道の赤坂宿は中世の頃から杭瀬川の舟運が発達し、物資が集積した交通の要所である。中山道を往来する旅人で栄え旅籠も多かった。JR美濃赤坂駅からスタート地点の追分までは現在も古い建物が多く残っており、往時を偲ぶ事ができる。谷汲街道の起点となる中山道の赤坂追分付近の道は微妙に曲りくねっており昔のままの街道筋である。またこの辺りは神社やお寺が多く、しかも立派な門構えばかりである。追分を出発すると、まもなく西濃鉄道貨物線の踏切を渡り河合石灰の工場に出るが、ここから先は私有地となるので右折して矢橋鋼材の横を通って迂回する。あたりは民家が散在し田園風景である。南市橋町界隈では右手に国道417号が並行しているが、所どころ、街道が部分的に消滅しているので、そのたびに迂回を余儀なくされる。この頃になると、陽が高くなり朝の寒さは和らぎ、早足で歩くと汗ばむほどになる。
【池田】 揖斐郡池田町に入ると道は昔のままで伸びており、道に迷う事がなくなる。片山という集落の中に立派な鳥居を構える八幡神社があるが、事前の調べでは鳥居前の常夜灯が濃尾地震の被害で上半分が欠けて無くなっているという情報を得ていた。しかし実際は新品のピカピカ石の常夜灯に変っていた。よく見ると平成27年建立と記してあったので出来たてホヤホヤの常夜灯であった。その先の八幡小学校の前に古い道標があり谷汲巡礼街道の説明板が立っていた。道標はかなり古く室町時代の製作であり、街道筋には巡礼者の為の施行宿や湯茶接待所が置かれていたと記してあった。ここを過ぎると直ぐに杭瀬川の小さな橋を渡り六乃井の集落に風変わりな 「 乳くれ地蔵 」 が立っていた。ここの説明文によると文政6年(1823年)5月、街道の八幡村で一人の老人がうずくまり苦しんでいた。その老人は道行く女性に「どうかあなたの乳を飲ませて下さい」と懇願するが、誰も気味悪がって近づこうとしない。それを見て八幡村の庄屋竹中家の嫁、おみねは哀れに思い老人の前で胸元を広げると老人は「お止め下さい」と言って身の上話を始めた。老人は伊予国氷見村(現在の愛媛県西条市)から谷汲山への巡礼にきたが、この地で倒れ、息絶え絶えに地蔵尊建立のために蓄えたお金を託せる人を探していたと言う。おみねは亡くなった老人の願いどおり、この地に地蔵尊を建立した。それ以来この地蔵を「乳くれ地蔵」と呼ぶようになり、乳の出ない母親が詣でると乳が出るようになった事から、現在でも参拝者が多いという。そこから暫らくして養老鉄道の踏切を渡ると左手の方向に池田町役場が見える。街道は北へ向い広々とした田園地帯に入る。しかし途中で道路工事のため全面通行止の標識が立ち歩行者も立入り禁止となっていた。迂回するには時間がかかるため強引に立入り禁止エリアに入ったが、日曜日のため重機は動いておらず何とか無理に押し通った。しばらくすると揖斐川の堤防が見えてきて杉野の集落に入る。しかし道が複雑でかなり迷いながら橋を目指した。
【揖斐】 揖斐川に架かる大きな三町大橋を渡ると池田町から揖斐川町に入る。この日は第29回揖斐川マラソン大会が開催され全国から9000人のランナーが揖斐川沿いのコースを走った。しかし谷汲街道のルートとは離れているのでレース風景は見られなかった。昔はここ三町大橋より少し下流の所に川渡し場があった。その近くに古い小さな常夜灯があり、ちょうど昼時となったので秋晴れの中、青い空を仰ぎ、川のせせらぎを聞きながらおにぎりを頬張った。食後、揖斐川の支流である桂川に沿って進むと、権現山の下を貫く松山トンネルが見えてくる。このあたりから山麓の道に変る。志津山の麓の円通寺や東光寺を過ぎ県道251号と合流する。ここから谷汲街道最大の難所である小野坂峠に差掛かる。県道は日光の 「 いろは坂 」 のような九十九折のヘアピンカーブが続くが、街道は自性院の脇から険しい山道に入る。おびただしい倒木やゴロゴロした石が散在し蜘蛛の巣も張っている。実に歩きづらい。事前に調べた時も道が所どころ消滅している箇所もあり藪漕ぎを強いられるという情報を得ていた。実際に歩くとどれが道なのか分らず疑心暗鬼で進むと県道の小野坂トンネルに出てしまった。ここから旧道への道があるはずだが見当たらず、やむなくトンネルをくぐる事にした。この道は西国自然道コースと重なっているが、まったく手入れがされておらず道標もないので初めて歩く者にとっては困難極まる道である。また鬱蒼とした森林で熊やイノシシが出没しそうな昼間でも暗い道である。
【谷汲】 何とか小野坂峠を越えると谷汲に入る。街道は県道251号沿いであるがしばらくすると、左手に荘厳な春日の日枝神社がある。その近くに渡船場跡の標識が立っているが周りを見ても川がない。昔は舟で渡るほどの川があったのか不思議に思った。現在は見渡す限り田園地帯である。その先に街道から外れて谷汲ゆり園があるが今回は素通りした。揖斐川特別支援学校、谷汲保育園を過ぎると県道から分れ、地蔵や古い石道標が並んでいる道に入る。重軽地蔵(おもがる)を過ぎと谷汲中学校の手前に柿の無人販売所があった。一袋に大きな柿が5個入って、たったの100円である。形が歪んでいたり小さなキズがあったりするが、これはお値打ち物と考え、2袋を買い蓋のない金属箱に200円を入れた。お金を入れた箱の中を勘定すると2~3千円はあったと思うが、現金が丸見えなので盗む人がいないか余分な心配をしてしまった。ちなみに購入した柿を帰宅してから食べたが甘くて美味しかった。
【華厳寺】 予定より早い時間に谷汲山門前に到着した。ちょうど「谷汲もみじまつり」の開催日とあって観光客で溢れていた。参道の途中に、まつり広場があり、たくさんの屋台が並び特設ステージから踊りや太鼓の賑やかな音楽が聞こえてくる。参道脇のモミジの中には真っ赤な紅葉も見られるが全体的にはまだ少し早いタイミングであった。参道の中ほどに大きくて荘厳な山門が立っているが、この山門が谷汲街道の終点である。そこから本堂へはさらに数百m歩かなければならないが、道端に 「 本堂へ七丁半 」 とか 「 本堂へ五丁 」 というような丁石が設置してあるので歩く目安になる。一丁とは109mであり、三十六丁で一里である。本堂前の階段を登ると線香の臭いやお経を唱える声が聞こえてくる。谷汲山華厳寺は延暦17年(798年)に創建され、12世紀中頃(平安時代後期)には西国33番霊場の1に挙げられている。ここでゆっくり 「 もみじまつり 」 を見物したかったが、バスが2時間に1本しかなく、時間がないので急いでバス停へ行き、樽見鉄道の谷汲口駅に向った。バスの運転手は中年の女性であったがハンドルさばきは鮮やかで安心して乗る事ができた。また同行者の井芹氏が運転中に話し掛けると丁寧に応えてくれたが、その会話の一部始終が運転手のマイクを通して車内に放送されていたのは面白かった。柿を2袋も買いリュックザックは疲れと相まってかなり重く感じられたが、無事に踏破できた達成感を味わいながら帰りの列車の中で自宅から持参していたお酒をチビリチビリ飲みながら疲れを癒した。
 
 

