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Re: 旧き愛車紹介

 投稿者:Y.Matsumoto  投稿日:2017年10月20日(金)21時36分50秒 153-153-159-19-revip-default.159.153.153.in-addr.arpa
返信・引用
  > No.93[元記事へ]

> 試験投稿です
> よろしくお願いいたします。

労組のY.Matsumotoです。
試験投稿とのことですが、素晴らしいクルマですね。
ナンバーが見えていますが大丈夫でしょうか。
 
 

旧き愛車紹介

 投稿者:鈴木 豊  投稿日:2017年 8月31日(木)21時52分30秒 p1341175-ipngn201004tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
返信・引用
  試験投稿です
よろしくお願いいたします。
 

日本の街道歩き〔48〕郡上街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 8月11日(金)20時57分43秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 郡上街道は中山道の加納宿(岐阜市)から北上し、岐阜市、関市、美濃市を経て郡上市白鳥町の石徹白(いとしろ)までの街道である。さらに九頭竜川の上流である石徹白川沿いに越前の大野へとつながっているので越前街道とも呼ばれる。街道の道筋はおおむね長良川に沿っており、国道156号の旧道とも重なり、山間や田園の中を歩く風情ある街道である。石徹白は白山の麓にあり、昔は白山信仰の旅人や修験者が多く歩いた街道でもある。
【岐 阜】 出発は五月晴れの平成29年4月28日。JR岐阜駅で下車すると私と同じような年代の外国人9人がリュックザックを背負いトレッキングシューズを履いて同じ方向へ歩き出した。まさか街道歩きかなと思ったが北の方角へ向った。金崋山にでも登るのだろうか。私は岐阜駅の南方面へ歩き中山道の加納宿を目指した。ここは江戸時代に加納の城下町でもあった所で、中山道、御鮨街道、郡上街道が交わる地点である。岐阜市のお城と言えば金華山の岐阜城が有名であるが、岐阜城は慶長6年(1601年)に廃城となり、その代りとして慶長7年に徳川家康の命令で加納城が造られ奥平家が10万石の大名として入城する。その後、戸田家、安藤家、永井家、が移封し明治維新を迎える。その後、岐阜師範学校、加納尋常小学校、陸軍第51航空師団司令部、自衛隊基地と移り変わり昭和58年に加納城公園となった。現在ではお城の石垣と堀の一部がわずかに残るだけである。その近くには中山道沿いに加納天満宮が鎮座している。菅原道真を主祭神とした格式高いお社で、私は以前歩いた中山道、御鮨街道の時も参拝している。郡上街道は加納南広江町で中山道から分岐するが、しばらくは御鮨街道と重複している。名鉄の踏切を渡り溝旗神社で道中安全の祈願をして北へ向う。金園町で街道は右折するが近くの橿森神社(かしもり)へ立寄り参拝する。永禄10年(1567年)織田信長が美濃国を攻略し支配権を握ると楽市楽座をこの地に開き、橿森神社の神木である榎に市神を祀ったという。そのあと寺町の瑞龍寺にも立寄る。美濃国守護代として実権を握っていた斎藤妙椿が、応仁2年(1468年)守護職の土岐成頼の菩提寺として建立した寺である。現在は臨済宗妙心寺派の寺院で座禅修行の専門道場である。そこから東の方へ少し行くと梅林公園がある。明治5年に篠田祐助が私費で建設した梅園で約50種類の梅の木が1300本以上も植えられ毎年3月に梅まつりが開催される。私は昭和51年2月にこの梅林公園で雨の降る中、傘を差して妻にプロポーズした記念の場所である。41年前を偲んで通過した。街道は金園公園を過ぎ北一色まで来ると三叉路に 「 信州善光寺道 」 の石道標が立っていた。文字が読みづらかったが、これから進む地名 「 右  関、上有知 」 が記してあった。
【芥 見】 街道は岐阜市の郊外へ出ると琴塚古墳がある付近で旧名鉄美濃町線の廃線跡が残っていた。明治44年に美濃電機軌道会社が建設した鉄道で岐阜市の徹明町駅から美濃市の美濃町駅までの25kmを結んでいたが、平成11年に美濃町~関が部分廃止され、さらに平成17年に全線が廃止された。その廃線跡はレールが撤去され駅名は分らないが小さなプラットホームやレールポイント器が保存されていた。あたりは草ボウボウで立入禁止である。街道は右手に東海学院大学を見ながら日野坂へ差掛る。すると地図を片手にリュックザックを背負った青年が早足で私を追い抜いて見る見るうちに視界から消えた。春休みの大学生かなと思ったが、その体力やエネルギーが私より格段と優れているのをみて羨ましく思った。でも同年代では健脚だよと自分を奮いたたせ歩き続けた。小さな池を2つほど過ぎ、さらに登り坂が続き汗が止まらない。ここは名鉄美濃町線が並行して走っていた所である。登り坂はゆるやかだが長く続き岩田坂と呼ばれる。前方に小高い清水山が見えてくると、街道は国道156号から分れ芥見(あくたみ)の狭い旧道へ入る。古い町並みがあり、その一角に古そうな石道標を見つけたが大正4年の銘が記してあった。芥見小学校の近くにある芥見八幡神社を参拝し、ここで昼食休憩を取る。この八幡神社にはもうひとつ日吉神社も建っている。いずれも桃山時代の建築様式で岐阜県指定重要文化財である。その後、上芥見付近で左手に大きな藍川橋が見えてきた。この橋の上流で津保川が長良川に合流している。
【 関 】 津保川の支流である相谷川に架かる相谷橋を渡るが、ここが岐阜市と関市の市境である。まもなく津保川に架かる桜橋を渡るが川岸に桜並木が続いている。満開ならばさぞかし美しい景色かなと思いながら小屋名を目指す。小屋名の東の方角に岐阜県百年公園があり、街道から少し外れて津保川に架かる百年橋まで寄り道する。百年公園は昭和46年に岐阜県の置県100周年記念事業として計画され、昭和50年に開設された広さ100haの里山公園である。公園内には岐阜県博物館があり、ほかにも芝生広場、トリム広場、子供広場、サイクリングロードもあり、菖蒲と紅葉の名所となっている。私が若い頃、幼い子供達を連れてよく遊びに来た公園である。なお、関市は平成22年の国勢調査により、総務省統計局が 「 我が国の人口重心の地 」 と発表し 「 日本のまん真ん中 」 に位置している。街道は再び国道156号と重なり、小瀬地区の瀬尻小学校から下校する小学生と挨拶を交しながら坂道を登り汗をかく。ここ小瀬の長良川の風物詩 「 小瀬鵜飼 」は有名である。岐阜市の長良川鵜飼と同じく、皇室御用で鵜匠は宮内庁式部職鵜匠と言う役職である。毎年5月11日から10月15日まで鵜飼が行なわれるが仲秋の名月だけはお休みとなる。その理由は満月の月明かりのため、篝火に鮎が集まりにくいとのことである。
【下 有 知】 街道は関市の市街地に入らず、長良川と東海北陸自動車道と並行して北へ進む。このあたりも国道156号と重なっている。下有知の椙ヶ洞に 「 刀匠の里 」 があるが時間がなく見学は見合わせた。その先に立派な下有知神社があり、右手に長良川鉄道、左手に東海北陸自動車道を見ながら進むと長良川SAの近くに下有知小学校がある。最近はどこでも小学校、中学校は許可が無いと門の中に入る事ができない。小学校の校庭に郡上街道に関わるものがないか探そうと思ったが、外からでは良く分らず、校門付近で写真を撮っただけであった。下有知中学校の近くに東海北陸自動車道と東海環状自動車道が交差する大きな美濃関JCTがあり、その高架をくぐって美濃市へ入る。
【美濃市】 美濃市へ入り、中有知から松森を通り美濃市駅へ向うが、地図に無い新しい道ができて少し悩んだが美濃中学校を目標物に市街地へ入る。長良川鉄道の美濃市駅から北西へ200mほどの所に旧名鉄美濃町駅が保存されている。現在の駅舎は大正12年に建設されたもので、当時の改札口、プラットホーム、電車3両が大切に保存されている。古い美濃橋とともに大正時代の貴重な近代遺産である。そこから美濃市の中心地へ入るが平日のため観光客が非常に少なく、写真を撮るには都合が良かった。ここの通りは 「 うだつの上がる町並み 」 として有名で、その歴史的景観は重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。この町並みは江戸時代の初め、領主の金森長近が慶長11年(1606年)、小倉山城を築城した時、造られた。 「 うだつ 」 は防火壁の屋根で裕福な商家でないと上げられなかった。現在でも今井家、小坂家、山田家、加藤家、平田家、大石家など多くの 「 うだつ 」 が保存されている。なお、江戸時代は上有知(こうづち)という地名であった。明治44年に美濃紙にちなんで美濃町と改名した。郊外の武儀高校の隣に長良川鉄道の梅山駅があり、ここで初日の街道歩きを終了して帰宅した。2日目はここまで電車で来て再スタートする。美濃小学校前で緩やかな登り坂となるが、道が良く分らず犬の散歩をしていた老婆が、私が悩んでいる様子を察知し 「 どこへ行きたいの? 」 と声をかけてくれた。街道の道筋を尋ねたら丁寧に教えてくれた。そして美濃消防署方面へ行く乙女坂を下るが、中途半端な勾配ではない。下り坂だから良いが、反対方向だとチョッとした難所になる。道の駅 「 美濃にわか茶屋 」 から狭い旧道が続く曽代地区を進むと、国道と合流する手前で 「 みちくさ館 」 という食堂の裏手で水車が回っていた。いかにも田舎風の風情があり、すかさず街道写真を撮った。その先を歩くと標高437mの古城山が見える。東海北陸自動車道の長い古城山トンネルが山の下を通っている。保木脇の近くの 「 湯の洞温泉口駅 」 を過ぎ高速の高架をくぐると、街道は国道156号から離れる。ここから長良川は大きく蛇行するが、街道も川沿いに大きく曲りくねる。本来の郡上街道は新部公民館付近から山の中に入り地蔵坂峠を越えるが、現在は樹木や雑草が生い茂り道が不明なため歩く事ができない。国道、高速道路、長良川鉄道はいずれもトンネルをくぐる。長良川沿いの迂回路は保木坂八幡神社、佐ヶ坂公民館を通って洲原へ大回りするルートとなる。狭い道路で家はなく車も人も通らず寂しい道で熊の出没を警戒した。長良川では釣り人が渓流釣りを楽しんでいた。森の中からはウグイスの鳴き声が聞こえてきて、のどかな田舎道が続く。上河和から再び長良川は大きく蛇行するので、再び国道や鉄道から遠ざかり孤独な街道歩きとなる。このあたりの長良川は透き通るようなエメラルドグリーン色で、さすが清流と言われるだけある。また奇岩が続き、急流ではラフティングボートを楽しんでいる若者達がいた。寂しい道ではヘルメットをかぶったサイクリングのツーリストとすれ違う。街道はやがて長良川鉄道の母野駅(はんの)付近で、美濃市から郡上市へと入る。