日本の街道歩き〔41〕下街道脇道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 6月10日(土)21時26分37秒 pool-219-140.aitai.ne.jp
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  【街道の概要】 中山道大井宿の西方の槙ヶ根追分から分岐し、現在のJR中央本線沿いに下街道のルートが通っている。本街道の中山道は大湫、細久手、御嵩、伏見、太田、鵜沼を経て名古屋へ出るが、下街道は瑞浪、土岐、多治見、春日井を経て名古屋へ行くので、4里も短い。その下街道から瑞浪で分れ小里、駄知、下石、妻木、笠原を経て瀬戸市の上半田川までの脇道を下街道脇道と言い、さらに瀬戸街道を通って名古屋へ通じている。地方の脇街道であり、物資の運搬や地元民の往来だけなので、定められた宿場はなく街道に付帯する施設等もない。ただ旅人のための常夜灯や粗末な道標、小さな地蔵などが僅かに残っている。
【瀬戸】 出発は平成28年10月7日の日本晴れの日であった。今回は私の近所に住む多治見市の ウォーキング倶楽部「道行会 しでこぶし 」 の会長である井芹英雄氏が同行した。スタート地点の国道248号の上半田川口(かみはだがわくち)までは、以前、多治見から路線バスがあったが、廃止されたので、私の長男、秀樹にマイカーで送迎してもらった。朝は涼しい気候であったので長袖を着用した。出発してすぐ、右手にJR東海の野球グランドがあり、車の通行が少ない道を東へ向って歩く。あたりは田園風景で左手に東海自然歩道のルートが見える。中平橋を渡る頃から上半田川の小さな集落に入る。寺前橋バス停の角を左折すると吉祥寺の前に出る。ここで汗を拭い水分を補給して休憩したあと、坂道を登り始める。道は舗装から草道に変り上半田川峠を目指しての山登りである。鬱蒼とした森の中を歩くが、いたる所にイノシシが掘った穴がいっぱいある。雰囲気的に熊かイノシシが今にも出没しそうな森なので熊除けの鈴を鳴らしながら登る。汗をいっぱいかき、約20分ほどで峠の頂上に着くと木の門扉がある。午前9時から午後5時までしか開かないので夜間は通行できない。以前、笠原の 「 潮見の森 」 へ登る途中、この門扉を見かけた事があるが、街道のルートとは知らなかった。
【笠原】 門扉から先はきれいに舗装された車道を歩く。つづら折りの坂をドンドン下ると途中から眼下に笠原の街が見え、涼しい風が秋を感じさせる。笠原は日本一のタイル生産地であるが、近年はやや衰退している。坂を下ると梅平の交差点に出て、人一人が歩ける狭い旧道の坂道を歩く。梅平橋を渡り念仏坂のアップダウンを過ぎると、また小さな尾張坂を登る。すると辛口の日本酒で評判の三千盛酒造の前を通り笠原の中心部へ出る。以前、多治見市と合併する前に笠原町役場があった所に、「 モザイクタイル・ミュージアム多治見 」 が今年、平成28年6月にオープンしている。この建物は日本を代表する一流建築家の東大教授、藤森照信氏が設計したユニークな美術館で異彩を放っている。ここでトイレを借用し小休止するが入館はしなかった。その後、大坪橋を渡り、真っ直ぐに狭い坂道を登ると上原に着く。その直後、「 道行会しでこぶし 」 の女性会員である宮川さんと遭遇し、三人で会話を交わす。本当に偶然の出逢いである。街道歩きには、いろいろな出逢いがあるが、それも楽しみのひとつである。そこから石拾方面に歩いて多治見市と土岐市の境界がある境橋の手前で右折する。
【妻木】 街道は東へと向きを変え、しばらく歩くとエキップという工場近くの三叉路を左斜めの道に入る。坂を登り東海環状自動車道の高架ガードをくぐると峠の頂上に着く。ここが妻木西峠である。笠原方面から登ると小さな峠であるが、妻木側からだと結構きつい峠である。道は蛇行して森の中を歩くので、いかにも街道らしい峠越えである。坂を下ると左手に丸多製陶所があり、枡形の角を曲がる。このあたりで昼時となったので、近くの神宮寺(じぐうじ)の境内で弁当を食べようとしたが、門が閉まっていた。するとかなり年配の女性住職が車から降りて門の中に入ろうとした時、我々二人を見て 「 どこか歩いているの? 」 と話し掛けられた。少し話をしたが境内に入る許可を得られずやむなく神宮橋を渡って妻木の町へ入り、県道19号を歩いた。どこで昼食をとろうか悩んでいると明神口バス停の先にスーパーマーケットのバローを見つけ、店の横にあるベンチでお握りをたべた。そのあと、再び歩き始めると右側にとてもモダンでシャレた交番を見つけた。それは妻木下石交番であったが、ここではお手洗いは借用しなかった。
【下石】 県道19号の右手にあるウェルフェア土岐を過ぎると下石町(おろし)に入る。この下石町は陶磁器の産地で特に 「 とっくり 」 が有名である。下石貢(おろしみつぎ)の交差点を直進すると、駄知線の廃線跡を越して右折する。旧道は道が狭いが県道66号と合流すると急に車の通行量が多くなる。街道沿いにはコンビニ、喫茶店、そば屋が所どころにあり、下石川橋を渡る。その先に山神温泉の大きな石碑が立っている。山神温泉は鎌倉時代、薬師如来に導かれた落ち武者が発見したと言われ、昔から湯治場として親しまれてきた風情を、一軒宿の 「 湯之元館 」 が引継いでいる。料金はやや高いが大浴場から眺める山の四季が美しいと言われる。ちなみに私はまだ入湯した事はない。街道はやや山がちな地形となり若宮神社を過ぎると、街道は県道から分れ細い道に入る。史跡らしきものは見当たらないが、ゆるやかにカーブする道は往時の街道筋を連想させる。土岐市総合運動公園が右手に見えてくると再び県道と合流する。このあと、街道は登り坂となり、山神峠を目指す。
【駄知】 山神峠の三叉路で右折して駄知(だち)の町に入るが県道66号を真っ直ぐ進むと 「 陶史の森 」があり、さらに行くと 「 道の駅どんぶり会館 」 がある。駄知も陶磁器の産地であり、道の駅では名物のどんぶりが販売されている。さて坂を下り駄知の中心地へ向うが、途中、小学生が大きな声で 「 こんにちは~! 」 と言ってくれたので、こちらも大きな声で挨拶をした。昔、この駄知には鉄道が敷かれていた。大正11年(1922年)に土岐津駅と東駄知駅を結ぶ全長11kmの駄知鉄道が開通したが、昭和49年(1974年)に廃線となった経緯がある。街道は丸山橋の交差点から車が通行できない狭い道へ入り肥田川に架かる千歳橋を渡る。このあたりは製陶所の工場が多く、まもなく八王子神社に着く。ここで流れ出る汗をふき、ペットボトルのお茶をガブガブ飲み干す。しばらく休憩して境内の道標を見る。新しそうな石柱であるが大正12年の銘がある。三列書きで表示してあり、その内容は 「 右 曽木村鶴里村ヲ経テ三河ニ至ル、 前 下石町ヲ経テ多治見町ニ至ル、左 瑞浪町及ビ岩村町ニ至ル 」 と記してある。ここ八王子神社から街道は登り坂となり堀越峠を目指す。蒸し暑さも加わってまた汗が流れ出す。堀越の交差点で 県道66号と合流するが、ここが堀越峠の頂上である。
【小里】 峠を下ると上山田の三叉路に着く。左へ行くと瑞浪市街地へ、右へ行くと小里(おり)へ通ずる。ちょうど交差点に差し掛かった時、前方からパトカーが来て赤信号で停止した。その時、後方で急ブレーキをかけた乗用車が 「 キッキー、キッキー  」 と タイヤの摩擦音をたてて止まった。その大きな音にビックリしたが、どうも信号無視しようとしたがパトカーがいるため仕方なく急ブレーキをかけたようであった。その後なだらかな坂を下ると無名橋という小さな橋を渡るが、その近くに古い常夜灯を見つけた。あたりは田畑が広がり、まばらに民家が点在している。その先の瑞浪クリエーションパーク入口を過ぎると左手に灌漑用の釜糖下溜池を見ながら進む。坂を下り切ると稲津町小里の集落に入り、小里川に架かる小田橋を渡る。右手遠方には小里山が見える。この山の頂上には小里山城跡が史跡として保存されている。私はこれまで3回登ったことがある。天文3年(1534年)美濃源氏の支流である小里光忠が築城し、のちに織田信長に従うことになる。戦国時代、織田家と武田家の勢力争いは、ここ東濃地方が戦場となり小里山城も石垣を備えた堅固な城郭の改修工事を始めたが、岩村城が落城すると天正2年(1574年)工事は中止された。県道66号の下小里を左折し、萩原口バス停あたりから小里川沿いに県道20号を南へ進む。
【瑞浪】 小里川に沿って街道はゆるやかな坂を下り、瑞浪市街地に向って歩く。市原で国道19号を横断すると、左手に中京高校の校舎が見え、屋上からはたくさんのスポーツ競技の垂れ幕が掲げてあった。まもなく土岐川に架かる瑞浪大橋を渡ると瑞浪市消防本部を右手に見る。その先のJR中央本線の高架を越すと、すぐに一日市場(ひといちば)の交差点に着く。ここに美濃源氏の本拠地があった一日市場館跡があり現在は八幡神社の境内となっている。この角が恵那から続いてきた下街道と合流し、下街道脇道のゴール地点である。清和源氏の一族である源光衡は、源平合戦で源頼朝に従って軍功を挙げ美濃国土岐郡へ移住し土岐氏と改姓する。文治5年(1189年)には美濃国守護職に任じられ一日市場に居館を構える。南北朝時代には後醍醐天皇の命に応じ、土岐氏は足利尊氏と共に鎌倉幕府打倒に功を挙げ、のちに美濃、尾張、伊勢の三国の守護職を兼ねる太守となる。しかし土岐氏は正平8年(1353年)に岐阜の川手城へ移ったため、一日市場館は廃止された。ちなみに天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、美濃源氏の支流であり、ここ一日市場に光秀の胸像が立っている。ゴールの後、JR瑞浪駅から電車で多治見へ帰り、同行の井芹氏と駅前の居酒屋で街道踏破の祝杯を挙げた。そのあと二次会として私の中学校時代の同級生であるメグちゃんとユキちゃん(二人とも私と同じ年のギャル!)が経営するスナックで心行くまでカラオケを楽しみ疲れを癒した。
 

クラインガルテン天のなかがわ便り

 投稿者:石田宣安  投稿日:2017年 5月21日(日)15時23分13秒 sp1-72-2-118.msc.spmode.ne.jp
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  5月も半ばを過ぎ、やっと野菜の植え付け時期がやって来たここ中川村です
中央・南アルプスにはまだ雪が残っていますが、回りの田んぼでは田植が始まっています
マイ畑はトマト・ナス・オクラ・ズッキーニ・トウモロコシ・さつま芋・里芋・豆類・カボチャetc.の栽培が始まりました
今年も、野菜作り・蕎麦打ち・地域のボランティア・温泉巡り等楽しみが盛りだくさんです
ここクラインガルテン天のなかがわにはゲストハウスもありますので是非遊びに来てはいかがですか?い
 