【八 坂】 郡上街道は国道156号とは川を隔てた長良川左岸の細い道である。このあたりの東海北陸自動車道はトンネルが続き高架橋は見えない。道端に小さな馬頭観音があり田圃ではカエルの鳴き声がする。長良川は急流で白い波しぶきをあげ、そこへ小さなラフティングボートが波に飲み込まれ転覆するが、すぐに立て直し必死でオールを漕ぐ姿が意地らしく映る。街道はやがて山合いから平地へと出る。対岸に長良川鉄道の八坂駅があり、鉄道の鉄橋と県道324号に架かる勝原橋のコントラストが絵になる。黒地バス停の先に御猟場と呼ばれる史跡があるが説明文がないので良く分らないが殿様が狩りをした所であろうか。街道筋の子安神社で孫の健康と成長を祈願して北へ向う。母野(はんの)と木尾(こんの)の間に長良川の崖っぷちを通る街道ルートがあったが道路の開削工事で消滅してしまっている。また、湯屋坂、恵比寿坂という小さな峠も現在は通行できない。
【美 並】 田圃が広がる景色に変り、しばらくすると 「 川の駅373 」 (373はミナミと発音)に到着する。すると駐車場の車から降りた一人の老人に話し掛けられた。 「 先ほどリュックを背負って歩いていた方ですね。どこかへ歩いてみえますか 」 と尋ねられ 「 岐阜を出発し郡上街道を石徹白に向って歩いています 」 と応えると 「 それは感心なことですね。私がもう少し若かったらやってみたいと思います 」 と言われ、しばらく会話が続いた。その隣に長良川鉄道の 「 みなみ子宝温泉駅 」 があり、プラットホームから直接、温泉に入る玄関がある。ここで昼時となり駅のベンチでおにぎりを食べ始めると、40歳台のタバコを吸っている男性に話し掛けられた。言葉使いから関西の方言と分り 「 どこか山登りしてはりますか 」 と聞かれ、先ほどと同じように応えると街道歩きってどのようなものかと次から次へと質問を浴びせられ一つ一つ説明した。その人は大阪から車で高速を使わずにここまでやって来たと言う。そして 「 私、山登りが好きやねん。今回は連休を利用して御岳山と白山に登りまっせ 」 と健脚を自慢している様子だった。私が昼食を終えるまで話が続き、身支度して歩き出すまでフレンドリーに会話が続き 「 ではまたどこかで逢おうな~、気~つけてな~ 」 と見送ってくれた。これまで、多くの人との出逢いがあったが20~30分も会話が続いたのは初めてであった。再び田園の中を歩き新吉田橋を左手に見ながら大矢駅を通過する。しばらく歩くと群南中学校が見え、街道は登り坂となる。福野峠を汗かいて登るが峠の下には長良川鉄道のトンネルがある。峠を下ると苅安の町へ入る。小さな白山神社で休憩したあと、町の中心街に入ると郡上市役所美並庁舎がある。合併前の美並町役場である。その先の美並苅安駅を通り郊外へ出て、小さな峠を越えるとコンビニ 「 デイリーヤマザキ 」 を見つけた。暑さで汗だくになっていたので冷たいアイスキャンディを食べ、しばし休憩をした。羽佐吉という所の先に国道156号の三日市トンネルがあるが、これをくぐらず、手前を左折して山田の集落に入る。そして河和橋を渡るが幅が狭く橋の欄干が極めて低いため、高所恐怖症の私にとっては眼下に流れる長良川の波しぶきを見るのが怖かった。さらに新美並橋を渡るが大きな橋で幅の広い歩道も設置され安心して渡り、まもなく深戸駅に到着した。駅舎の中には 「 円空のふるさと美並 」 と記した仏像が置いてある。ここで2日目を終了し電車で帰宅するが、美濃太田駅で下車した時、中国人カップルの女性にたどたどしい日本語で 「 ワタシ岐阜イキマス、ドコイッタライイデスカ 」 と尋ねられたので高山本線のホームまで案内してあげた。
【相 生】 街道歩き3日目は深戸駅から出発する。この日からウォーキング仲間の井芹氏が同行する事になった。深戸駅周辺では田植に備えてトラクターが田圃の整地作業をしていた。長良川沿いに歩くと 「 深戸の桜並木 」 が続いているが、桜の木は新緑若葉でみずみずしく感じられる。このあたりではオートバイのツーリングが多く、けたたましいエンジン音をたてて走って行く。しばらくすると国道に歩道が無くなり、カーブでは突然、車が正面から来るのでヒヤヒヤしながら歩く。名津佐トンネルをくぐらず長良川沿いの旧道を歩くと美並町から八幡町に入る。再び国道と合流するが、すぐに東乙原の旧道に入り騒音や排気ガスから解放され安全に歩く事ができる。しばらくして国道と交差するが小さな展望台があったので水分補給の休憩をし長良川の清流と美しい残雪の白山を眺めた。その先の吉野トンネルをくぐるが歩道が設置され安心して歩く。国道は山と長良川に挟まれトンネルや洞門が多い。まもなく左手に法伝橋が見えて来る。この橋のたもとには 「 法伝の滝と円空 」 の説明板がある。郡上街道は平安時代から白山の信仰の道として多くの修験者が通ったが険しい山と川が押し迫った難所であった。天皇の勅使が参詣する折り、通行困難なため白山が望める名滝の祠の前で奉納の供物を役人に引渡し、都へ引返したそうである。この難所を解消するため、寛文年間(1660年頃)城主の遠藤常友は新道を造り 「 宝田 」 と名付けたが後に 「 法伝 」と漢字が改められた。この法伝橋を渡ると相生駅があるが、街道は橋を渡らず直進する。稲成地区(いなり)の幾つかの洞門をくぐりながら郡上八幡を目指すが、ゴールデンウィーク中とあって道路は車で大渋滞。歩くのと同じくらいのノロノロ運転にドライバーはイライラしている様子であった。
【郡上八幡】 やがて道路沿いに商店を多く見かけるようになり郡上八幡駅に到着する。中日新聞の4月29日の朝刊に 「 郡上八幡駅改修完了 」 の記事が掲載されたので興味深く見物した。駅舎は旧国鉄越美南線の駅として昭和4年(1929年)に建てられた木造平屋建てであるが、老朽化が進み今回開業当時の姿に復元改修された。新聞に掲載されたとあって、駅前では多くの観光客が写真を撮っていた。この駅舎は現在、登録有形文化財に指定された貴重な歴史遺産である。なお、郡上八幡駅構内に臨時の観光案内所があり地図を配っていたのでもらったが、その時、スタッフの年配女性から 「 車で来たの?汽車で来たの? 」 と聞かれ 「 岐阜から歩いて来ました 」 と応えると、「 ウソでしょう、冗談はよして下さい 」 と言われ説明しても最後まで信用してもらえなかった。道は北へ真っ直ぐ行けば郡上大橋を渡る事になるが、昔の街道は吉田川と長良川が合流する地点に橋は無く、内陸の方へ回って川幅の狭い所に橋が架けられていた。そのため八幡の城下町の真ん中を歩く事になる。見上げれば山の上に郡上八幡城が美しい姿を見せているので立寄ることにした。汗をかきながら急坂を登るがマイカーが満車の駐車場に入れなくて数珠つなぎであった。天守閣まで登り、ここで八幡の城下町を見下ろしながら昼食を取る。郡上八幡の町は戦国時代、東氏(とう)が支配していたが、永禄2年(1559年)に遠藤氏が東氏を滅ぼし八幡山に城を築いたのが始まりである。その後、江戸時代に入り城主が目まぐるしく変り、稲葉氏、遠藤氏、井上氏、金森氏、青山氏と変遷し明治維新を迎えている。現在の天守閣は昭和8年に大垣城をモデルとして造られた模擬城である。日本100名城には選出されなかったが、続日本100名城には141番目で入った。お城から坂を下り、安養寺、宗祇水を通って吉田川が長良川に合流する尾崎まで歩き、再び国道156号に合流する。しかし直ぐに勝更大橋を渡り、長良川右岸の旧道を歩く。国道を外れたので車の通行は極めて少ない。時々、オートバイが猛スピードで走って行くが、しばらくは旧道が続く。八幡町の自然園を通過し大和工業団地の近くを通り、和合橋を渡って山田駅に到着する。ここから青空の中に残雪の白山連峰が美しく聳えていた。3日目はここで終了し電車がくるまで無人駅のプラットホームに座り込み、二人で焼酎や日本酒を飲んで疲れを癒した。
【大 和】 街道歩き4日目は長良川鉄道一日フリー乗車券を2700円で購入し電車に乗る。山田駅を出発すると小雨が降り、田圃は所どころ田植えが始まりカエルの鳴き声が聞こえてくる。途中、雨が止んだ頃、トラクターを運転する農夫に声を掛けられ 「 どこまで歩くんじゃ 」 と尋ねられ 「 岐阜から石徹白まで歩いてます 」 と応えると 「 ほ~、たいしたもんじゃな 」 と感心してくれた。長良川は前日の雨で増水し、白い波しぶきをあげて流れていた。そして遠くのまだ雪化粧の山々を眺めるとノスタルジーを感じる。釜渕橋を渡ると徳永駅があり、旧道を歩くと郡上市役所大和庁舎の前を通る。庁舎の前に 「 古今伝授の里・大和町 」 の説明板が掲げてある。大和町に居城した中世の領主、東氏は代々、和歌に優れた名家であり、特に九代当主の東常縁(とうのつねより)は、文明3年(1471年)山田の庄において、連歌師の飯尾宗祇に古今和歌集の奥義 (本文の解釈) を伝授し、「 古今伝授 」 を確立した故事から大和町が「古今伝授のふるさと」と言われるようになったと記してある。その先に奥長良ウインドパークと言うツツジの花が綺麗な公園があり見学すると、以前、ここで日本全国の 「 大和 」 と名の付く市町村サミットが開催されたと記してあった。万場の集落を歩いていると右手に阿千葉城跡の石碑が立っていた。説明文によると阿千葉城は鎌倉時代、承久の乱(1221年)のあと、山田庄の地頭に任じられた東胤行(とうのたねゆき)が築城し、三代、時常まで約100年間、ここに居城した。その後は鷲見氏の居城となったと記してある。
【白 鳥】 長良川鉄道の大中駅あたりで昼時となり駅舎で弁当を食べようとしたが、その大中駅の場所が分らず、やむなく次の大島駅まで腹を空かして歩いた。途中、大中の六地蔵に出逢う。昔は湿地が多く、人里を離れて歩く旅人の無事を祈って、お地蔵様が建てられたという。大中小学校の少し先に日本土鈴館が建っている。時間がないので入場はしなかったが、パンフレットによれば日本全国の土鈴(土で作った鈴でコロコロと音がする)が16,000点以上も収集されており、ギネスブックに登録されている。大島の集落に入ると国道から離れまもなく大島駅に到着する。もちろん無人駅であるが、プラットホームにあるベンチに腰掛けておにぎりを食べ腹ごしらえをする。その後、牛道川に架かる黒古橋を渡るが、左手に油坂峠道路のメッチャ高い高架をくぐる。この道路を西へ向うと福井県の大野から勝山へ出られる。街道はやがて白鳥の町並みに入る。久しぶりに地方の都会に来たイメージで、白鳥病院、白鳥小学校、鷲見病院、白鳥消防署、郡上市役所白鳥庁舎など近代的なビルが建っている。中心街に来通寺がある。言い伝えによると後鳥羽上皇の皇子で嘉念坊善後と呼ばれる師が浄土真宗の開祖、親鸞聖人の教えをここ白鳥で教化するため、ここに寺院を建立されたという。長良川はこのあたりでは上流となり高低差が大きいため雪解けの流れは急流となる。その白鳥橋を渡り二日町の集落を進むと白鳥高原駅、北濃小学校を通る。このあたりの西方の山の中に延年の森公園があり、ハイキングコースが整備されている。以前、私が所属する可児歩こう会の月例ウォーキングで歩いた事があるが良いコースである。