日本の街道歩き〔40〕伊勢別街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 5月14日(日)20時09分43秒 pool-219-140.aitai.ne.jp
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  【街道の概要】 伊勢別街道は東海道の宿場である関(現在の三重県亀山市)から伊勢参宮街道の津まで4里26町(約19km)の連絡街道である。なお、1里は36町で1町は109mである。京都方面からお伊勢参りに来た旅人が通った街道で関宿の東追分で東海道から分岐して南下し楠原、椋本、窪田を経て津の江戸橋で伊勢参宮道と合流する。伊勢別街道の名前の由来は、江戸からの伊勢神宮参詣者は東海道の四日市宿・日永追分で伊勢参宮街道に入るが、その支道と位置づけられたものである。
【 関 】 スタートは平成28年10月1日、雨が降る中を電車に乗るが亀山市の関駅に着いた時は止んでいた。関駅は小さな駅で降車客は僅か2~3人だけである。東海道の関宿は旧街道の宿場町の景観保護に努めており、時代劇のイメージの中を歩く。以前、東海道を京都から東京まで踏破した時に歩いており、懐かしさがあった。しかし観光シーズンではないので、ほとんど人を見かけない。わずかにカメラを持った人と小さなリュックを背負った若者の二人しか見掛けなかった。服装や携行品からして街道歩きの人ではないようだった。さて関宿の東追分に着きスタートの写真を撮るが雨上がりの薄暗い空であったので常夜灯に照明が灯っていた。街道はこの追分を右折して坂を下り、鈴鹿川に架かる勧進橋を渡る。勧進橋の名前の由来は、江戸時代に洪水で橋がたびたび流されたが、その都度、勧進による浄財を集め橋を掛け直してきた経緯があったことから。その橋の少し先から左折して狭い道に入るが、その角に「鈴鹿駅跡」の史跡があり見学する。大化の改新の後、全国に駅制がひかれた時、この鈴鹿駅は馬20匹を常備し、駅舎、厩舎、井戸などの設備が整えられ松の木が植えられた。現在は、その碑文が石に刻まれ、説明板も立ててある。狭く曲がりくねった道を進むと急に登り坂が始まり、かなり勾配がきつく、アレ?こんな所に峠があったのかと思ったが、すぐに頂上に着き安堵する。まもなく名阪国道(国道25号)の高架をくぐるが、右手に見覚えのある建物を見つける。ここが関ドライブインである。これまでウォーキングバスや貸切バスで大和、奈良方面へ往来する時、ここで必ず休憩した所である。街道はやがて田園風景に変り県道10号から離れて細い道に入る。
【楠 原】 小さな集落に入ると古い家が立ち並んでいる。道は狭く微妙にカーブしているが、関宿のようなイメージがあり、ここが楠原(くすはら)の宿場である。永享3年(1431年)に室町幕府6代将軍の足利義教が宿泊し、その35年後に8代将軍の足利義政が妻の日野富子を同行して伊勢参宮の時にこの宿場で休憩している。宿場には亀屋をはじめとする多くの旅籠や問屋場、高札場が置かれ、現在でも連子格子の古い家屋が多く連なっている。また楠原には上町、中町、瀬古の3つの風呂屋地蔵があり、病気の時にお参りすると治ると言われる。宿場を通り抜けると県道10号と合流するが、中ノ川に架かる新玉橋(しんたま)を渡る。その先を県道から離れて左折し坂を登ると「林」 の集落に入る。ここに昔、立場 (たてば:2つの宿場の中間にあって荷物や馬を継ぎ立てる所) があった。町の中に明治か大正かと思われるレトロな木造建物が残っている。これは昔の明村役場(あきら)である。まもなく昼時となり、県道10号と伊勢別街道が交差する角に道標を兼ねた小さな常夜灯が立っている。 「 右 さんぐう道、左 京道 」 と石に刻んである。ここで朝、コンビニで買ったおにぎりを食べ、暑さで汗だくになりながら、一路、南へ歩く。
【椋 本】 ほとんど人も車も通らない道を歩いていると前方に大きな土手が見えてくる。これが灌漑用溜池の横山池である。土手が高くて水面を見る事ができない。途中、土手に階段があったので登るとかなり広い池で、水面のはるか遠方には鈴鹿山脈の峰が眺められる。慶応2年(1866年)地元の駒越五良八が私財2万両を投じて完成させた池で、この付近の200町歩の田圃に水を注ぐ事ができるようになった。池の土手に沿って仁王経の石碑がたっている。文化2年(1805年)に建立され疫病が流行しないよう、また疫病が村に侵入しないように祈願されたものである。やがて椋本(むくもと)の宿場に入る。宿場の中には枡形の道があるが1600mも続く大きな宿場で数多くの旅籠が建っていた。百五銀行椋本支店の近くに石道標と木柱が立っている。道標には 「 左 さんぐう道、右 楠原 」 と刻まれている。そこを左折して突き当ると、古い旅籠 「 角屋 」 (かどや)がある。文化3年(1806年)に創業され軒下には参宮講札が多く掲げてある。これは参宮講の指定旅籠である事を示す。椋本宿の東入口で県道10号と合流し、その先の伊勢自動車道の芸濃インターの高架をくぐる。まもなく県道から外れ高野尾(たかのお)の旧道を歩くが単調で景色も見るべきものはない。再び県道と合流する所に銭懸松(ぜにかけまつ)があったという石柱がある。病気になった参詣者がこの松の木に銭を結びつけると回復したとか。
【窪 田】 またまた県道から分れ大里の集落に入る。気温が高くなり汗が出て喉が渇くので頻繁に水分を補給する。豊里中学校、向沖橋、大里小学校を過ぎると窪田の宿場に入る。途中、右手に汐見坂があり、ここから親鸞聖人が一身田を眺めたという。窪田バス停の近くに本陣跡の表示があるが宿場の面影はない。JR紀勢線の手前を右折して狭い道に入るが有名な窪田常夜灯が見つからない。近くで庭の草取りをしていた老人に尋ねると、よほど暇だったのか案内してくれた。高さ9mもある津市最大の常夜灯で近江の商人が文化14年(1817年)に寄進したもので、台座には寄進者の名前が千人以上もビッシリ記してある。その後、この常夜灯は地震によって3回も倒れたが、その都度、地元の人々が再建してきた。
【一身田】 紀勢線の線路沿いに歩くと小さなJR一身田駅(いしんでん)の傍を通るが、ここで寄り道して高田山専修寺(せんじゅじ)へ向う。専修寺は浄土真宗10派のうちの一つ、真宗高田派で山号は高田山。本寺は栃木県真岡市高田にあり、本山は津市一身田町にあり、本寺と本山の住職は同じ人である。一身田の本山は文明10年(1478年)に建立されたが、戦国時代に栃木県の本寺が戦火で炎上したり、教団内部の対立があったため、その後、歴代上人が一身田の本山に居住するようになる。寺の正面に豪華な唐門と山門があり、寺内はとても広く、巨大な御影堂や如来堂などがあり、重要文化財も数多い。さすが大本山だけあってスケールが違い圧倒される。全国に真宗高田派の寺院は600ヶ寺以上あるが、名古屋市西区那古野に元禄5年(1692年)建立の名古屋別院がある。私はまだ行ったことがない。専修寺の参拝を終え、一身田小学校の角の伊勢別街道の道標を見ながら伊勢鉄道のガードをくぐり五六橋(ごろくばし)を渡る。
【 津 】 民家が密集する町並みを進むと自転車に乗った5人の女子高生に 「 こんにちは~ 」 と挨拶され若返った気持ちになり少し嬉しかった。三重短期大学を過ぎ近鉄電車の踏切を渡ると、右手に近鉄江戸橋駅が見えてくる。しばらくすると左手に大きな 「 江戸橋常夜灯 」 が聳えている。ここが伊勢別街道と伊勢参宮街道との合流点でゴールである。ここを左折すると江戸橋を渡って東海道の四日市宿へ向う。直進すると松阪を通って伊勢神宮へ向う。この常夜灯は安永6年(1777年)の銘があり、嶋田氏という一人の寄進によるもので春日型の形式である。津市内に現存する最古の常夜灯である。江戸時代には伊勢神宮への参詣が盛んで、特に60年周期で爆発的な参拝客が街道に溢れたと言う。昔の絵図をみると銀座通りみたいである。この常夜灯から東へ50mほど行った所に江戸橋が架かっているが、現在は橋の架け替え工事中で、あるべき橋が無かったのは残念であった。ちなみに江戸橋の地名の起源は、津藩のお殿様が参勤交代で江戸へ向う時、お城の留守居の人達が、この橋まで見送ったのでその名が付けられたとのこと。ゴールのあと伊勢参宮街道をJR津駅まで歩き帰途についた。予定より時間が多くかかったので暮れなずむ頃となり喉の渇きを癒すため缶ビールを飲み、ほろ酔い気分で電車に乗った。
 