【長 滝】 左手に長良川鉄道の線路を見ながら進むと白山長滝駅に到着する。駅前に立派な鳥居があり、長滝白山神社の参道が始まる。明治維新の神仏分離令によって左側に長滝寺、右側に長滝白山神社が鎮座している。伝承によれば養老元年(717年)白山中宮長滝寺として泰澄大師が創建されたと言う。養老6年に元正天皇(女帝)が病気平癒を祈願して効験があったことから白山本地中宮長滝寺に改称された。ここは日本全国に分布する白山神社の中心的な神社の一つである。白山三馬場の一つで、それは美濃国の白山中宮長滝寺、加賀国の白山寺白山本宮、越前国の平泉寺白山神社である。私は1ヵ月前に踏破した勝山街道で平泉寺は参拝したばかりである。今年は2017年であり、717年に白山神社が創建されてからちょうど1300年目にあたる年で、いろいろな行事が行なわれている。参拝のあと、近くの道の駅白鳥で休憩する。
【北 濃】 長良川沿いに白山文化博物館、北濃保育園が並んでいるが、長良川はかなり上流となり、川幅も狭くなってきた。北濃郵便局から5分ほどで長良川鉄道の終点である北濃駅に到着する。北濃駅は旧国鉄の越美南線の終着駅であったが、民営化後に長良川鉄道の終着駅に変った。ここから美濃太田駅まで電車の本数が極めて少なく、2~3時間に1本しか運転されないので、誰もいない無人駅の駅前のベンチで同行者の飲み友達でもある井芹氏と二人で電車が来るまで約1時間半の間、ビール、焼酎を片手にミニ宴会を開いた。5日目の最終日も井芹氏が同行し美濃太田から乗車するが北濃まで運転されず、白鳥止まりだったので北濃までタクシーで行きスタートした。長良川の上流に沿って歩き出すと悲願寺を通り前谷バス停で道が2つに分れる。右へ行くのが国道156号で高鷲町からひるがの高原へ行く道である。左へ行くと県道314号で桧峠(ひのき)から石徹白へ向う道である。西前谷にある小さな白山神社を参拝し、道中安全を祈願する。ここから桧峠の登り坂が始まる。すると民家の主婦に話し掛けられ 「 どこまで歩くの 」 と聞かれ 「 石徹白まで歩きます 」 と応えると 「 石徹白まで峠を越えて本当に歩くの? 」 と軽蔑のまなざしで見つめられた。長良川の支流である前谷川に架かる大日橋を渡り二十刈付近で山道に入る道標を見る。桧峠までハイキングコースがあり、郡上街道の旧道とも一部重なっているが、旧道は途中、道が不明な箇所があり、急坂で危険な所もあるとの事前調査で分っていたので、県道を歩いて桧峠に向うことにした。正ヶ谷橋、桧橋を渡り、どんどん坂を登ると汗が止まらない。途中、村間ヶ池入口の道標が立っていた。このあたりで中年女性が運転する車が低速になり窓を開けて 「 どこまで歩くの? 」 と尋ねられ、石徹白まで歩くと返事すると 「 そりゃ~たいへんだ~ 」 と、又もあきれ顔で小馬鹿にされた。さらに坂を登り続けると阿弥陀ヶ滝入口があるハートピア四季ホテルの駐車場に着く。ちょうど昼になったのでここで昼食を取る。阿弥陀ヶ滝は以前、行った事がある所で、日本の滝100選に選定された名瀑である。阿弥陀ヶ滝の由来は、「 ♪見たか~聞いたか~阿弥陀ヶ滝を~…… 」 と郡上踊りの歌にも出て来る滝は、天文年間(1530年頃)白山中宮長滝寺の僧、道雅法師が滝で修行していると、阿弥陀如来の姿が浮かび上がったところから、その名が付けられたそうである。ここから桧峠の道が山の頂きまで続いているのが見える。雲の上にあるような峠を越せるかなと不安を抱いたが、暑さの中、友人と二人で頑張って歩いた。魚返橋を過ぎ洞門をくぐると険しさが増してくる。峠道の山側は絶壁、谷側も絶壁で高所恐怖症の私にとっては地獄峠としか思えなかった。そのため山側にも寄らず谷側にも寄らず、道の真ん中を歩くようにした。
【石徹白】 流れる汗を拭きながら、やっとのことで標高984mの桧峠に到達することができた。ここから石徹白に入る。昔、石徹白村は、江戸時代は天領(幕府直轄地)であったが、明治時代になると福井県大野郡に属した村で、九頭竜川の支流である石徹白川上流に位置していた。その後、昭和33年に越境合併により岐阜県郡上郡白鳥町に編入した。県をまたぐ合併という事で、周辺の村々と激しい論争が行なわれた経緯がある。さて今度は桧峠から長い長い下り坂を歩くが、ゆるやかで険しさはなく、高所恐怖症の私にとっても安心して気分良く歩けた。ここまで来ると山の中腹に幾つかのスキー場が見え、残雪の山々も間近かに見えてくる。下山途中、 「 マタタビの水 」 の表示があり 「元気の出る水を飲んで、又、旅を続けて下さい」 とダジャレの言葉が記してあった。その少し先に 「 桂清水 」 があり、手で触ると非常に冷たい水であった。雪解け水が湧き出ているようだ。水後谷橋を過ぎると平地に入り石徹白の下在所(しもざいしょ)に着く。ここで峠越えの疲れを癒すため、長めの休憩を取った。石徹白は初めて訪れたが、平坦で開けた田園地帯というイメージを抱いていた。しかし実際に行ってみると深い山に囲まれた起伏の多い集落で人里離れた過疎地の印象を受けた。休憩のあと、大師堂を参拝するため小高い山を登った。荘厳な雰囲気の古いお寺で、奈良時代に白山を開山した泰澄大師を祀ってある。虚空蔵菩薩像は平安時代に奥州の藤原秀衝が寄進したもので国指定重要文化財の銅像である。他にも織田信長が寄進した鰐口など数多い重要文化財がある。そこから中在所を歩き、上掛け水車や、らせん水車を見学した。山からの雪解け水が流れる水路に小電力用水車が設置されている。アップダウンの坂を越すと深い森が見え、左手に石徹白川が流れている。森には黒っぽい雪が10cmほど残っている。地元のJA職員に聞いたら、真冬は2mほどの積雪になるという。集落のあちこちに除雪車が何台も駐車していたのが理解できた。郡上街道のゴールである白山中居神社(はくさんちゅうきょ)に到着する。ここから白山連峰まで直線距離で15kmほどなので迫力ある残雪の山々は壮観である。この神社は白山信仰を担う古い由緒を持つ。白山は、中世には白山修験の霊山として栄え、登山口にも修験道場が開かれ、白山信仰の全国的広がりの中心となった。現在、日本全国で約2700社の白山神社があり、石川県白山市の白山比咩神社 (しらやまひめ )が総本社となっている。この中居神社の奥に浄安杉があったが疲れていたため、途中まで行って引き返した。浄安杉の由来は、中居神社の別当寺、円周寺の住職に浄安という人がいて、白山詣でを目指す信者が宿代として納めるお金がたまり過ぎたので保管に困り、大杉の根本に穴を掘って埋めたことから、そのお坊さんの名前を取って名付けられたという。さらに有名な石徹白大杉はここから車で20分ほど掛かるが徒歩では3時間もかかるので、今回は見送った。郡上街道の踏破を白山中居神社に報告しお礼参りを済ませると上在所から下在所まで戻った。唯一の売店であるJAの購買部で缶ビールを購入し石徹白バス停の待合室で友人と一緒にビールのほか持参の焼酎も取り出し、ここでもミニ酒宴を開きバスが来るまで2時間も飲み続けた。バスは朝、昼、夕の1日3便しかなく、超過疎地の景色をほろ酔い気分で眺めてからバスに乗った。途中、桧峠バス停で白山中居神社で出逢った瑞穂市の藤山さんと再会し、長良川鉄道の関駅で彼が下車するまで、街道歩きなどの話を続けた。彼とは名刺交換をし、後日、メール交信で出逢いを深めた。
 

日本の街道歩き〔47〕勝山街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 8月 7日(月)17時30分51秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 勝山街道は別名、志比街道とも呼ばれ、北陸街道(近江の彦根から越後高田まで)の福井宿から分岐し、名峰・白山の麓にある城下町・勝山までの街道である。現在の行政区画では福井市、吉田郡永平寺町、勝山市にまたがる街道で、江戸時代の福井藩、松岡藩、勝山藩の城下町を結び、九頭竜川沿いの平坦な道である。また曹洞宗大本山の永平寺や勝山の白山平泉寺への参拝者が往来した参詣路でもある。なお、さらに勝山から大野、油坂峠、白鳥を経由して郡上八幡へ通じる街道も連なっている。
【福 井】 出発は平成29年4月13日。JR福井駅で下車すると駅構内に恐竜の複製が置かれ、駅舎の壁には大きな恐竜の絵が描かれている。福井県は恐竜の名所である。天気は快晴、ポカポカ陽気でベストコンディション。駅から徒歩数分で北の庄城跡に着く。織田信長の筆頭家老で 「 鬼柴田 」と呼ばれた戦国時代の剛勇無双の武将・柴田勝家が天正3年(1575年)に築城し七層構造の天守閣が聳える巨城であった。しかし天正11年(1583年)、賤ヶ岳の合戦で羽柴秀吉に敗れると妻のお市とともに勝家は自害し、城に火を放ち焼失してしまう。現在は小さな柴田神社となり、ほとんど遺構はなく説明板が掲げてあるだけである。そこから北西へ数分歩くと足羽川(あすわがわ)に架かる幸橋に出る。足羽川は下流で九頭竜川と合流するが、左岸に日本桜名所百選の桜並木が連なりこの日はドンピシャリの満開で圧巻の景色にウットリした。この付近は左内町と言い、江戸時代、福井藩の100石取りの下級藩士・由利公正(ゆりきみまさ)の住居があった所である。幕末に横井小楠から財政学を学び橋本左内らと国事に奔走し、福井藩の藩札発行や殖産興業を実行し藩財政を立て直した。その後、藩主・松平春嶽の側用人に抜擢され、長州の坂本龍馬とも親交があった。明治維新後は政府の金融財政政策を担当する高官となり、後に東京都知事に就任する。岩倉具視使節団に随行しアメリカ、ヨーロッパに渡航している。明治20年には子爵に叙せられ貴族院議員となる。
 この説明板を読み終わり勝山街道のスタート地点に向うが途中、これまた桜の名所である福井城へ立寄る。お堀沿いに満開の桜が咲き誇っている。福井藩の藩祖は徳川家康の次男・秀康であるが、若い頃、政略により豊臣秀吉の養子となり、徳川家を離れて下総(千葉県)の結城家を継いだので徳川家の家督および将軍職にはなれず、弟の三男・秀忠が二代将軍となる。しかし関ヶ原合戦の後、越前北の庄(福井市)に67万石を与えられ名字を結城から松平に変えている。桜が満開の福井城天守閣跡を見学していると観光ボランティアガイドが観光客に説明していたので、そばで聞いていると興味深い事が分った。松平秀康が築城した当時は北の庄城と名付けられたが「北」 の文字は敗北につながり縁起が良くないとの事で本丸にある 「福の井」 という井戸に因んで寛永元年(1624年)に 「福居」 と改称された。さらに元禄13年(1700年)に漢字を改め 「福 井」とした経緯がある。福井城内を回っていると一部で石垣が崩れたりズレたりしている箇所があり驚いた。説明板を読むと昭和23年(私が生れる前年)の福井大震災で石垣に相当な被害が出たと言う。城内のあちこちで門、櫓、土塀などの復元工事が行なわれていたが石垣には手が付けられないようで残念である。
 さて時間を取って福井城をタップリ見学した後、北へ向うと養浩館の横を通る。福井藩主松平家の別邸で数寄屋造りの書院に回遊式林泉庭園がある。江戸時代には御泉水屋敷と呼ばれていたが明治17年、松平春嶽によって養浩館と名付けられた。養浩館は 「おおらかな心持ちを育てる」と言う意味である。私は外から眺めただけであるが美しい日本庭園にウットリした。そこからまもなく松本通りに出るが、これは北陸街道の道筋である。松本郵便局の角を左折するのが北陸街道で直進するのが勝山街道である。しかし追分の道標はない。やがて郊外に出るが家がまばらとなり、食堂もコンビニもない。昼食に備えてどこかで弁当を買おうと思うがまったく無い。不安のまま歩いていると開発町あたりでテイクアウト専門の 「ほがらか寿司」 を見つけ、季節限定の 「花見寿司弁当」 を745円で購入する。越前開発駅の近くに古い道標があり 「永平寺道」 と記してある。永平寺へ参詣する旅人への道しるべであろう。
【藤 島】 街道は県道128号と重なり家屋はまばらである。越前新保駅付近の線路沿いに満開の桜並木が連なり癒される。街道と並行して九頭竜川から取水した芝原用水が流れているが、江戸時代に上水道と灌漑用として造られた。しかし現在ではあまり奇麗ではない。まもなく追分口駅に着き、この無人駅の待合室で線路沿いの桜を眺めながら先ほど購入した花見寿司弁当を食べた。駅の近くに街道が二つに分れる三叉路がある。左が勝山街道で、右が永平寺道である。ここに追分の道標があるはずであったが、この付近で道路工事が行なわれていてバリケード、資材置場、作業車などがあり見る事が出来なかった。江戸時代、この追分に茶屋があり、鮎の木の葉鮨が名物であったと言う。ここからさらに東へ進むと街道は国道416号と交差する。この付近に福井警察署藤島駐在所を見つけたがお手洗いの用事はなく素通りした。東藤島駅から街道を離れて超勝寺を参拝する事にした。しかし同じ名前のお寺が2つもある。両方とも本願寺系列であるが、江戸時代に本山が東西二派に分れたため超勝寺も東超勝寺と西超勝寺に分れた。だが、お寺の表札はどちらも 「超勝寺」 である。参拝を済ませ街道へ戻る途中、藤島小学校から下校する生徒の行列とすれ違った。みんな小さな子供ばかりで先生や母親たちが世話をしていた。すると一人の男の子が私に向って 「僕はピカピカの一年生だよ」 と声を掛けた。その無邪気で、ひょうきんな表情に思わず微笑んでしまった。まだ体が小さく、入学したばかりなので帽子、ランドセル、制服、靴も全部ピカピカの新品であった。私の孫の詩乃は二年生になったばかりで、同じくらいの子供に親近感を覚えた。街道へ戻りしばらくすると北陸自動車道の福井北インター が見えた。
【松 岡】 越前鉄道の越前島橋駅、観音町駅を過ぎると松岡の城下町へ入る。国道沿いに商店が並んでいる。ここは福井県吉田郡永平寺町である。江戸時代の正徳2年(1645年)、福井藩越前松平家の分家として5万石の越前松岡藩が成立した。その後、福井本藩の後継ぎ争いがあり、御家騒動などに巻き込まれ享保6年(1721年)に廃藩となり、その所領は福井藩に併合された。松岡藩にはお城がなく、陣屋が置かれただけでその遺跡はわずかに 「お館の椿」 が残っているだけである。その近くに現在、永平寺町役場の本庁舎が建っている。役場の玄関先に 「福井しあわせ元気国体2018」 の看板があり、福井国体開催まであと 「534日」 という電光表示板が設置してあった。この永平寺町は、ハンドボール、ソフトボール、バスケットボール、グランドソフトボールの4種目の会場が予定されている。役場の向いに松岡中学校があり、そこから坂を登ると松岡公園へ道はつながっている。坂の途中に天龍寺が建っているが、松岡藩主の松平昌勝が建立し、歴代の松岡藩の墓所となっている。天龍寺は曹洞宗大本山永平寺の末寺で、座禅道場として知られており、経験、性別、年齢、国籍などを問わず誰でも参禅できるという。また松尾芭蕉が奥の細道の道中に立寄った所でもあり、句碑 「 物書きて 扇引き裂く 余波哉 」 が立っている。
 この坂をさらに登り春日山古墳を見学していると、一人のお坊さんらしき人が通りかかり、「 こんにちは」 と声を掛けられ、振返って顔を見ると外国人である。ツルツルの坊主頭に作務衣(坊さんの作業服)を着て下駄を履いている。青い目をした背の高いイケメンの青年である。日本語が何とか話せるようだった。こちらも 「こんにちは。もしかしてお坊さんですか?」 と言葉を交すと 「はい、そうです。私はスペイン人です。そこのお寺で暮らしています」 と応えてくれた。しばらく日本語で会話をし、私が 「修行をしてみえますか」 と聞くと 「シュギョウ?」 と言って首をかしげた。修行の意味が分らないのか、私は少し考えて座禅のふりをして 「トレーニング?」 と言ったら 「あ~修行です。そうです」 と応えてくれた。私の修行の発音が下手だったのか。しかし 「トレーニング」 という英語で座禅の意味が通じたのか苦笑してしまった。彼は3ヵ月間、天龍寺に滞在すると言っていた。日本の文化や伝統に興味があるようで日本人として嬉しく思った。そのあと、街道へ戻り松岡の町並みを歩いていると古い建物もあり、宿場の雰囲気がある。また道端に 「松岡村」 と記した古い石道標も見つけた。街道筋には見事な枝ぶりのしだれ桜が満開。
【東古市】 松岡から志比堺を通りやがて永平寺口駅へお手洗いのため立寄る。ここは電車で来た参拝者がバスに乗換えて永平寺へ向う中継地である。東古市は勝山街道の宿場町で永平寺へ向う街道と加賀方面へ抜ける街道が交差する交通の要衝であった。ここでまた、外国人を見掛ける。駅の待合室でお茶を飲みながら休憩しているとリュックザックを背負った若いヨーロッパ系の男性が入ってきて勝山までの乗車券を窓口で購入していた。どうも永平寺から歩いてきたようだ。天龍寺のお坊さんより日本語が上手で切符売場のオバちゃんに勝山の平泉寺へ行く経路を尋ねていた。勝山駅から平泉寺へは1日に3便しかなく 「この電車に乗ってもバスに接続していません」 と言われ「そうですか、ではタクシーで行きます」と応えていた。私との会話はなかったがリュックを背負って永平寺と平泉寺を訪れるとは、どこの国の人しか知らないが、この人も日本の文化と伝統を愛している青年かと思うと、また嬉しくなった。永平寺口駅前に赤いレンガの建物があり、「旧京都電燈古市変電所」と記してあった。大正3年(1914年)電車を走らせるための電気を供給する変電所として洋風のレンガ造りで建設された。戦後、一時荒廃したが保存のため改修工事が行なわれた。文化財的価値は非常に高く平成23年に国の登録有形文化財に指定された。すぐ隣に桜並木があり、ここも満開で遠くに見える残雪の山々とマッチしていた。
【志 比】 街道は左手に永平寺町立志比小学校を見ながら、さらに東へと進む。街道は越前鉄道と九頭竜川と並行しているが、このあたりから民家が少なくなり田園風景が広がる。線路沿いや九頭竜川沿いには満開の桜並木が連なり春うららのムードが漂う。街道歩きの旅情が満喫できるのは嬉しい。ただ勝山街道沿いには史跡がほとんどない。脇街道であるので本陣、一里塚が無いのは分るが、石仏や常夜灯もほとんど見かけない。越前鉄道の下志比駅、光明寺駅、轟駅、越前野中駅、と田舎の無人駅を通過する。山王駅を過ぎると左手に永平寺温泉の道の駅・禅の里が見えたが時間が無いので通過する。越前竹原駅でトイレ休憩をする。
【小舟渡】 街道は左手に九頭竜川に架かる市荒川大橋が見えてくる。昭和44年に完成した、うぐいす色の大きな橋である。その近くの中島河川公園に桜並木があるが、このあたりでは満開ではなく、「満開近し」 といった状況であった。この付近まで来ると残雪が多い山に取り囲まれ、中腹にスキー場のゲレンデもくっきり見える。市荒川発電所へ注ぐ大きな送水管が街道に向って降りてきている。九頭竜川は雪解けの水で増水し、白い波しぶきを立てて流れている。小舟渡駅の近くに大正10年に架けられた小舟渡橋があるが、昔はここに「小舟渡の渡し」があった所で、九頭竜川の急流を小さな渡し船で越すのはさぞかし難儀であったことだろう。街道は小舟渡橋を渡り九頭竜川の右岸を進むが勝山までは、まだ11kmもあり何もない田園地帯をひたすら歩くしかない。
【勝 山】 ようやくのことで勝山の町並みに入るが昔の古い建物が残っており、街道の終点は城下町を形成している。越前勝山藩は福井藩の支藩として元和9年(1623年)、3万石の石高で成立する。正保元年(1644年)に御家騒動で廃藩となるが、元和4年(1691年)に美濃国高須藩の小笠原家が勝山に移封され2万2千石で再び立藩し、そのまま明治維新を迎える。その勝山城は現在の勝山市役所の隣にある勝山市民会館にあったが、すべて取り壊され今は石碑がポツンと立っているだけである。ここで勝山街道の踏破を完了とし、引続き市内散策のため勝山駅にある貸し自転車を借りる。まず勝山市の南部にある勝山城博物館を訪れた。猪野バス停の近くに5層6階の大天守と小天守が聳えている。これは博物館であって、元々お城があったわけではない。平成4年に財団法人多田清文化教育記念財団が建設したもので城郭式博物館としては高さ58mを誇り日本一の規模である。姫路城の天守閣に似せたコンクリート製の模擬城だが良くできている。
 次に向ったのが白山平泉寺である。かなり山奥にあり、そこまで暫らくキツイ登り坂が続くが貸し自転車は電動機付きなので楽々進む。自転車を借りる時、電動なしは50円、電動付きは500円と言われ迷っていたら、「平泉寺へ行くなら電動付きでないと無理ですよ」 と言われ、500円出して正解であった。以前、中山道で京都にゴールしたあと電動自転車を借りたが、その時は2800円であったので勝山は良心的である。平泉寺は奈良時代の高僧、泰澄大師(たいちょう)によって養老元年(717年)に建立され、福井、石川、岐阜の三県にまたがる白山(標高2702m)は古くから信仰の山として崇拝されている。越前守護の朝倉氏が支配していた頃の平泉寺は36堂6000坊が立ち並び多くの荘園を持つ強大な勢力を誇っていた。鎌倉時代の始めに源義経と武蔵坊弁慶一行も立寄ったと伝えられている。しかし戦国時代に一向一揆や織田信長と朝倉義景の戦乱により天正2年(1574年)に全山ことごとく焼失してしまった。江戸時代に再建され、平泉寺は白山神社の領地となり明治維新の神仏分離令により平泉寺の寺号を廃して白山神社となった。現在でも白山信仰の本拠地であり白山平泉寺と呼ばれている。樹齢数百年と言われる大杉の森が連なり参道は神々しい雰囲気に包まれている。本殿の横や裏手に黒ずんだ雪が残っていて真冬の積雪や寒さが想像できる。今年、2017年は開山1300年記念祭(創建は717年)の年であり7月に記念行事がある。ここで街道歩きの無事終了を報告しお礼参りをした。