日本の街道歩き〔39〕美濃脇街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 5月13日(土)20時32分55秒 pool-219-140.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 美濃脇街道は中山道の関ヶ原宿から東海道の桑名宿を結ぶ約51kmの地方街道である。本来の美濃街道(美濃路)は中山道の垂井宿と東海道の宮宿(熱田)を結ぶ官道であり、大名の参勤交代にも使われた幕府の道中奉行が管理する正式街道であるが、今回の美濃脇街道は西国や北陸方面からお伊勢参りやお多度参りの参拝客が歩いた道である。よって正式街道に付きものの本陣や一里塚は設置されていない。岐阜県では別名、伊勢街道あるいは多度街道と言われ、一方、三重県では美濃街道とも言われる。
 なお、途中の牧田宿の外れで九里半街道と交差している。もともと九里半街道とは若狭の小浜から琵琶湖西岸の今津湊を結ぶ38kmの街道であるが、その距離が九里半であったので、その名前が付けられた。一方、琵琶湖東岸の朝妻湊(米原市)から養老を結ぶ街道も同じ距離であるので、こちらも九里半街道と名付けられた。美濃脇街道のルートは関ヶ原から県道56号に沿って南下し、駒野から桑名まで国道258号の近辺を通り、七里の渡しの発着点である桑名湊まで続く街道である。
【関ヶ原】 スタートは夏の暑さが少し和らいだ平成28年9月23日。今回は街道歩き仲間の川島淳二氏と初日だけ同行した。JR関ヶ原駅から南へ100mほど歩くと中山道に出る。関ヶ原は古代から交通の要所で街道が整備された江戸時代は、中山道を東へ向えば江戸へ、西へ向えば京都である。北へ向かえば北国脇往還で木之本へ、南へ向えば美濃脇街道で養老、多度を経由して桑名へ。また慶長5年(1600年)に天下分け目の関ヶ原合戦があった所で知名度は非常に高い。中山道から分れるとすぐに「本多忠勝陣跡」の史跡がある。本多忠勝は徳川家康の家臣であり、関ヶ原合戦では東軍の諸将として軍功を挙げ、後に桑名城主となる。東海道新幹線をくぐり街道は山寄りの道を進む。烏頭坂追分地蔵(うとうさか)を越えると右手に島津豊久の墓がある。関ヶ原合戦で敗れた西軍の島津軍は戦場から離脱し、ここ烏頭坂まで逃げたが東軍の井伊、本多の軍勢に追撃され、大将の島津義弘を薩摩へ落ちのびさせるため、甥の島津豊久がここにとどまって奮戦し討死にした場所である。
【牧田】 烏頭坂を下り牧田の集落に入り木曽神社に着く。この神社は源平合戦に登場する木曽義仲を祀ってあるが、なぜここが義仲と関わりがあるのか不詳であった。入口の横には松尾芭蕉の句碑 「 義仲の 目覚めの山か 月かなし 」 が建てられている。 牧田の宿場は車や人の往来がほとんど無くひっそりとし、由緒ある八幡神社、麦房神社, 琳光寺を通過すると、馬鹿でかい 「 牧田の常夜灯 」 が高く聳えている。道はくねくね曲がり往時の宿場の道筋が偲ばれる。牧田小学校を過ぎると二又馬頭観音、二又古墳、法泉寺と続き、やがて牧田川の河畔に出る。ここから街道は牧田川に沿って東へ進むが、名神高速道路建設の時、街道は高速道路の盛り土の下になって消滅してしまったため、広瀬橋を渡って南岸を迂回しなければならない。この橋のたもとに九里半街道の道標があり、また東海自然歩道の案内板も立っている。ここから街道は広々とした田園地帯を真っ直ぐ南へ進む。途中、サイクリング走行中の人が手を振りながら田圃の中を走り去って行った。
【養老】 真泉寺がある沢田の集落を通過し、県道56号を左手に見ながら、ひたすら田圃の中を歩く。あたり一面は稲穂が垂れ下がり稲刈りが近いと感じさせる。しばらく行くと 「 養老ミート 」 という看板のある大きな精肉工場があり、通り過ぎると左手に養老小学校、養老警察署が見える。このあたりが石畑の集落で浄誓寺というお寺の境内で昼食を取る事にした。足が少し疲れ汗をいっぱい掻いているので、腰掛けるとホッと一息つける。昼食のあと、街道は小さなアップダウンを繰返し柏尾まで来ると道が二手に分かれ、その角に道標がある。 「 右 たきみち、左 いせみち 」 と読む事ができる。 「 たきみち 」 とは養老の滝のことである。坂を下ると県道56号の交差点 「 養老公園東」を横断し、まもなく養老鉄道の養老駅に到着する。ここでお手洗いへ行きたくなるが、トイレは駅構内にしかなく、駅員の了解をとってホームへ入る。養老駅の前には養老名物の瓢箪のオブジェと、孝行息子の石碑が立っている。養老の滝まではここから2kmもあるので今回は行くのを見合わせた。養老の地名は、奈良時代の元正天皇(女帝)が霊亀3年(717年)この地を訪れ、当地の美泉が若返りにたいそう効能があり、自分自身の病気も回復したので 「 老いを養うことができる 」 と感心され元号を 「 霊亀 」 から 「 養老 」 に改元された。養老町はその元号を地名として取り入れた珍しい地方自治体である。来年、平成29年が西暦2017年にあたり、養老改元1300年という記念の年を迎えるため、地元では、いろいろなイベントが予定されているようだ。また養老改元の舞台となった養老の滝は、親孝行の息子が山中に薪を取りに行くと清い湧き水がお酒となり、貧しく年老いた酒好きの父に飲ませたという伝説があり、ここ養老町は親孝行の精神をずっと大切にしている。養老駅から少し南へ歩くと大きな石碑が立っており「第13代横綱・鬼面山谷五郎生誕地」と記してある。街道は養老の高札場跡を見て、しばらくすると小倉隧道をくぐる。しかし山でもないのになぜトンネルがあるのか不思議に思い、近くの農家の老婆に尋ねると、トンネルの上に川が流れているとのこと。そうではないかと予想が的中した。中山道の草津宿の天井川と同じである。これまで全国の街道歩きでも何度か見かけた景色である。南小倉公民館の近くの大神宮常夜灯を過ぎると養老町と海津市との境界が近づいてくる。
【津屋】 海津市に入り下多度小学校を過ぎると右手に本慶寺があり参拝する。このお寺は昔、津屋城があった所である。戦国時代、津屋城は高木正家が居城としていたが、関ヶ原合戦で西軍の石田三成に従ったため、御家は断絶し廃城となった。その後、慶長8年(1603年)に当時の高須城主の許しを得て、この地に本慶寺が移され現在に至っている。街道は南濃町津屋へ入り美濃津屋駅の踏切を渡ると古い道標があるが、ここで街道を外れて寄り道をする。徒歩15分ほど東へ行くと津屋川の堤防に出る。ここに有名な彼岸花の群生地があると聞いていたが、現地を見てガッカリする。地元の老人に尋ねると8月は雨が降らず、9月に入ると大雨が続き川の水位が異常に高くなり、例年の3割ほどしか咲いていないと嘆いていた。街道に戻り志津南谷橋を渡ると小さな道標があり読みづらい文字を必死に解読しようとしていたら、道路の反対側にあるガソリンスタンドの中年の店員が近づいて来て道標の読み方を教えてくれた。そして近くに 「 七ツ墓 」 の史跡があるから案内しましょうと言い、仕事をほったらかしにして一緒に歩いてくれた。明和6年(1769年)志津村で村の財政について村民と村役人の間で論争が起き、村民の代表が大垣藩役所へ訴え出たが、一揆を恐れた藩の役人は代表7名を大垣城外で死刑にしてしまった。一揆まで企てていなかったのに理不尽な藩の仕置きに志津村の庄屋たち7名が犠牲になったのを慰霊して 「 七ツ墓 」 が建てられた事が説明文に記してあった。そのガソリンスタンドの店員に案内のお礼を述べると、どこか歩いているのと尋ねられ、関ヶ原から桑名まで昔の街道を歩いていると伝えると感心していた。
【駒野】 街道は徳田の交差点で県道56号と重なり庭田を過ぎると道端に 「 たまご自動販売機 」 が設置してあった。初めて見る自販機を覗くと、卵がガラスケースに入っていてお金を入れると扉が開く仕掛けである。JA西美濃南濃支店を通るとすぐに市神神社がある。通りがかりの女子高生に道を尋ね駒野駅に着き、汗びっしょりで1日目のウォークを終え、一旦帰宅する。翌日、駒野駅まで電車で来て再スタートする。早朝は涼しく快適な気分で、ついつい演歌の鼻歌が出てくる。寒窓寺近くの畑で草取りしているお婆さんに朝の挨拶を交して西浄寺あたりまで来ると不気味な光景に出くわした。なんと!カラスが何百羽も空を舞っている。あたりは人も車もいなくて、襲われそうな恐怖心に駆られた。なんとか無事に通過し美濃山崎駅の手前から、やや人里離れた寂しい街道を歩く。
【石津】 国道258号と合流すると前方に磐若谷トンネルが見えてくるが、その手前を左折して坂を登り石津へ向うと左手に揖斐川が現われる。数日前から雨続きで水量が多く大河を思わせる。すると前方左に長い橋が見えてくる。揖斐川に架かる海津橋である。その先の願海寺を過ぎると薩摩義士のお墓がある円成寺に着く。宝暦3年(1753年)江戸幕府は薩摩藩に濃尾三大川(木曽川、長良川、揖斐川)の治水工事を命じた。薩摩藩は家老の平田靱負を責任者として藩士947名、総工費40万両を越える巨費を投じて宝暦5年に完成するが、莫大な借金や病死33名、自害51名の犠牲者を出した一切の責任をとり、家老の平田靱負は切腹する。犠牲となった薩摩藩士のうち13名のお墓がこの円成寺に造られた。参拝して見学が終ると街道は石津駅の近くを通って、太田で再び国道258号を横断し曲がりくねった旧道を歩く。しばらくすると左手に三切池という灌漑用の細長い池を見ながら美濃松山駅の近くを通って一路、南へと歩く。
【多度】 岐阜県と三重県の県境を過ぎると雲行きが怪しくなってきた。多度町は多度山と多度大社で有名な所でこれまで何度も訪れているが、街道から1.5kmも離れている多度大社だけは参拝しようと思い、貴重な時間を割いて往復した。途中、多度郵便局あたりから雨が降り出し、ザックカバーを取り付け、傘を差して参詣路の坂を20分ほどかけて登る。参道の中ほどに 「 宮川清めの池 」があり説明文を読むと、宝暦年間の頃から多度大社の参拝者は、ここで手を洗い、口をすすぎ、身を清めてから神域に入ったといわれる。小さな池は現在、金網で囲ってあり、直接、水を手にできないが、毎年5月の祭礼の時は池の水を汲めるようである。ようやく多度大社に到着したが、雨降りのため参拝客が極めて少なかった。多度大社は三重県では伊勢神宮、二見神社、椿大社に次ぎ参拝者が多く年間140万人を越える。伊勢神宮との関係が深く、昔から 「 お伊勢参らば多度もかけよ、お多度かけねば片参り 」 と詠われている。毎年5月5日には上げ馬神事があり、境内の急坂を人馬が駆け上がり、その年の豊作・凶作を占う。また11月23日には参道に設けられた馬場で流鏑馬祭り(やぶさめ)が行なわれる。帰りも同じ参道を歩くが、桔梗屋、大黒屋といった老舗の料亭や和菓子屋が並んでいる町並みは風情がある。本来の街道に戻り円正寺あたりから遠くに木曽三川公園の展望タワーが小さく見える。街道が県道26号と交差する付近に白色の巨大な鳥居があり周囲を圧倒している。郊外へ出ると田園風景に変るが田圃の畦道に赤い彼岸花が咲き乱れ旅情をなごませてくれる。街道は養老線に沿って進み、多度東小学校、野志里神社を過ぎ下能代駅を右手に見ながら歩く。
【桑名】 雨が降り続くので傘を差したまま歩くと深谷の集落に入る。法光寺付近で子犬がウロウロしていて、こちらに接近し吠えてきた。犬は苦手であるが小さいので争っても負ける事はないと思ったが早く立ち去ってもらいたいため、折りたたみジャンプ傘を勢いよく開いたり閉じたりして威嚇すると逃げて行った。深谷小学校あたりでトイレへ行きたくなるが街道筋には公衆トイレはない。と思ったら深谷幼稚園の近くに、なんと!交番を発見する。入口に「桑名警察署深谷派出所」と書いた表札がある。何とタイミングが良いのだろう。躊躇することなくドアを開けて中へ入ると若いお巡りさんがいて 「 お手洗いをお借りできますか? 」 と言うとO,Kの返事が出た。使用後、お礼を述べると、私の旅姿を見て 「 どこか歩いてみえますか? 」 と尋ねられ 「 美濃脇街道を関ヶ原から桑名まで2日かけて歩いています 」 と答える。それから私の街道談義が始まり興味深そうに聞いてくれ、別れ際に 「 気を付けて歩いて下さい 」 とエールを送ってくれた。今回も日本のお巡りさんとお友達になった。街道は東名阪高速の桑名東インターの横を通り、JRと近鉄のガードをくぐる。福島の交差点あたりから、長良川、揖斐川に架かる伊勢大橋が見える。この橋は平成25年、佐屋街道を名古屋から桑名まで歩いた時に渡った、とてつもなく長い橋である。街道は国道1号と重なり南下する。蓮見町あたりで国道1号から離れ、東へ向うと海蔵寺がある。ここにも宝暦治水工事で亡くなった薩摩藩士のお墓がある。道を少し北にとって諸戸庭園、住吉神社を通り、船馬町にある七里の渡し、桑名の大鳥居に到着する。ここが終点で東海道と合流する。近くに桑名城跡の九華公園が見える。江戸時代には、桑名宿と宮宿(熱田)の間は東海道唯一の海路で、その距離が七里(28km)であることから「七里の渡し」と呼ばれた。ここはちょうど伊勢国の東の入口にあたるため伊勢神宮の 「 一の鳥居 」 が天明年間(1780年頃)に建てられた。最後の写真はこの鳥居の前で撮りゴールの喜びを噛みしめた。
 