 次に電動自転車で越前大仏へ行き、大仏殿や五重塔のスケールの大きさに驚いた。最後は九頭竜川に架かる勝山橋を渡る時、橋の上から大勢のカメラマンが東の方角を撮影していた。河畔に弁天桜と言われる満開の桜並木が連なり川には200匹の鯉のぼりが気持ち良く泳いでいる。その背後に真っ白な白山が浮かんでいる。正に絵になる絶景である。カメラの放列ができるのも当然であろう。楽しかったサイクリングを終え勝山駅から電車に乗り福井へ向う。1輌編成の電車に乗客はたった3人だけ。でも若くて可愛い女性車掌さんが乗務していたので話掛けたら勝山の事について解説してくれた。そして彼女のタブレットで2月に撮影した白山の写真も見せてもらえたので感謝の言葉を伝えた。乗降客がなく仕事も暇なのであろうか、田舎の電車ならではの場面であり、これも人との出逢いである。その後、リュックからお酒とつまみを取出し福井駅まで沿線の桜並木で花見をしながら疲れた体を癒した。
 

日本の街道歩き〔46〕裏木曽街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 8月 5日(土)09時52分28秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 裏木曽街道とは中山道の中津川宿と飛騨街道の下呂宿を結ぶ脇街道である。江戸時代、飛騨高山から江戸へ出るには、女工哀史で有名な野麦峠を越えて信州へ入っていたが冬季は積雪のため往来が困難となり、別ルートの裏木曽街道を使って美濃の中津川を経由して信州へ向った。古くは鎌倉幕府へ出府するために使われた街道で鎌倉街道、飛騨街道とも呼ばれた。また明治時代になると街道が整備され南北街道とも呼ばれるようになった。幾つかの呼び方がある街道だが実際に歩いてみると、美濃国と飛騨国の国境となっている舞台峠を境に中津川方面では「裏木曽街道」の表示が多く、下呂方面では「鎌倉街道」の表示が多い。また部分的ではあるが東山道飛騨支道とか竹原古道と言う表示も見かけた。街道筋は幕府の天領(直轄地のこと)や尾張藩の所領もあり番所も設置されていた。この地域は江戸時代から木曽谷と同様、木曽五木の産地で、現代でも木材加工が地元産業であり、その事を考えると「裏木曽街道」の名前が付いたのはうなづける。街道には幾つかの峠があり、中津川から歩くと苗木峠、塞之神峠、舞台峠、初矢峠を越えなければならず楽な街道ではない。しかも旧道ルートが分りにくい所もあり、かなり道筋を検証しながら進まなければならない。しかし街道筋の山岳風景、田園風景、史跡などを眺めながら歩くのは興味深いものがある。
【中津川】 出発は平成29年3月28日。私の住む多治見からJR電車で40分ほどの中津川駅からスタートする。中山道の中津川宿は歌川広重の浮世絵にも描かれている有名な宿場で、私はこれまで何度も街道歩きで通っている。江戸時代の中津川宿は木曽衆の旗本、山村氏の領地であったが、隣接する苗木藩や岩村藩などとの物資交流も盛んであった。旅籠は30軒ほどあり、参勤交代の大名行列が通る時に利用する本陣や脇本陣も設置されていた。裏木曽街道は中山道から分岐し市内の栄町、北野町を経て長久寺を通り木曽川の渡し場に向う。
【苗木】 木曽川の渡しは現代では玉蔵橋を渡るが、昔はもっと下流にあったようだ。玉蔵橋から西方を見ると廃線となった付知鉄道の錆ついた鉄橋が取り残されている。その奥の城山(標高432m)に聳える苗木城跡も見える。苗木城は代々、遠山氏の居城として一度も領地替えがなく明治維新を迎えている。遠山氏は石高1万石の小さな大名であったが石垣の見事さが有名で東濃地方では名城として知られている。さて県道6号の坂を登り汗ばむが昔は山中の険しい苗木峠を越えていた。苗木の町は私が若い頃、訪れたことがあり、約40年ぶりであった。その当時は木造の古い校舎の苗木小学校が記憶にあるが、今は近代的な校舎となり校門には「創立150周年記念」の看板が掲げてあった。また立派な道路にコンビニや大型店もあり、その発展ぶりにやや驚いた。町中を歩いていると早咲きの桜が旅情を醸し出してくれる。また歩きながら後ろを振り返ると残雪の恵那山、前には形の良い笠置山が見える。苗木交番を過ぎ並松付近を歩いていると、のどかな田園風景に思わず鼻歌が出てくる。
【福岡】 木曽川の支流である付知川が左手に見えてくると福岡町へ入る。現在は中津川市に合併している。高山の交差点付近に明治24年にできた歌舞伎小屋の常盤座へ行く道標がある。関戸を少し過ぎた所に 「裏木曽街道」 の石道標を見かける。間違いなく街道を歩いていると確認し、その先の小さな橋を渡り野尻の手前で国道257号から右折して旧道に入る。逆に左折すると福岡ローマン渓谷へ行ける。そろそろ昼時となり昼食場所を探すが適当な所が無い。旧道は福岡の町並みを真っ直ぐ北へ伸びている。途中、福岡総合事務所(以前の福岡町役場)があり、立寄ると隣に福岡公民館と福岡小学校が立っている。公民館の前にベンチがあったので、ここで苗木のセブンイレブンで買った弁当を食べ始める。すると春休み中の女子中学生が数人、集まり出し会話を聞いていると、これから皆で名古屋へ買物に行くと楽しそうにはしゃいでいた。昼食を終えて再び街道を歩くと福岡の商店街に入る。しかし古い建物は見かけない。その商店街も賑わいががなく、何となく寂しい。まもなく郊外に出ると田園風景に変る。しばらくすると左手にお城が見えてくる。こんな所にお城があるとは信じられないと思い街道から外れ道草した。お城は国道257号沿いにあり、なんと食堂の 「庚申ラーメン店」 であった。良く出来た本物のお城のようで 「福岡城」 と名付けられている。そこから街道へ戻り、田園風景を進むと下野の集落に入る。春うららの景色が広がり山の斜面に茶畑が続き、所どころに白亜の土蔵が点在し昔の面影を感じる。道は再び国道と合流し付知川沿いに変る。すると民家の前で草取りをしている老婆から 「いい天気ですね~。どこから歩いてきたの」と尋ねられ 「中津川から歩いて来ました。下呂まで歩いていきます」 と言うと 「すごいですね~、気を付けてね~」 とねぎらいの言葉を掛けてくれた。その先の樋の口橋のたもとに 「中津川市指定名勝・新寝覚の床」(しんねざめのとこ)の説明板があった。それを読むと、この付近の付知川は川幅が狭く水流の浸食により岩石が深く削られ自然の美しい景観を呈している。日露戦争の陸軍第三軍司令官であった乃木希典大将は戦没者の霊を弔うため日本各地を巡回していた時、この地の 「樋の口」 の渓谷美が木曽川の有名な 「寝覚の床」 (長野県木曽郡上松町)に似ているところから命名したと言う。私なりに両方を比較するが、それほど似ているとは思われない。この先の島田橋を渡って田瀬の集落に入り、再びのどかな田園風景を歩く。田瀬橋を渡り、芝ヶ瀬、狩宿を過ぎるとまもなく付知町に入る。
【付知】 稲荷の交差点を国道256号から離れ、左折するのが旧道である。狭い曲がりくねった道に路線バスが走っている。しばらく進むと右手に熊谷守一記念館がある。私は知らなかったが油絵の画家で 「画壇の仙人」 と言われた人で付知出身である。そろそろ夕方が近づき、1日目の街道歩きはここで終えバスで一旦帰宅し、2日目は同じバス停からスタートした。この日からウォーキング仲間の友人が同行する事になったので寂しさがまぎれる。天気は曇りがちでやや肌寒いが元気よく歩き出す。付知中学校の先の水無神社(みなし)を参拝し、道中安全を祈願した。この神社は弘安2年(1279年)木曽家仲によって飛騨一宮の水無神社から分霊されたお宮さんである。付知の町を過ぎると三叉路の付知峡口に至る。右へ行くとキャンプ場などがある付知峡へ行く。左へ行くのが裏木曽街道である。この角に倉屋観音堂が立っている。この三叉路は信州木曽へ通じる山道と飛騨道の分岐点である。元禄時代から幕府の天領となり観音堂は旅人の安全を見守ってきた。明治時代に入ってから街道の拡幅改良工事が完成し 「南北街道」 と呼ばれるようになる。この先に付知峡倉屋温泉 「おんぽいの湯」 がある。街道は護山神社(もりやま)を過ぎると街道は登り坂となり汗ばんでくる。これから難所の塞之神峠(さいのかみ)を越えなければならない。塞之神とは村の中に悪い霊が侵入するのを防ぐ神様の事である。少し呼吸が乱れてくると前方にトンネルが見えてくる。旧道はトンネルの手前から険しい山道に入るが事前に調べた情報では、通行不能の箇所があるというので先ほどの水無神社付近で地元の老婆に尋ねたが道はあるが通行できるかは分らないと言う。国道から左前方の山を見ると確かに道はあるが倒木や雑草が生い茂り、通行困難と判断し塞之神トンネルをくぐった。平成5年に完成した比較的新しいトンネルで安全な歩道も備わっているので安心して歩行できる。しかし長さが737mもあり大型トラックの騒音や排気ガスが激しいので早足で通り抜けた。ストレスを貯めながらトンネルを出ると峠道は下り坂となり、加子母(かしも)の町へ入る。
【加子母】 坂道を下ると、またトンネルがある。約100mほどの短い飛出山トンネルであり、すぐに加子母の 「万賀の辻」 に出る。これを右折して加子母の中心部へ向う。加子母はかなり広い平地で、周りの山々に残雪が見える。昼時となったので昼食場所を探していると、歌舞伎小屋の明治座の案内道標を見つけ立寄ることにした。明治座は娯楽の少ない山村に劇場を造ろうと、明治27年に加子母村の人々が地元の木材を使って自ら作業して建てたものである。明治から昭和にかけて村歌舞伎、旅回り芝居、青年団の演劇大会などに使われたが、第二次世界大戦で一時荒廃する。戦後、明治座保存会が結成され再び村歌舞伎が復活し、現在も営業している。昭和47年には県重要民俗文化財に指定された。平成28年に大規模な修理が完了し今回はタイミングよく見学できた。舞台を覗くと回り舞台、花道、桟敷席、娘引き幕などの設備があり本格的な芝居小屋である。小屋の前で昼食を食べていると座長に話し掛けられ、いろいろ説明を受けた。またすぐ近くに明治政府が招いたオランダ人の土木技師ヨハネス・デレーケが設計・指導し明治13年に幾つかの砂防ダムが建設された。現在の嫌谷公園(やんたに)一帯が大雨のたびに土砂流出が発生する扇状地であったが、砂防ダムのお陰で現在でもその機能を果たしている。ヨハネス・デレーケは木曽三川の堤防工事をした有名なオランダ人技師で、その名前は知っていたが、こんな山深い加子母まで来て仕事をした事は初耳であった。昼食後に、加子母の町並みを歩き由緒ある法禅寺の前を通る。この寺の裏手から木曽越古道が長野県王滝村を通り御岳山へ通じているが、険しい登山道で修験者の道である。加子母総合事務所(以前の加子母村役場)を過ぎると番田橋を渡りアップダウンが続く坂道を進む。このあたりからも残雪の山々が見え、曲がりくねった道はいかにも古い街道らしい雰囲気である。途中、尾張藩の二渡御番所跡を見つけ見学する。この付近は尾張徳川家の領地で、他領からの抜け荷(材木の密売)と通行人を取り締まるため享保11年(1726年)に御番所(小規模な関所)が設置された。そこからしばらく進むと道が三叉路となり悩んでいると渓流釣りの男性がいたので道を尋ねた。まもなく国道257号と合流し小和知郵便局を通り再び旧道に入る。ここで有名な加子母大杉地蔵尊へ立寄りたかったが道が分らず、トラクターに乗った農家の人に尋ねると指を差して教えてくれた。鎮守の森のような所にひときわ高く聳えている大木の大杉がすぐ分った。到着してまず地蔵尊を参拝し、そのあと写真を撮ろうとしたが杉が大き過ぎて全体が撮影できない。この大杉は国指定天然記念物であり、樹齢千数百年(古墳時代の頃)の長寿杉で周囲13m、高さ31m。今でも旺盛な成長を続けており、時空を超えた荘厳な輝きを放っている。地元の人達はこの大杉が竜に見えるそうである。鎌倉時代の建久5年(1194年)源頼朝がこの地に立寄った時、大木の西方300mにあって老朽著しい地蔵堂を大木の下に移すよう命令したと伝えられ、大願王地蔵尊として栄え、どんな願いも聞いてくれると言う。