日本の街道歩き〔38〕菰野街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 4月10日(月)13時15分46秒 pool-219-140.aitai.ne.jp
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  【街道の概要】 菰野街道(こもの)は東海道の宿場町である四日市の北町から出発し、湯の山温泉へ向う途中の城下町・菰野まで約13kmの短い街道である。慶長5年(1600年)菰野城に土方氏が入城し、城下町を造ると四日市宿との往来が頻繁となり、また菰野藩主の参勤交代で東海道へ出るまでの連絡道として使われた。ルートは四日市から三滝川の南岸堤防沿いに西へ進み、高角(たかつの)から支流の矢合川沿いに智積(ちしゃく)を経て菰野に至る。菰野からさらに西へ進むと湯の山温泉に行かれるので別名・湯の山街道とも呼ばれる。大名の参勤交代や物資の輸送だけでなく鈴鹿山系の麓にある湯の山温泉へ湯治、遊山の旅人も多く通った街道である。
【四日市】 出発日は平成28年9月10日で、残暑厳しいというより猛暑の中、近鉄四日市駅をスタートした。駅から数分歩くと旧東海道の道筋に入る。過去の街道歩きで四日市宿は2度、通過している。平成21年の伊勢街道(名古屋~伊勢・151km)、平成24年の東海道(京都~東京・495km)で四日市の繁華街を通る街道を歩いた。四日市市の中部西小学校の南西角に、江戸時代、北町陣屋が置かれたが、ここが東海道と菰野街道の追分であり、スタート地点である。すぐに国道1号線を横切り四日市西町郵便局を過ぎると、老舗の和菓子屋 「松生堂」 を通る。かなり古そうな店構えである。その先に西町公民館があり、隣に延命地蔵尊が立っている。ここで菰野街道歩きの道中安全を祈願した。ここから三滝川の南岸堤防道に入るが、ここが千草街道(菰野方面への別ルート)との追分で、昔は舟渡しがあった所であるが現在は明治橋が架かっている。近鉄のガードをくぐると視界が広がり、はるか前方に御在所山が望める。この堤防道は道幅が狭くて歩道も付いていないが、これでも国道477号で、かなり危険である。そのため三滝川に架かる堀木橋から野田橋までの間は、河川敷へ降りて遊歩道を歩いた。御在所山の中腹に立つロープウェイの鉄塔が遠目に見えるようになった。ここで街道写真を撮っているとジョギングしていた30歳前後と思われる若者が私の作った街道横幕を見てニヤリと笑い、手を振ってくれた。再び堤防道に戻り、久保田橋、生桑橋、新尾平橋を右手に見ながら進むが気温がグングン上昇し汗が止めども無く流れ、水分の補給が追いつかないほどであった。
【川 島】 街道は三滝台団地入口の交差点を過ぎると川島の集落に入る。街道筋には食事処が少ないと思ったので、近鉄川島駅近くのコンビニ・サークルKで昼食用のおにぎりを買う。川島の町並みは現代風の家屋ばかりであるが、狭い道幅やくねくね曲がる微妙なカーブは昔の道を連想させる。ここで街道から外れ、近鉄電車の踏切を渡って小高い丘の上に立つ川島神社を参拝する。ここでも三脚を立てて街道写真を撮っていると、神社の前を通る女子高生や車の運転手がジロジロと私を見つめていた。足の疲れは感じないが暑さと水分不足で体がだるくて呼吸が乱れがちになったため、長めの休憩を取り、次の町へ向った。
【高 角】 川島から約1.5kmで高角(たかつの)の町に入る。近鉄高角駅の北側に高角橋が架かっていたが、三滝川と矢合川が合流する地点で三角州のような地形をしている。このあたりで国道477号から離れ、田園地帯を歩く。車の往来に悩まされる事はなくなったが、樹木や家屋がまったく無く直射日光をまともに受け、さらに汗がいっぱい噴き出てくる。右手に東名阪自動車道の四日市インターを見て、その高架をくぐり矢合橋を渡る。
【智 積】 左折すると、日本名水百選で名高い智積(ちしゃく)の町へ入る。古い建物が多く、道も狭くて不規則に曲がりくねって、いかにも昔の宿場という印象を受ける。しばらく歩くと森に囲まれた椿岸神社があり参拝する。そこからすぐの所に西勝寺という日本庭園が美しい立派な寺院がある。その周囲は水路で囲まれ、透き通る綺麗な水の中で大きな鯉が泳いでいる。これが有名な 「智積養水」と呼ばれるものである。 「養水」 は 「用水」 という文字を使わず「暮らしを支え命を養う水」という意味が込められている。
智積養水の起源は正徳元年(1711年)、四日市陣屋代官の石原政利が建設したと伝わっている。江戸時代の智積村は地下水も地表水も得られなかったため、日照りが続くと旱魃に見舞われ、たいそう農民が難儀をしていた。そこで三滝川の伏流水が湧出する菰野村の神守(かもり)の蟹池から水路が曳かれた。長さ1.8 km、水量は1日あたり19トン、水温は1年を通して安定している用水である。しかし戦後、産業発展とともに、用水の汚染が進み、昭和40年代から住民による浄化運動が展開され、昔のように鯉が住める川が蘇えった。私が街道歩きで見た養水も、とても透明度が高く綺麗で大きな鯉が何匹も元気よく泳いでいた。
その後、昭和60年7月(1985年)に環境保全活動と水質の良さが認められ、環境庁の日本名水百選に選定された。地元の人々の努力に拍手を送りたい。JA四日市桜支店を過ぎ、右に左に目まぐるしく道を曲りながら智積の町外れにある地蔵堂に到着した。ここで滝のように流れた汗を拭き、やや遅めの昼食にコンビニで買ったおにぎりを食べ十分な休養を取った。食後、再び歩き始め金渓川に架かる三重橋を渡る。
【菰 野】 金渓川の北岸に沿って西へ進むと正面に御在所山が大きく見え、ロープウェイの鉄塔もクッキリと高く聳えているのが確認できた。近鉄の踏切を越すとすぐに県道140号(菰野~大安)の高架をくぐる。この道路は通称 「ミルクロード」 と呼ばれている。語源の由来は県道140号沿いに 「八風牧場」 があり、乳牛が放牧されているからと言う。三重県には、この他に松阪から多気へ向う農道を 「 ビーフロード 」 という名前を付けている。松坂牛の美味しさを強調したいのだろうか。街道は左手の山腹にあったと言われる宿野城跡を見ながら菰野町へ入ると国道477号と合流する。このあたりの国道は道幅が広く、歩道も付いているので安全に歩く事が出来る。宿野の交差点の先で街道筋の国道477号と国道306号が交差する。亀山方面からくる昔の「巡見街道」との追分であり 「西久保の辻」 と呼ばれる交差点であるが、その道標を探したが見当たらなかった。菰野の繁華街に入ると右手に大きな菰野厚生病院があり、その先の三叉路にバカデカイ石燈籠が立っている。高さが7~8mもある灯籠であるが説明文を読むと、1984年に菰野ライオンズクラブが 「友愛の灯」 として設置したもので、史跡とは無関係であった。ここで国道477号から離れて左折し狭い旧道へ入る。この通りは東町商店街と呼ばれるメインストリートであるが、残念ながら閉ざされた商店が多く、寂れた感じは否めない。途中、連子格子の古い建物に 「 油桂旅館 」 (あぶけ)の看板を見つけ、最後の街道写真を撮ったが営業している気配は無かった。そこからさらに西へ進むと菰野町役場があるが、その手前に街道の終点 「 札の辻 」 がありゴールインをした。この角に昔、問屋場(といやば)と言われる、荷物の継立てや馬と駕籠を手配する建物があったが現在は空き地となっている。ほぼ予定通りの時間に到着でき、ここから猛暑の踏破で疲労困憊を感じながら近鉄菰野駅まで歩き、帰途についた。
 

クラインガルテン天のなかがわ便り

 投稿者:石田宣安  投稿日:2017年 3月25日(土)22時23分33秒 sp49-98-157-251.msd.spmode.ne.jp
返信・引用
  中川村の「クラインガルテン天のなかがわ」で野菜を作ったり、地元の手打ち蕎麦の会で修行したり、地域の環境を考えて活動している竹の会を手伝ったり、リタイア後ライフを満喫している私です

そんな私に、昨年BS日テレから取材依頼があり、約6時間の密着取材を受け、今年1月11日に放送された番組が再放送されます

番組内容は、シニアの生き方として、田舎暮らし、移住、起業、終活がテーマ

私その中で、田舎暮らしのコーナーで、クラインガルテンを利用し、リタイア後の生活を満喫している者の代表?として出演しました

番組名は、BS日テレ「徳光和夫シニア時代を楽しく過ごそう?知っトクなっとくライフプラン」です

再放送は
4月1日(土)19時~20時54分です

良かったら視てください
《BS日テレ》ですよー

因みに、ここ中川村はふきのとうが出始め、やっと春がそこまで来てるかなという感じです
畑を耕し、本格的な農作業ができるのを心待ちしている一番良い時期です?
 

日本の街道歩き〔37〕与川街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 3月24日(金)10時56分9秒 pool-219-140.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 中山道の野尻宿(長野県木曽郡大桑村)から三留野宿(南木曽町)の区間は十二兼、柿其、金知屋を経由する木曽川左岸(流れを背にして左側を左岸、右側を右岸と言う)沿いのルートであるが、途中、牧ヶ沢や羅天付近で洪水が発生すると通行不能となる難所があった。その迂回路として内陸寄りに与川道が造られた。そのお陰で木曽川が氾濫しても旅人は先へ進む事ができた。しかし険しい峠があり、起伏が多い道には昔の旅人は難儀をしたと思う。なお、このあたりには南木曽町となる以前は読書村(よみかき)と呼ばれており、さらにその前には、与川村(よがわ)三留野村(みどの)柿其村(かきぞれ)の3つの村があり、後に合併して読書村となった。地名の由来は与川村の「よ」、三留野村の「み」、柿其村の「かき」の頭文字を取って名付けられた。
今回の街道歩きは私が所属するウォーキング倶楽部 「可児歩こう会」 の定例会ウォークで歩く事になったので、単独ではなく24名の仲間と一緒に歩いた。コースは街道と言うより登山道みたいな地形で、小川のせせらぎや小鳥のさえずりを聴き、さわやかな涼風に吹かれながら歩いた。気持ちの良い絶好のハイキングであった。
【野尻】 スタートは国道19号沿いにあるコンビニ 「デイリーヤマザキ大桑野尻店」 である。国道を右折すると、すぐに登り坂が始まる。車の通行はほとんど無く、二反田川に沿って進む。7月24日といえば真夏で一番暑い時期であったが朝から曇りがちの天候で、気温も多治見と比べればかなり低いので歩きやすかった。30分ほど歩いて最初の休憩を取るが、そのあと鬱蒼とした森の中の道に入る。しばらくすると林道と交差し再び山道に入るがさわやかな風が吹き快適な気分で歩けるのは嬉しい。途中、砂防ダムの近くを通るが、この頃から汗が止まらなくなる。
【根の上峠】 やがて舗装された林道を登ると三叉路へ出る。ここには道標があり、左は 「のぞき戸高原」 の森林公園へ行く道、右が与川道である。所どころに道標があり、どこも「中山道」という表示があり中山道のバイパスではなく本街道と錯覚する。この分岐点からさらに坂を登ると数分で峠の頂上に到着する。ここが根の上峠である。与川道の案内板がありトイレも設置してあるので休憩には好適地である。この峠付近が大桑村と南木曽町の境界となっている。これまで汗をかいて登ってきたが、この先は下り坂で楽である。深い森の中に続く狭い道は、木漏れ日が差し、時折、小川の水音が聴こえてくる。しばらく行くと左手に小さな石仏道標がひっそりと立っている。お地蔵様の両端に文字が記してある。宝暦11年(1761年)の石仏に 「右 やまみち、左 のぢり道」 と刻まれていて街道らしい史跡である。その先を歩いているとリュックザックを背負い日焼けした二人の外人カップルと出逢い、みんなで 「こんにちは」 と挨拶を交わした。
【与川】 街道は時々、山道から車道へ出て、また山道へ入るコースが繰り返される。少し開けた平地に出ると木曽川の支流である与川に並行して歩く。川のせせらぎが心地よく、のどかな田園風景に癒されながら歩くと与川に架かる 「らんかん橋」 を渡る。この付近の地名は 「らんかん」 と言う。昔、京都の姫君の行列が与川を通行する際に、欄干の付いた立派な橋を架けたことから、いつの間にか地名となったようだ。享保16年(1731年)の史料によると当時の橋の名前は 「上川橋」 であった。そこから15分くらい歩くと須合平という平坦地に出て、田圃があたり一面に広がっている。その一角に阿弥陀堂が立っており、庚申碑、馬頭観音、巡礼参拝碑、南無阿弥陀仏碑など多くの石造物があり、最も古い阿弥陀仏は元禄5年(1692年)に造られている。このお堂の前には清水が湧き出ており手を触れると水が冷たく気持ちが良い。お茶を飲んで暫らく休憩したあと出発するが再び鬱蒼とした山の中の道を歩く。そこから35分ほどで小さな東屋がある休憩所に到着する。ここはかつて松原御小休所と呼ばれる身分が高い方が休憩をとった所である。昔は見晴らしの良い所であったが今は深い森に覆われ見通しがきかない。しかし真夏の太陽の日差しを避けることができ、昼食には絶好の場所である。長時間歩いてお腹がペコペコであったので、ほうばるオニギリがとても美味しかった。腹ごしらえが済むと街道は小さな峠をいくつか越えながらアップダウンの山道を進む。しばらく山の中を歩くと与川に架かる歩行者専用橋を渡るが、水量が多くて、傾斜がある流れなので水しぶきを挙げている。この景色は青森県十和田湖にある奥入瀬渓流に似ていて、その自然美に癒される。また平坦地に出ると古い民家の前に 「与川村庄屋屋敷跡」 という案内板があり、このあたりが与川村の中心地であったようだ。その先に古びたトタン板で作られたゲートがありビックリする。どうやら野生動物の侵入を防ぐ目的で設置されているようだ。また近くにはイノシシ対策の電気柵も張ってある。さらに山道には 「熊に注意」 とか 「ヘビ、マムシに注意」 という看板が所どころに掲示してある。この近くで東洋系の外国人女性トレッカー2人と出逢い、またみんなで 「こんにちは」 と挨拶を交わす。
【三留野】 険しい山道が終り車道へ出ると与川に架かる小さな橋を渡る。このあたりが正善沢と言われる所で与川村と三留野村の境界であった所である。街道は車道と重なり日差しの暑さと疲労を感じながら歩く。所どころに中山道の道標があるが見落とすと道を間違えてしまうので注意深く見つめながら進まなければならない。小さなアップダウンを繰返しながら徐々に標高を下げて行くと小さな集落の中に 「上の原集会所」 がある。その少し先の小高い土盛りの上に嘉永7年(1854年)に建立された 「廿三夜塔」 が立っている。廿三夜塔(にじゅうさんやとう)は二十三夜の月の出を拝み豊作や幸福を祈願した祭りで遅い月の出を立って待つことから 「お立ち待ち」 ともいう。中山道には珍しいが、私が全国の街道歩きの経験から、北国街道や奥州街道に多く見られると思う。しばらくすると眼下に三留野の宿場が見えてくる。途中、右手に小さな東山神社があり、その先の中山道と与川道の合流地点を通過する。宿場の町並みを歩くと左手に三留野宿脇本陣跡、右手に三留野宿本陣跡の案内板が立っている。三留野宿は明治14年の大火で宿場のほとんどが焼失してしまい、古い家屋はほとんど残っていない。街道は数年前の南木曽大洪水現場を通過し南木曽小学校 (以前は読書小学校) を左手に見てJR南木曽駅に到着する。可児歩こう会の会員みんなが予定時刻より少し早めに無事到着できた。ここで顔や手から溢れ出た汗を拭き、冷たい飲み物で喉を潤した。少し疲れたがゴールできた満足感に浸りながら帰途についた。
 