【舞台峠】 加子母の大杉を見学したあと、舞台峠に向うがまた道が分らずバイクの郵便配達員に道を尋ねた。この舞台峠は緩やかな地形で峠という感覚はないが標高は693mもある。3日目の朝はここからスタートしたが気温は6度で肌寒かった。この舞台峠が美濃国と飛騨国の国境である。現代では中津川市と下呂市の市境であり、分水嶺でもある。冬季は野麦峠と比べると積雪が少なく物資輸送や旅人の往来も可能であった。現在は国道257号を車で簡単に通行できる。ところで舞台峠の名前の由来は、舞台のような地形とも言われるが、現地の説明文を読むと、話は鎌倉時代にさかのぼる。今から800年ほど前、この地を通った源頼朝の願旨により高僧の文覚上人が七堂十二坊の大威徳寺(現在は廃寺)を建立した。文覚上人は平家物語に登場する人物で、若い頃は遠藤盛遠と名乗っていた武士だが人妻に恋慕して殺人を犯したので出家する。その後、二代将軍、源頼家がこの寺院を参詣した時、随行した諸大名の退屈を慰めようとこの峠に舞台を造り都の美しい白拍子(踊り子の女性)の舞を上覧した故事から舞台峠と呼ばれるようになった。この峠を過ぎると道は延々と下り坂が続く。途中、舞台峠ドーム、舞台峠公園を見ながら御厩野(みまやの)バス停近くの舞台峠観光センターで休憩する。この先、街道最大の難所である初矢峠(読み方はハツヤではなくハチヤである)の道筋に不安があったので土産物店の店員に尋ねたが分らず、隣の刃物店の主人に聞いたら教えてくれた。しかし車が通行できない石畳への道は詳しく分らない。そこから野尻の田中橋を渡って旧道に入り竹原の集落を歩く。野尻公民館を過ぎた所で地元のお婆さんに峠へのルートを尋ねたが知らないと言う。お婆さんにどこを歩いているのか尋ねられ、中津川から下呂まで歩いていると伝えると驚いていた。ここでも確かな情報が得られず不安を抱きながら竹原中学校、宮地橋を渡り長い坂を登り始める。
【初矢峠】 暑さで汗が出るので上着を脱いで南飛騨森林組合を通り過ぎると、乗政の集落に入る。途中、ハイキングコースの案内標識があり、シダレグリ自生地、初矢峠石畳への道標があったが、こちらは裏木曽街道のルートではないのでハイキングコースへは行かず、乗政の慈雲院、八幡神社、乗政公民館を通って峠道をドンドン登る。道路は 「ふるさと農道」 で舗装道路である。どこかで旧道へ入らなければならないが、尋ねる人がいない。あたりに民家はなく山中である。昼近くになって小峠と呼ばれる変則的な四叉路に出るがここで悩んでしまう。道標によれば農道を300m行くと左に入る土道があるはずだが、歩き続けてもそんな道はなく小峠に引返す。今度は高架をくぐって進むと鎌倉街道、中部北陸自然歩道の標識があり初矢峠への矢印もある。しかしその表示は石畳を通らずに峠の頂上に出る道である事が後になって判明するが、中部北陸自然歩道を歩くことにした。本当は鎌倉街道を歩かなければならなかったが、その時は知る由も無い。緩やかな登り坂を進むと材木育種事業所(試験場)に着いた。そこにあった道標をたよりに別の道を数百m戻ると、ようやく石畳に到着できた。初矢峠の石畳は幅2m、長さ80mの苔むした道で、ほとんど歩く人がいないようで荒れ果てた石畳である。そこの説明板によると江戸時代、飛騨郡代(代官)が江戸へ行く時はこの石畳を使ったと記してあった。ようやく目的地に着いたが峠の変則五差路に表示がまったくなく下呂へ出る道が分らない。すると試験場の職員がこちらに気付き、道を尋ねると教えてくれた。ホッとして森の中の道を下り始める。しかし熊が出るような山深い道なので少々恐くなる。そこで熊除けの鈴を出そうとしたが家に忘れてきた。やや緊張しながら休憩なしで一気に峠を下った。
【下呂】 大きな砂防ダムが見えてくると道幅は広くなり眼下に下呂の民家がチラホラ見え出し安堵する。峠を下ると国道41号を横断し飛騨川やJR高山線を見ながら歩く。下呂中学校、下呂小学校を通り下呂市役所を回って白鷺橋に到着する。ここが裏木曽街道のゴールである。下呂温泉を発見したのが白鷺と言われるので、この橋の地名となった。ここで最後の街道写真を撮ろうとしたが平日でも観光客が多く撮影は順番待ちである。下呂温泉の歴史は古く天暦年間(950年頃)に源泉が発見された。下呂温泉は草津温泉、有馬温泉とともに天下三名泉として全国に紹介したのが室町時代の高僧である万里集九である。その後、江戸時代に儒学者の林羅山も高く評価し著書に 「我国諸州多有湯有 其最著者 摂津之有間 下野之草津 飛騨之湯島 是三處也」 (有間は有馬、湯島は下呂の事)として三名泉をさらに全国津々浦々に知らしめた。なお、「下呂」 の地名は律令制度の奈良時代には 「下留」 という漢字で表記していた。さてゴールのあと、白鷺橋の隣にある下呂温泉神社を参拝し、街道歩きの無事をお礼した。そのあと飛騨川に架かる 「いで湯大橋」 を渡り「幸乃湯」の日帰り温泉に浸かって疲れを癒した。入浴料は370円とお値打ちで下呂駅まで徒歩3分である。帰りはJR高山線の列車に乗り車窓から本降りの雨を眺めながら、缶ビール、缶チューハイ、焼酎を飲みながらほろ酔い気分で帰宅した。
 

日本の街道歩き〔45〕常滑街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 7月26日(水)22時35分9秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 知多半島には2つの街道があり、いずれも知多半島の付け根から半島の先端にある師崎までのルートである。1つは東海道の鳴海宿から分れ東海岸沿いに南下する師崎街道で、私は平成28年3月に踏破している。もう1つは西海岸を南下する常滑街道で今回、3日間かけて踏破した。いずれも知多半島で生産された陶器、酒、酢、木綿、海産物などを名古屋へ運ぶための街道である。常滑街道は別名、知多街道、西浦街道とも呼ばれる。ただ、昔の街道の面影は薄いが、多くの史跡があり海を眺めながらの街道歩きは興味深いものがある。
【鳴海】 名古屋市熱田にある東海道の宮宿から江戸へ向うと次の宿場が鳴海宿である。名鉄鳴海駅から北へ5分ほど歩くと鳴海本町の角に至り、ここに鳴海宿の高札場がある。常滑街道のスタート地点である。私は平成24年に京都から東京まで歩いた時に通過した所で懐かしい場所に再会した。このすぐ近くに鳴海城跡があるので立寄った。戦国時代の永禄3年(1560年)桶狭間の戦いでは駿河の今川方の猛将・岡部元信がこの城に配されていたが、今川義元が討たれた後も奮戦していた城である。街道に沿って緑小学校、鳴海八幡宮を過ぎると左手に明忠院があり、その裏山に鷲津砦跡がある。傾斜のきつい坂を登ると現在は公園になっている鷲津砦に着く。今川方の大高城と鳴海城の間にクサビを打つような地点に築かれた織田方の砦である。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの緒戦に信長の家臣・飯尾定宗が立て籠ったが今川義元の家臣・朝比奈泰能の軍勢に攻められ全滅している。鷲津山を降りJR大高駅を通り八幡神社に着く。この角を左折すると私が平成28年に歩いた師崎街道の始点である。直進するのが常滑街道である。大高川を渡ると「辻の秋葉社」の小さな祠が鎮座している。その近くに切支丹禁制の高札場があり、左手の小高い山の上に大高城がある。枡形の角には萬乗酒造の酒蔵があり、名古屋都市高速の高架を過ぎると緑区から東海市へ入る。
【横須賀】 緑陽小学校、名和郵便局を過ぎ浜須賀で伊勢湾岸自動車道の高架をくぐる。まもなく聚楽園が近づくが山の上に立つ大仏様への道が分らず、自転車に乗った中年のご婦人に尋ねると親切に教えてくれた。やがて左手に大仏様の大きな顔が見えてくると、曲がりくねった階段を見つける。子供を連れたお母さんに尋ねると、この階段は近道だと教えてくれ急な階段を息切れしながら登る。その階段を若者が走って何度も往復していた。かなりきついトレーニングをしているなと感心した。この聚楽園大仏は昭和2年(1927年)、名古屋の実業家である山田才吉が「昭和天皇御成婚記念」として造営したものである。その後、昭和58年に東海市の文化財に指定された。名鉄常滑線に沿って進むと太田川駅に着く。駅裏の中華料理店で昼食を取り駅前にある「細井平洲・上杉鷹山対面の像」を見つける。細井平洲は尾張国知多郡平島村の農家出身の儒学者である。上杉鷹山は米沢藩15万石の大名で名君として知られる。平洲は農民であったが幼くして学問に励み、京都、長崎、江戸で儒学を学び24歳で私塾・嚶鳴館(おうめい)を開いた。武士、町民、農民を区別せず分り易く学問を広めた。後の宝暦13年(1763年)に米沢藩主の上杉治憲(後の鷹山)の師となる。鷹山は優れた儒学者として平洲を師と仰ぎ当時の身分制度を超えた師弟の姿として全国に知れ渡り、明治時代の道徳の教科書にも採用されている。平洲が鷹山に贈った言葉 「勇なるかな、勇なるかな、勇あらずして何をもって行なわんや」 がある。要は何をやるにしても、まず勇気が必要であると言う意味である。平洲は53歳の時、徳川御三家の筆頭・尾張藩に招かれ明倫館(現在の明和高校)の学長に就任している。現在、その功績を称え東海市内には平洲小学校、平洲中学校、平洲記念館などがある。私はこの街道を歩くまで平洲の事はまったく知らなかったので良い勉強になった。名鉄河和線の高架をくぐり横須賀小学校の隣にある諏訪神社を参拝したあと、信濃橋を渡り東海市から知多市に入る。