日本の街道歩き〔36〕北国脇往還

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 3月 2日(木)20時20分54秒 pool-219-140.aitai.ne.jp
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  【街道の概要】北国脇往還は中山道の関ヶ原宿と北陸街道(通称・北国街道とも言う)の木之本宿を結ぶ街道である。街道ルートは関ケ原から北西に向い伊吹山の南麓から西麓に沿って進み琵琶湖の北東に位置する木之本へ到達する。この街道は多くの歴史舞台となっており、至る所に史跡が点在している。街道沿いには姉川古戦場、石田三成出生地、国友の鉄砲の里、浅井三姉妹の小谷城、雨森芳洲庵など見所は多い。また、この街道を利用した人物も多い。永禄11年(1568年)織田信長の妹で絶世の美女と言われた 「 お市の方 」 が岐阜から小谷城の城主、浅井長政に嫁いだ時に通った道である。また姉川合戦の折り、織田信長と徳川家康の軍勢が通過している。後に浅井家の小谷城が落城した時、お市の方と、その娘、浅井三姉妹(茶々・お初・お江)が美濃の織田家に戻った道でもある。さらに羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳合戦の時、羽柴秀吉が大垣から木之本まで13里の道を僅か5時間で数万の軍勢を移動させた。なお、経済、軍事上の利用だけでなく美濃の谷汲山華厳寺への参詣道としても多くの庶民が歩いた街道である。江戸時代に入ると近江、越前、加賀の大名が参勤交代で江戸へ向った街道でもある。官道ではないが大名行列が通る道なので宿場には本陣、脇本陣、高札場、問屋場などの施設はあるが、なぜか一里塚はまったく見掛けなかった。なお、越前へ通じる街道と言う事で別名、越前街道とも呼ばれた。
【関ヶ原】桜が散り果て、新緑の芽吹きが鮮やかな春爛漫の季節を迎え、美しい山里の景色や数多い歴史舞台となった北国脇往還を平成28年4月15日にスタートした。今回は初日だけ街道歩き仲間の川島淳二氏が同行した。中山道の関ヶ原宿脇本陣近くに十六銀行関ヶ原支店があるが、この角が中山道から分岐する北国脇往還の始点である。歩き始めてすぐの八幡神社で道中安全を祈願してJR東海道本線の高架橋を渡る。ここから慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原古戦場に入る。合戦当初、東軍(徳川方)の松平忠吉と井伊直政が陣地とした所の近くに、東首塚の史跡がある。合戦は西軍の敗北で終了し、徳川家康が西軍将兵の首実検をした所である。今では東首塚の石碑が立ち、首を洗った古井戸も残っている。そこから緩やかな坂を登ると陣場野公園があり、ここは徳川家康最後の陣地と言われた所で、現在は葵の御紋の旗がなびき、石碑が立っている。街道は国道365号の南側の細い道であるが右手に西軍の大将であった石田三成が布陣した笹尾山を見ながら進む。関ヶ原ウォーランドの近くを通って西へ歩くと伊吹山が見えてくる。北保育園の先に通行止めの看板が立っていたので先に進めるか悩んでいると、前方から年配の男性が歩いて来たので通行できるか尋ねると、歩行者は通行可能であった。その時 「 どこまで歩くんですか 」と聞かれ 「 木之本まで歩きます 」 と答えると、ビックリ顔で 「 ヒエー! 木之本まで歩くの? 遠いよー 」 と言われたが、その方にニッコリ笑ってお辞儀した。
【 玉 】街道は狭くて曲がりくねった道筋に家がまばらに建っている。その一角に奥平貞治の墓がある。関ヶ原合戦の時、東軍の貞治は徳川家康から、東軍西軍どちらにつくか迷っている小早川秀秋の監視役を命ぜられるが、大谷吉継との激しい戦闘中、松尾山の麓で戦死し、後年ここにお墓が建てられた。この付近から関ヶ原古戦場がよく見える。街道は静かで小さな集落へと入って行く。ここが玉の宿場である。車も人もほとんど見かけないが、畑仕事をしていた80歳くらいと思われる老人に 「 どこまで歩いて行くの? 」 と、また同じような質問をされ、木之本まで歩くと言うと、やはり驚きの表情をしていた。道はやがて深い森の中に入ると草が伸び放題となり、とても歩けるような道では無くなる。事前の調べでは、このあたりは通行困難だとは分かっていたが、国道へ迂回する道がなく、そのまま強引に突き進むと小さな川に突き当る。しかし橋が架かっていないのでこれ以上先には進めない。右側の高い斜面の上に国道が通っているが道が無く、草ボウボウの急な斜面を登るしかないと判断する。あまりにも草深い斜面で蛇かマムシが出るのではないかと少しビビって登ると藤川交差点近くの国道へ這い上がれた。ホッと一息し、お茶を飲んでしばし休憩する。
【藤川】 国道を少し歩くと右ななめの坂道を登る分岐に差し掛かる。やや急な坂を登ると藤川の宿場に入る。この宿場も小さく先ほどの玉宿と1.6kmしか離れていない。両方合せて一つの宿場機能を果たしていた。宿場の中心には本陣の林家があるが、建物は大正時代に再建されたものである。その近くに智通寺があり隣に脇本陣の林家の土蔵が建っている。建物は江戸時代に建てられ重厚で格式高い彫り物が施してある白壁の蔵である。このあたりは家が立ち並んでいるが、少し先に唯仏寺があり、その手前に藤原定家の寓居跡がある。ここから街道の道幅は広くなり車もたまに見かける。しかし所どころに 「 熊出没に注意 」 という看板を見かける。一見して熊なぞ出そうもないようだが、熊かイノシシ用の罠が仕掛けてあるので少し気味が悪い。藤古川を渡り寺林の集落に入るが、途中で道を間違えた事に気付く。街道に戻るが小さな集落の中に八阪神社の森が目立つくらいで、あたりは田園風景である。街道は通行量の多い県道531号と重なり大型トラックが頻繁に走っていた。右手には伊吹山が近くに見え、街道沿いに満開のしだれ桜が咲いており、しばし心が癒される。
【春照】弥高大橋の手前を左折して下流の橋を渡ると野頭茶所跡(のがしら)の前に出る。ここは松尾芭蕉も通った所で 「 頭巾召せ 寒むや伊吹の 山おろし 」 の句碑が立っている。まもなく春照(すいじょう)の宿場に入る。春照宿は長浜への交通路の中継点で本陣1軒、脇本陣2軒をはじめ多くの旅籠が軒を連ね、金沢、福井、鯖江、小浜などの各藩の参勤交代に利用された宿場である。宿場の中にはひときわ立派な常夜灯がある。この場所は明治16年から22年まで関ケ原から長浜まで軽便鉄道が敷設されていた時、春照駅が設置された場所である。宿場の外れに格式高い春照八幡神社があり、ちょうど昼時となったので、ここで昼の弁当を食べて休憩する。八幡神社は天智天皇7年(668年)の時に社殿が建てられ、1300年以上の歴史がある。元亀元年(1570年)姉川合戦の時、織田信長と徳川家康が戦勝祈願し、勝利を収めたあと、銭を寄進したと言われる。また天正11年(1583年)、羽柴秀吉は賤ヶ岳合戦の折り、大垣から木之本へ駆け抜ける時、村民に糧食を提供するよう命令し、この神社にその報酬として多額の黄金を寄進したと言われる。昼食の後は郊外へ出て進むと、小田神社の角に古い石道標がある。「 右・江戸道、左・山中道 」 と記してある。この山中とは関ヶ原の近くの地名である。そのすぐ傍に小田分水がある。出雲井川の豊かな水量を三つに分水する農業用施設である。ここから暫らく田圃の中を歩くが、雄大な伊吹山が大きく見えた。姉川に架かる井之口橋を渡る時、なんと橋の全幅にイノシシ対策の高圧電線が敷設してあるので通行できない。足が短い私にとっては簡単に跨ぐ事ができない。体に触れれば感電する危険があり、緊張しながら飛び越えた。公道を通行止めと言わんばかりの高圧線を張るとは何事だと怒り心頭になった。その先の街道は県道と合流するが、まもなく山深い森の中の旧道を進む。小さな川を渡る時、1本の大きな満開の桜に出逢い、しばしウットリ眺める。しかし深い森はまだ続く。ここでも 「 熊出没に注意 」 の看板があるので少々ビビる。
【今庄】深い森の小道をやっと抜けると青空が見えてきて今荘観光ブドウ園に着く。広大なブドウ園には獣から農園を守るための柵や金網がビッシリ張り巡らしてある。天津神社の参道を右手に見ながら歩いていると、参道に桜並木が続いているが、残念ながら葉桜に変わり果てていた。このあたりから今荘の宿場に入り、轟神社、佐野の地蔵群を通過する。今荘は小さな宿場ですぐに郊外の田園地帯に出る。今荘の集落の南側に姉川が流れているが、このあたり一帯が元亀元年(1570年)に戦われた姉川合戦の古戦場である。北国街道から少し外れ、田圃の中を10分ほど歩くと姉川の堤防に出る。現在の野村橋付近の姉川は川幅が狭く、20mにも満たない。テレビドラマの戦闘場面では川幅100mくらいで描かれているが、実際に現地を見ると小川といった感じである。この姉川を挟んで織田信長・徳川家康の連合軍29,000人と、浅井長政・朝倉景健の連合軍18,000人が激しく戦った古戦場であるが、日本史の教科書にも登場する。今では石碑や解説板があるだけで戦場のイメージは全くない。その後、本来の街道へ戻ると、野村の集落の曲り角に北国脇往還の古い石道標があり 「 右・北国道、左・江戸,谷汲 」 と記してある。 ここから国道365号を横断し、浅井(あざい)を目指して田園の中を歩く。
【浅井】田園を抜け浅井消防署前を通り、草野川を渡ると浅井の街並みに入る。現在は長浜市に合併しているが以前は滋賀県東浅井郡浅井町で、街道の左手に元浅井町役場、現在の長浜市浅井支所がある。国道365号に沿って北西方面へ歩くと八島で国道から分れ、細い旧道に入る。曲がりくねった道を歩くと道標を頻繁に見かけ助かる。そのひとつの道標には 「 東・関ケ原五里、西・木之本みち 」 と記してある。初日の街道歩きはここで終了し、内保(うちぼ)から五村東までバスに乗り、JR虎姫駅から電車で帰宅する。翌日は虎姫駅から五村東まで歩く途中、有名な本願寺五村別院を参拝してからバスに乗る。2日目は八島の道標から歩き始め、まもなく郊外へ出ると田圃の中に亀塚古墳を見つける。今から1300年前の古墳時代に築造された円墳で周囲は102mある。この墓は近江朝廷の右大臣、中臣蓮金と伝えられる。蓮金は672年の壬申の乱において近江方の軍勢を率いて奮戦したが瀬田川の戦いで敗れ近江国浅井の田根で斬首された。ここからすぐの所に尊勝寺の集落があり、古い町並みが残っている。
【伊部】ここから街道は田園地帯に入るが、平成になって土地の区画整理が行なわれたため、所どころ道が消滅してしまい、最も近い道を選んで歩く事になる。田圃が広がる景色はのどかで新緑の樹木が美しく見える。ついつい鼻歌が出てきて街道歩きの気分を満喫させてくれる。慶徳寺、蓮光寺、山之前公会堂を過ぎると伊部の宿場に入る。田園の中の宿場で、まったく人の気配がなく寂しい町並みである。昔は本陣、問屋場のほかに旅籠が13軒あったと言うが、想像する事は難しい。宿場の中心に、古屋真神社、了因寺、本陣跡があるが、すぐに郊外へ出る。北の方角に小谷山、南の方角に虎御前山が見え、また田園を歩く。
【小谷】国道365号と県道265号が交わる所が郡上南の交差点であるが、ここから山の中腹に 「 史跡小谷城跡 」 の大きな看板が見える。そこから西へ少し進むと水田の中に 「 城下町大谷市場跡 」 という石碑が立っている。水車が回り、のどかな田園風景が広がるが、このあたりが小谷(おだに)の城下町の中心であった所である。その先の郡上の集落に進むと 「 小谷城跡清水谷武家屋敷群 」 の解説絵図が掲示してある。ここから山の手方面へ向うと小谷城の大手門がある。小谷城は織田信長の妹、お市の方が浅井長政に嫁いだお城である。その頃は織田家と浅井家は同盟を結んで協力体制にあったが、信長が朝倉家を攻撃すると同盟が敗れ、敵対関係に変る。それ以後、織田・浅井の戦いが続くが、羽柴秀吉の軍功により浅井家は滅亡に追いやられ、お市の方と娘の浅井三姉妹は岐阜へ戻される事になる。ここには小谷城戦国歴史資料館があるが、時間がないため通過して一路、北へ向う。田圃の中にある小谷小学校を通る頃、正午を過ぎたので旧道と国道365号が交差する二俣交差点付近の空き地で、あらかじめ多治見のセブンイレブンで購入した弁当を食べる。 街道は山田川に架かる本堂橋を渡るが、河川敷一面に、芝桜が咲き乱れ、その景色に疲れた身も心も癒される。
【雨森】街道は馬上(まけ)の集落を抜け、高時川に架かる長い阿弥陀橋を渡る。すぐに右折して高時川の右岸を北上するが、1km以上に亘って桜並木が続く。桜はほとんど散り、わずかに時々、花びらがヒラヒラと宙に舞っていた。満開時に歩けばどれほど圧巻なのかと連想しながら歩くと、土手道を自転車に乗る数人の小学生が通り 「 こんにちは 」 と元気よく挨拶してくれる。また徒歩の女子中学生もすれ違う時に挨拶をしてくれ、こちらも笑顔で挨拶に応える。高時川の河川敷にはゲートボールの芝生広場があり、お年寄りがゲームに興じていた。しばらく進むと高時川の堤防からそれて雨森(あめのもり)の集落に入る。道が複雑に入り組んでいて道に迷うが、小さな子供の手を引くお母さんに道を尋ねると分かり易く教えてくれた。荘厳な天川命神社を参拝したあと雨森芳洲庵へ向う。雨森芳洲は寛文8年(1668年)近江国伊香郡雨森郷で医者の子供として生れ、18歳の時、学問を志して江戸へ行き、木下順庵の門下に入る。同じ門下生の新井白石と肩を並べ高弟5人の中に数えられる。芳洲が22歳の時、師の順庵の推挙で九州対馬藩に仕え、朝鮮方佐役という外交官の役職について活躍する。朝鮮語をマスターしただけでなく中国語も習得し、鎖国の中にあって朝鮮や中国との外交に尽力した人物で88歳の天寿を全うするが、鎖国体制にあって国際交流に果たした功績が大きく、現在でも地元の人達に尊敬されている。街道は雨森の宿善寺、日吉神社を過ぎると郊外に出て次の木之本へ向う。
【木之本】街道は等波神社の前を通り、田部のあたりから木之本の宿場に入る。久しぶりに商店街が続く街並みを見る。古い民家や寺社も多く宿場町の雰囲気が漂う。弘法水跡を見て西の方へ歩くと、北国街道(北陸街道の通称)と合流する。街の中の電柱や照明灯などに 「 北国街道 」 という表示が沢山ある。正式名称の北陸街道は中山道の鳥居本(彦根)から近江、越前、加賀、越中を経て越後の高田で北国街道(軽井沢~出雲崎)と交わる街道である。北国脇往還との合流点には石碑と案内板があるが、あまり目立たないので気付かない人が多い。そこから緩やかな坂道を登ると木之本地蔵院に着く。その角に 「 木之本・札の辻 」 の道標があり、今回の街道歩きのゴール地点に到達した。この日は快晴で気温も高く、タオルで汗を拭きながら歩いたので喉がよく乾き、水分をたくさん補給したので少し疲れた。札の辻からJR木之本駅までは10分ほどで着いたが、1時間に1本しかない電車がタイミングよく来たので、待ち時間なしで乗車でき、多治見への帰途についた。
 

日本の街道歩き〔35〕岩倉街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 2月26日(日)15時18分0秒 pool-219-140.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 岩倉街道は美濃街道(垂井~熱田、58km)が通る枇杷島橋から分岐し、下小田井、九之坪、岩倉、小折、安良、力長を経由して犬山の城下町まで約26kmの街道である。ルートは概ね現在の名鉄犬山線に沿っている。街道の原形は戦国時代に織田信長が命じて開設され、当時は街道の両脇に柳の木が植えられたので別名 「柳街道」 とも呼ばれる。街道筋には所どころ柳街道の道標や解説板もあり、昔の状況が少し分かる。江戸時代初め、慶長5年(1610年)、尾張徳川家が清洲から名古屋へ移り、名古屋が食料の大消費地となったので、現在の清須市西枇杷島町下小田井に青物市場が設置された。尾張北部の丹羽郡や葉栗郡あたりの米や野菜を下小田井の市場へ運ぶため尾張藩が街道を整備した。それに伴い味噌、油、日用品、雑貨などの商いも盛んとなり街道筋には多くの商家が立ち並んだ。岩倉街道は枇杷島から北へ伸び、名鉄犬山口駅付近で稲置街道(いなぎ)と合流し、犬山城下町に入るが、岩倉街道の道幅は2間2尺(約4m)と定められ、後に拡幅された車道を除き、旧道を歩くと現在でも、この道幅である。今回の街道歩きは桜の満開に合せて歩く計画を立てていたので、毎日、テレビニュースや新聞記事を見ながら満開を待ち焦がれ、天気予報も考慮して4月2日に決行した。
【枇杷島】 出発日は前日の雨も上がり暖かい日となった。枇杷島橋は江戸時代から架けられており、橋のたもとの橋詰神社がスタート地点である。境内の桜は満開で街道歩きの出発を祝福してくれる。そこから東へ30mほどの所に美濃街道の道標がある。昔の橋の位置は現在より少し上流に架かっていた。ここには文政10年(1827年)に造られた石道標が移設されている。慶長年間に徳川家康の命で庄屋の市兵衛と九左衛門の二人によって枇杷島に青物市場が開かれ、その後、規模が大きくなり、江戸の千住、大坂の天満、と並び日本三大市場として昭和30年まで尾張の流通経済の中心地として栄えた。その後、昭和58年に豊山町の北部市場へ移転し、現在は往時を偲ぶ事ができない。下小田井から中小田井界隈は昔風の連子格子の家並みが残っており、街道歩きの情緒が堪能できる。名古屋市は中小田井を町並み保存地区に指定し、「歴史のみち整備事業」に力を注いでいる。街道は右手に庄内緑地を見ながら城北線と東名阪自動車道の高架をくぐり、大木曽から平田橋を渡るが、気温が上昇し上着を脱いでリュックザックにしまう。
【西春】 名鉄犬山線を右手に見ながら街道は北名古屋市へ入る。まもなく左手に小さな高畑神明神社があり、満開の桜並木にウットリする。九之坪の細い道を抜けると名鉄西春駅に到着する。駅前広場のベンチで元勤め先の同期社員であった師勝町在住の長瀬稔氏が出迎えてくれた。出発する2日前に連絡を取り合って、ここで合流する約束をしていた。彼は自宅がある能田から西春駅まで歩き私の到着を待っていてくれた。そして隣の岩倉まで4kmほどの街道を一緒に歩く事にした。西春駅前に「北名古屋市制施行10周年」のアーチが立っており、ここで恒例の街道写真を撮ってもらった。西春駅から街道は北へ向ってほぼ一直線に続くが、古い街道は曲がりくねるのが普通であるので、大変珍しい。途中、同行の長瀬氏から師勝や西春の古い話や子供の頃の話を聞きながら遊山気分で歩く。やがて名鉄徳重名古屋芸大駅を通過し五条川に架かる生田橋を渡って岩倉市に入る。
【岩倉】 生田橋から東の方を見ると五条川沿いに桜並木が続き、華やかな気分になる。大山寺駅付近に中部電力の大きな変電所があり、曽野町の名鉄踏切を渡って、しばらく行くと岩倉街道から外れ五条川へ向う。途中、智重神社を右手に見ながら細い道を進むと五条川のほとりに出る。ドンピシャリ満開の桜の下を花見客が大勢歩いている。大市場橋から五条川の上流を見ても下流を見ても両岸から伸びた桜の木が川の上で交わり桜トンネルができて圧巻である。ここでも恒例の街道写真を撮り、川沿いの桜並木を満喫する。城跡橋を左折して2分ほどで岩倉城跡に着く。岩倉城は文明11年(1479年)織田敏広が築城し、尾張上四郡(丹羽郡、葉栗郡、中島郡、春日井郡)を支配し、尾張下四郡(愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡)を支配する清洲城の織田敏定に武威を誇示していた。堀は二重であり堅固な城郭であったが、永禄元年(1558年)織田信長に攻められ落城した。この岩倉城跡で同行していた長瀬氏と別れ、彼は徒歩で自宅へ帰って行った。そのあと私は五条川沿いに、彦田橋、一豊橋、真光寺橋まで歩き、昼食を取るため岩倉桜まつりの 「お祭り広場」 へ行ったが、身動きできないほどの混雑ぶりで、どこも長い行列ができていた。やむなく岩倉駅へ向い、食堂を探すが、どこも長蛇の行列で昼ごはんにありつけない。しかたなく岩倉駅前のセブンイレブンで幕の内弁当を買い、地べたに座って食べた。食後、街道に戻り、神明太一宮、光昭寺、松栄寺を過ぎ桝形の道を進むと岩倉神社に何百人もの人が集まり、岩倉まつりの山車が勢揃いしていた。街道はさらに北へと続き、石仏駅と名神高速道路の高架を過ぎると、やがて江南市に入る。
【布袋】 街道は小折へ近づく頃、畑で農作業をしていた私と同年代と思われる年配男性に声を掛けられ「どこか歩いているの?」と尋ねられ、「西枇杷島から犬山まで岩倉街道を歩いています」と答えると、「このあたりは史跡が多い所だから時間があったら見学して行ったらええ」と言って織田信長の歴史書とも言える「武功夜話」の講義が始まった。私も事前調査で知識は付けてきたが、すごく詳しい歴史の解説が延々と続いた。興味津津で聞いていたが時間が長くなり、腕時計を見る仕草をしたら、「えらい話が長くなってしまったわ。気を付けて歩きゃー」と言って見送ってくれた。小折の交差点から北西に少し行った所に生駒屋敷跡があり見学した。現在の布袋東保育園が昔、小折城と生駒屋敷があった所である。生駒家宗の娘、吉乃(きつの)の方は、その美貌に織田信長がぞっこん惚れて、逢瀬を楽しんだ。後に吉乃は信長の室になり、信忠、信雄、五徳(徳川家康の長男・信康に嫁ぐ)を生み、織田家と強い繋がりを持つようになる。また、後に天下人となる豊臣秀吉が木下藤吉郎と言われていた頃、この吉乃の取り成しで信長の下僕に拾い上げられ、この生駒屋敷で奉公している。その時、藤吉郎は蜂須賀小六と出逢う。この近くに吉乃ゆかりの久昌寺や龍神社が今でも残っている。そこから暫らく行くと南山町の近くに富士塚があり見学する。富士塚は5世紀末の前方後円墳であるが、天正12年(1584年)小牧長久手合戦の時、徳川家康が生駒屋敷を訪れ、織田信雄と一緒に富士塚に登り豊臣秀吉の陣形を見渡した場所である。私も登ってみたが周りに家が立ち並び遠くまで見えなかった。その先の力長から少し街道を外れると前野家屋敷跡がある。ここは岩倉城主の織田伊勢守の家老であった前野家の屋敷で、蜂須賀家とも姻戚関係を持つ。また、信長、秀吉とも深い関係があった。昭和34年の伊勢湾台風で屋敷の土蔵が壊れ「武功夜話」の文書類が発見され歴史書が書き換えられた大発見があった事は有名である。さらに、ここから北西方面に安井氏が居城とした宮後城跡があり、その近くに蜂須賀家の屋敷跡がある。蜂須賀小六は母が安井氏の娘であったので若い頃、母の実家に一時、住んでいた事がある。小六はその手腕を活かし、木曽川の川並衆を支配していた。その屋敷跡は、現在、空き地となり草が生い茂っているが、詳細な説明文が掲示してある。また、戦国時代の武将、浅野長政は安井家で生れたが、後に叔父の浅野又右衛門の養子となり、ねね(秀吉の正室)の妹の「やや」を妻とし、豊臣秀吉の家臣となって大名にまで出世する。ちなみに忠臣蔵で有名な、江戸城・松の廊下で吉良上野介に斬りつけた播州赤穂藩5万石の城主、浅野長矩は、その浅野家の分家である。
【扶桑】 街道はやがて名鉄柏森駅の踏切を渡るが、その手前にオークマの大きな工場が建っている。そのオークマの敷地内に満開の桜並木があり、土曜日の午後とあって従業員が桜の木の下にゴザを敷いて花見酒を飲んでいた。少し羨ましかった。柏森駅の近くに格式高そうな柏森神社があり参拝した。この神社は明治41年に白山神社と大明神社が合祀された神社で歴史は浅いが社殿は風格があった。その近くに 「札の辻」 道標があり 「右・犬山道、左・うちつこまき道」 と記してある。この付近を歩いていると 「柳街道」 の道標や説明文が多くある。今はまったく柳の並木はないので想像するしかない。扶桑中学校の近くに船塚古墳があるが、探しても見当たらず諦めて先へ急いだ。伊勢帰の先の木津用水駅を過ぎるとまもなく犬山市に入る。
【犬山】 木津川に架かる上野橋を渡り右折すると狭い旧道に入る。街道は微妙に曲がりくねり街道らしい道が続く。しばらく行くと見逃してしまいそうな小さな道標があり 「右・岩倉、左・小折道」 と読める。狭い道を通り抜けると名鉄犬山口駅付近で稲置街道(いなぎ)と合流する。稲置街道は名古屋城から味鋺、春日井、小牧、楽田、羽黒を経由してここで岩倉街道と交わる。この先は犬山の城下町に入るが桜が満開。花見の観光客で大変混雑していたので犬山城まで30分も要した。犬山城は現存12天守閣の一つで国宝に指定されている。犬山城は織田信長の叔父、織田信康が天文6年(1537年)に築城するが目まぐるしく城主が替る。永禄8年(1565年)に犬山城主の織田信清と清洲の信長が戦をして落城する。その後、天正12年(1584年)小牧長久手合戦の時、徳川方の城であったが豊臣方の池田恒興に攻撃され落城している。徳川家康が天下を取ると成瀬正成が城主となり幕末まで続く。明治24年の濃尾大地震で天守が半壊するが修理を条件に旧藩主の成瀬家に譲与され、平成16年まで全国唯一の個人所有の城であった。私は犬山城の入場料550円を払って入城するが外人観光客も多く、天守閣見学の待ち時間が1時間もあったので断念し、満開の桜とお城をバックに最後の街道写真だけを撮り岩倉街道のゴールとした。
 

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