【朝倉】 街道は右手に知多市役所を見ながらまもなく名鉄朝倉駅の前に出る。ここでトイレ休憩をして水分を補給する。朝倉駅前には桜並木が連なり、まだ蕾みは堅いが、満開になったらさぞかし美しい景色になるだろうと連想した。朝倉駅を過ぎると街道は郊外へ出て道が曲がりくねってくる。道幅がやや狭く街道らしいカーブを描いている。古見郵便局付近でさらに狭い道へと入り、龍雲院を右手に見ながら道は登り坂となる。かなり長い坂で汗がにじむ。小さな峠を越えると今度は長い下り坂が続き美城ヶ根で国道155号と合流する。
【新舞子】 気温が高くなり日長の田園地帯を進むと右手に小高い天神山が見え、麓に稲荷神社や大龍寺などを眺める。鍛冶屋川を渡り北畑の交差点にあるスーパーのヤマナカへ立寄りトイレと水分補給をして小休止する。まもなく名鉄新舞子駅に到着するが踏切を渡り海へ向う。すると新舞子ファインブリッジが見えてくる。対岸には新舞子マリンパークがある。我家の子供たちが小学生の頃、この新舞子の海水浴場へ遊びにきた事があり懐かしかった。海岸ではウエットスーツを着た若者たちがウインドサーフィンを楽しんでいた。しかし風が強いためサーフィンが倒れ、慌てて立て直そうとしているシーンを何度も見かけた。中には女性もいたが、まだ早春の寒さで震えている姿が印象的であった。ここで日暮れが近づき一旦、帰宅した。
【大野】 街道は大草を通って大野町へ入る。街道から少し外れた所に大野城跡があるので道草して城山公園へ行く。標高50mほどの小さな青海山であるが階段がきつく、息がはずみ汗が出る。途中、草刈りのお婆さんと挨拶を交し大野城の模擬天守閣に到着する。閑散としていたが幼い男の子を連れた父子があちこち見て回っていた。天守閣の展望台から新舞子、常滑の町並みが見え、中部国際空港から発着する旅客機も見える。この大野城には戦国時代の歴史がある。大野城はこの地方の佐治一族の領地であったが天正11年(1583年)羽柴秀吉が賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を滅ぼすと、織田信長の妹・お市と浅井長政との間の三姉妹の三女(長女は秀吉の側室・茶々)である 「お江」 (おごう)と大野城主の佐治与九郎は政略結婚させられる。しかし天正12年(1584年)秀吉と家康が戦った小牧長久手合戦では、与九郎は家康方についたため政略的価値がなくなり、離婚させられている。この後、信長の弟である織田有楽斎が入城している。ちなみに東京の有楽町の地名は、江戸時代に入り、江戸の有楽斎の屋敷があった所から付いた名前である。この 「お江」 は後に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠と再婚し3代将軍・徳川家光を生んでいる。この大野城にお江は1年たらずしか住んでいないが、日本史に登場する有名な武将たちが関わりを持つ歴史的価値の高いお城であるので興味深く見学した。この後、本来の街道に戻り、西之口、蒲池、榎戸、多屋を通って常滑の中心部へ向う。
【常滑】 右手に常滑駅が見えると海の方に中部国際空港の管制塔が見え、すぐ近くを飛行機が飛び立っている。栄町の交差点を左折して常滑市陶磁器会館方面へ道草する。道幅が極端に狭く迷路のように曲る 「やきもの散歩道」 を歩く。途中、廻船問屋瀧田家を見学し、一番有名な 「土管坂」 へ行き、写真を撮ろうとする。しかし観光客が多く、なかなかシャッターチャンスがなく三脚を立てたまま人が居なくなるのを待った。この土管坂は昭和30年代に土管63本と焼酎瓶390本を埋め込みその景観が優れているため国土交通省の手作り郷土大賞を受賞している。また日本ふるさと坂道30選にも選定されている。そこから近い所に陶栄窯と言われる登り窯がある。明治20年に築かれた窯で昭和49年まで使われていた。昭和57年には国の重要有形民俗文化財に指定された。私が住んでいる多治見も陶磁器の名産地であるが、1つだけ常滑と異なる風景がある。それは窯の煙突が多治見では円筒形であるが、常滑は四角柱である。円筒形に見慣れている私にとっては常滑の煙突は異様に見える。再び街道に戻り、右手に常滑港を見ながら歩くと口田川樋門、大落川樋門を見る。市場町あたりに文政2年の銘がある秋葉山常夜灯が立っている。大きくて立派な常夜灯で街道らしさを感じる。このあたりには食堂がなく、保示町のコンビニ・サークルKでおにぎりを買って食べる。
【大谷】 樽水、唐崎あたりを歩いていると潮の香りが強くなり、対岸にセントレア空港の建物がハッキリ見える。古場を過ぎると小さな苅屋漁港が見える。しばらくすると街道は登り坂となり小さな峠を越すが、その頂上付近に南陵中学校があり、運動場では生徒たちが部活のスポーツを楽しんでいた。さらに海岸に沿って南下すると大谷漁港が見えてくる。ここで街道写真を撮ろうと街道から外れて港に行くが漁港は小さく人がいなくて閑散としている。さらに街道を南下すると西小鈴谷から細い道に入る。しばらくすると小鈴谷漁港の前に盛田酒造の工場がある。その先には「盛田味の館」があるが観光客はほとんど見かけない。坂井海水浴場の近くにある坂井温泉を左折して海岸から離れ、常滑市から知多郡美浜町へ入る。
【野間】 名鉄上野間駅の近くに野間神社があるが本殿は小高い山の上にあるので階段下から参拝して先へ急ぐ。知多奥田駅近くには遊園地の南知多ビーチランドがあるが季節外れのため観光客は見かけない。奥田小学校の近くで街道は国道247号から離れ狭い道に入る。田畑の中を歩いていると山の手の方角に野間駅が見える。市街地に入ると旅館が連なる中に有名な野間大坊があり参拝する。これまで何度も来た事があるが、今回は人がほとんどいない。私と同じ年頃でリュックザックを背負った人が一人だけ境内を歩いていた。この野間大坊の境内には平治の乱(1159年)で平清盛に敗れた源義朝(鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の父)は入浴中にだまし討ちにあい、無念の最期をとげる。その時、「我に木太刀の1本なりともあれば……」と叫んだ事から、お墓には木刀が山のように供えられている。野間大坊の近くに安養院という由緒ある寺院がある。白河天皇の勅願寺で源義朝の家来の鎌田政清の墓がある。また織田信長の三男・信孝は羽柴秀吉との戦いに敗れて野間まで敗走し、この安養院で自刃している。その後、街道は海岸へと出て冨具崎港、金刀比羅神社を過ぎ小野浦地区に入る。まもなく野間灯台が見えてくる。この灯台は大正10年(1921年)に設置された高さ18mの愛知県最古の灯台である。その優美な白亜の姿形は風光明媚な小野浦海岸に映え、特に夕焼けの光景は絶景と言われるが、私はまだ夕日を見た事がない。なお、最近ではこの灯台が 「恋人たちの聖地」 になり、カップルで訪れて永遠の愛の絆を象徴する南京錠を鉄製の柵に掛けたり、 「絆の鐘」 を鳴らしたりする。私がここで写真を撮ろうとする時、3組のカップルがいた。1組目は灯台の先端の岩に腰掛け肩を寄せ合い無言で海を見つめていた。2組目は手を繋ぎ砂浜を歩きながら時々、キスしていた。3組目は絆の鐘を鳴らし男性が女性をダッコしてキャッキャ騒いでいた。何とも言えないラブシーンを見ている私は恥ずかしいようなうらやましいような気分になった。ここで街道写真を撮り終えるとすぐに三脚を片づけ、そそくさとその場を立ち去って邪魔にならないよう配慮した。小野浦海岸は磯の香りが漂い遠くには伊勢の陸地が見える。夕方が近づくと雲行きが怪しくなり短時間であったが小雨がパラついた。南国ムードを感じながら街道をしばらく歩くと美浜町から南知多町へ入る。
【内海】 夕暮れが迫り足もかなり疲れてきたが、頑張って歩き続けた。お吉ヶ浜を過ぎると小さな内海新港を通り内海の市街地に入る。ここで街道写真を撮るため千鳥ヶ浜海岸へ向う。夏は海水浴で賑わう所で海岸沿いには海の家、民宿、食堂などが並んでいる。海岸の砂は小さな粒なのでトレッキングシューズでは非常に歩きにくい。海をバックに写真を撮り終えると名鉄内海駅へ向う。一旦、自宅へ帰り、3日目は友人が同行して、ここからスタートした。内海小学校の横を通り内海川に架かる橋の手前で 「唐人お吉の生誕地」 の案内板を見つけた。お吉の本名は「斎藤きち」で船大工の市兵衛の娘として天保12年(1841年)に内海で生れ、4歳の時、父の仕事の関係で伊豆下田に移住する。14歳で芸者となり、その美貌(お吉19歳・安政6年の写真が現存している。私はこの写真を見たが絶世の美女と思う)で売れっ子になるが、開国直後の下田にアメリカ領事館ができるとハリス公使の世話係となる。お国のためとは言え側女の役目もありイヤイヤ仕えた。これがお吉の運命を大きく変え、その後、結婚、離婚、事業の失敗などを繰返し、酒に溺れて50歳で投身自殺する。ここで私の街道歩きの記憶がよみがえる。平成26年3月に三島から下田まで下田街道を歩いたが、その3日目、下田付近の蓮台寺にある稲生沢川の岸辺に 「お吉ヶ淵」 の小さなお堂が立っていた。ここが唐人お吉が身投げをした所であり、3年前の街道歩きと今回の常滑街道がつながった。お吉の生誕地のすぐ近くに泉蔵院があり、「一色城跡」 の案内板があったので矢印に従って寄り道した。しかし小高い山の上にある城跡へ行くには急な階段や滑り易く幅が狭い危険な坂を登らなければならず、高所恐怖症の私にとっては緊張した。途中で内心、登るんじゃなかったと後悔したが、とにかく草むらが生い茂る本丸へ着いた。この城は築城年代が南北朝時代と思われ三河・吉良家の一族である一色家が築いている。この一色城は伊勢湾を望む丘陵地帯にあり、南朝方の師崎の羽豆城や蜂屋城の抑えとして北朝方の城であった。現在は土塁や堀切がわずかに残るだけである。
【山海】 街道は海岸沿いに知多半島の先端に向って進む。やや風が強いが波は穏やかで晴天なので海の彼方に三重県の陸地が良く見える。高峰と言うバス停を過ぎると高級そうなホテル海風が聳えていて、その庭に真新しい石燈籠があったのでここで海をバックに街道写真を撮った。このあたりでかなり気温が上昇し汗ばんできたので上着を脱ぎリュックに仕舞う。しばらく歩いて乃野神社を参拝し、山海海水浴場を通って山海の中心部に入る。山海の信号交差点を左折すると県道470号で河和方面へ行く道であるが、常滑街道は直進する。天神社、宝珠寺を過ぎると昼時になり、お腹を空かして歩く。
【豊浜】 まもなく豊浜漁港が見えてくる。中洲漁港とも言われるが小さな港で漁船の数も少ない。そろそろ昼ごはんを食べたいと思って歩いていると右手に民宿料理屋 「東屋」 があり、ここへ入って1080円の豊浜定食を注文する。店の女将が私のリュックザックを見て 「どこか歩いてみえますか?」 と尋ねたので 「名古屋から師崎まで常滑街道を歩いています」 と応えると 「失礼ですが街道歩きって苦しいですか?楽しいですか?」 と聞かれた。「楽しいです」 「それは良いですね」 と言う会話があった。これも街道歩きの 「人との出逢い」 である。豊浜定食は料理6品に味噌汁、ご飯お替り自由。刺身、煮魚、焼き魚、酢の物など、どれも大変美味しく、お値打ちな定食に満足した。お腹を満たして再びゆっくりと歩き始める。豊浜は毎年7月に「豊浜鯛まつり」が行なわれる。布や木で造られた大きな張り子の鯛を威勢よくかついで海に入る壮大な祭りであるが、一度見てみたいものである。豊浜からは知多半島を横断して東海岸へ出る峠を越さなければならない。道幅は狭く枝道がたくさんあるので、地図でしっかり確認しながら歩かないと間違えてしまう。
【大井】 大井峠の頂上付近から海が見えるが風が強く帽子が吹き飛ばされそうになる。やがて街道は下り坂となり、途中、行基が開基した医王寺跡の入口を通り大井の集落に入る。街道沿いに性慶院という知多四国霊場の札所があり、参拝を兼ねてトイレ休憩をする。この寺に隣接して5軒くらい札所が集中しているので巡礼者は効率よく歩ける地域であろう。まもなく大井漁港に突き当るが、ここが名古屋の大高からスタートした知多半島東海岸ルートの師崎街道と合流する。私はちょうど1年前にこの街道を踏破している。大井漁港にはたくさんの漁船が停泊していた。ここから知多半島の東海岸沿いに国道247号に隣接する旧道を歩く。
【師崎】 師崎中学校、チッタナポリを見ながら片名漁港を通過する。その先から街道は国道から離れ通行が少ない旧道に入る。小さな峠を越すと師崎小学校、延命寺を通って師崎港が近づいてくる。フェリーターミナルのビルを左手に見ながら直進すると羽豆神社の鳥居に突き当る。ここから山道を登り始めるが、森の中の曲がりくねった狭い道は 「恋のロマンスロード」 と名付けられている。またカップルに出逢うかなと思って歩いていると、期待どおり1組のカップルとすれ違う。 「こんにちは~」 と声を掛けると男性は無言であったが、女性は恥ずかしそうに小さな声で 「こんにちは」 と返事をしてくれた。まもなく山の一番高い所に羽豆城跡の石碑を見つける。中世の頃、伊勢湾の海上交通の要所であった師崎周辺に3つの城があり、その1つである羽豆城は熱田神宮の大宮司や佐治家などが城主であったという。そこからすぐの所に羽豆神社があり参拝する。神社の境内にコンクリート製の展望台があり登ってみると伊勢湾が一望のもとに眺められる。好天であったため日間賀島、篠島、佐久島、渥美半島、伊勢鳥羽方面がクッキリと見えた。また羽豆神社の境内には名古屋城の石垣に用いるために加藤清正が篠島から石を切り出したが、その航海安全を祈って清正が奉納した石が置かれていた。参拝後、急な階段を降りて羽豆岬へ向う。岩がゴツゴツと散らばり岩の上には小さな灯台が置かれている。絶景であるが写真撮影には苦労した。これで常滑街道をゴールし師崎港フェリーターミナルからバスに乗り帰途についた。
 

日本の街道歩き〔44〕瀬戸街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 7月25日(火)20時10分45秒 pool-214-40.aitai.ne.jp
返信・引用
   【街道の概要】 瀬戸街道は江戸時代中期にできた街道であり、瀬戸村で生産された陶磁器を名古屋へ運ぶ産業道路の役目を持っていた。名古屋からは炭や松の木などの燃料を瀬戸に運ぶなど、盛んに人や荷物が行きかう地方の幹線道路であった。現在の瀬戸街道は県道15号、59号、61号などがルートとなっているが、昔はこの県道に隣接する細い曲がりくねった街道で、史跡こそあまり残っていないが道の曲がり具合だけが往時の街道を偲ばせる。瀬戸街道は私の住む多治見から近く、元旦の街道初歩きとして単独踏破した。
【大曽根】 平成29年元旦の朝は気温が2~3度で大地は白い霜に覆われていた。JR大曽根駅をスタートする頃には陽が昇り少し寒さが和らいでいた。大曽根は中山道の脇街道である下街道(恵那の槙ヶ根から名古屋城付近の札の辻まで)との合流点であり、現在もJR、名鉄、地下鉄が集まる交通上の要地である。街道は大曽根駅から北東方面に進むが、名鉄矢田駅までの町並みはまったく昔の面影はない。しかし、緩やかに曲がりくねった細い道だけが、わずかに旧道であると感じられる。ちなみに地図を眺めると、瀬戸街道のルートだけが周辺の方形道路とは明らかに異なっており、今回の事前調べで初めて知る事ができた。矢田駅を通過し、右手に大幸公園を見ながら矢田川に架かる矢田川橋を渡る。私がサラリーマンであった若い頃、マイカー通勤で毎日、通った道であるので勝手知ったる道である。
【小幡】 矢田川を渡ると東区から守山区に入る。空気は冷たいが空は雲ひとつない快晴で街道は東へと進む。まもなく右手に名鉄守山自衛隊前駅があるが、反対の左側には陸上自衛隊の基地がある。正門には陸上自衛隊第十師団司令部の表札が掲げてある。正門の右側に大きな楠の木が立っていて、その前に 「 防人の楠 」(さきもり)の説明文がありこれを読む。楠の由来は、明治30年(1897年)にこの地に陸軍歩兵第33連隊が創設され、その後、騎兵第3連隊、野砲兵第3連隊と変遷し、昭和34年に陸上自衛隊第10師団司令部となり、この楠は栄枯盛衰の歴史の中、風雪に耐えてきたと記してある。その説明文をデジカメで撮ると迷彩軍服を着た正門の衛兵2名のうち1名が私をジッと見つめ、そのまなざしは 「不審者ではないか?」 と言わんばかりであったので師団司令部敷地内の大砲や軍用車を撮影するのを取止め速やかに立ち去った。以前、日光街道を歩いている時も、陸上自衛隊宇都宮駐屯地の正門前でカメラを向けると、衛兵に睨まれた事があったのを思い出した。
 名鉄の瓢箪山駅付近で寒さが和らいだのでネックウォーマーを取り外した。しばらく県道15号を歩くと小幡駅の手前に道標があり、それに従って白山神社へ立寄った。下町の小さな神社かと思っていたが、境内に入ると初詣の参拝客であふれ、お正月らしい光景に出合った。ここでいつもの街道写真を撮ろうとしたが、参拝者が頻繁に行きかうので、三脚に取り付けたカメラのセルフタイマーのシャッターチャンスがなく苦労した。白山神社の由来は説明文によると、今から1400年ほど前に欽明天皇の皇子 「 小懇田王 」(おはるだおう)が創建されたとある。石川県の白山神社のわかれで、縁結びと安産、諸産業開拓豊穣などのご利益があるとのこと。道理で女性の参拝者が多かった。
 小幡1丁目付近でさらに気温が上がり汗ばむ程となったので上着を脱ぎ、ベスト姿になり歩き続けた。喜多山を過ぎるとすぐに東名阪高速道路の上に架かる橋を渡り大森に入る。すると左手の丘の上に金城学院大学の十字架尖塔が誇らしげに聳えていた。この頃になると、はっきり汗が出るようになり、ハンカチで拭いながら歩き続ける。やがて八剣の交差点付近で県道61号線沿いに「 瀬戸街道 」 の道標を見つける。これは現代的な金属製でおそらく平成になってから立てられたものと思う。そこからすぐ東名高速道路の高架ガードを潜るが、ここが名古屋市と尾張旭市との市境である。
【印場】 高架を潜ってすぐに右斜めの細い道に入る。矢田にあった旧道のように建物はすべて現代風であるが、緩やかに曲がりくねる細い道は昔の街道のままである。印場元町を歩いていると道路に長い行列ができていた。有名なグルメ店でもあるかと思いきや、由緒ある渋川神社へ初詣に参拝する行列であった。境内だけでは収まらず、なんと本殿から道へはみ出て、ゆうに100m以上の列をなしていた。ここでも街道写真を撮ろうとしたが境内では無理と判断し、道路へ出て少し離れた所からズームを使って撮影した。渋川神社の由来は、景行天皇の御代に創建され、白鳳5年、天武天皇即位の大典に七柱の神をこの地に合祀されたと記してある。戦国時代には織田信長が江戸時代には尾張藩主の徳川光友が神殿を再建している。ここの鎮守の森には檜、松、樫などの木々が生い繁り、真清水も湧き、瀬戸街道を往来する旅人がしばし休憩したところであった。しかし、昭和34年の伊勢湾台風で薙ぎ倒され、湧水も涸れ果ててしまったという。なお、印場は瀬戸街道の 「 馬稼ぎ 」(馬を使った運搬業)が盛んであり、大切な馬は玄関先で飼われていたという。このあと、街道は再び県道61号と合流し、名鉄旭前駅を通り、尾張旭市の中心部へ向った。
【尾張旭】 順調に街道を歩いていたが、昼時になってもレストランが見つからない。前年の元旦に挙母街道を歩いた時も同じであるが、今回はコンビニが多く、城前交差点の角でファミリーマートを見つけて弁当を買い近くの空き地で澄みきった青空を見上げながら食べたおにぎりがとても美味しかった。ここから少し街道を離れ寄り道をする事にした。名鉄瀬戸線の踏切を渡り、城山公園を目指すと右前方に勇壮なお城が見えてきた。このお城は模擬城であり、実はレストラン 「 城山レストハウス 」である。旭城という名称を聞けば、知らない人なら本物と思うほど精巧に出来ている。写真撮影ポイントとしては最高で、お正月のため車も人も少なく、スンナリ撮影できた。そこからしばらく田園地帯を歩いていると田圃の畦道をジョギングしている人を見かけた。元旦から体を鍛えているなと感心した。そう言う私も元旦から街道歩きをしているが、誰も褒めてくれる人はいないので自分で褒めるしかない。本来の街道に戻り東大道の少し先で左ななめの細い道に入る。昔の旧道で人も車も見かけずヒッソリしている。しばらくすると名鉄三郷駅の近くを通過し、愛知用水を越すと瀬戸市に入る。
【瀬戸】 瀬戸市に入り南山町付近で名鉄の線路の南側へ出なければならないが、踏切がないため平町公園の方へ迂回しなければならない。その平町公園の片隅に高さ2mほどの石碑があり 「 金峰大神社 」 と記してあるが、どういうものか分らなかった。しかし、その横に秋葉常夜灯が立っている。裏側の碑文を読むと天保14年と記してある。やっと街道らしい史跡に触れ合う事ができた。そこから水野駅の南側を通り、細い道を進むと名鉄新瀬戸駅と愛知環状鉄道瀬戸市駅が重なる鉄道高架をくぐる。まもなく名鉄瀬戸市役所前駅の近くに 「 追分 」 という三叉路に出る。追分とは街道の合流点であるが、瀬戸街道と合流する街道名がわからない。左へ曲がるのが瀬戸街道で真っ直ぐ行くと陶磁器の産地である赤津へ通じている。私の推測では赤津街道ではないかと思う。瀬戸市役所前駅の東側の踏切を渡ると街道は登り坂となるが、陽が傾き始め気温が下がり出したので汗は出てこない。
【古瀬戸】 東安戸町の磁祖公園の中に池や野球場があり、丘の上に窯神神社があったので参拝のため立寄る。神社の由来は安永元年(1792年)に瀬戸村で生れた加藤民吉が磁器(陶器ではなく透き通るような器)の製法を九州の肥後で学び、これを瀬戸で広めた。その功績により民吉を磁祖として祀った神社である。民吉が信仰した秋葉大権現の遙拝所を建立するため、尾張藩の許可を得て文政7年に建てたのが始まりである。その後、「 やきもの 」 の神社として関係者に崇敬されている。毎年9月の第2土・日曜日に開催される 「 せともの祭り 」 は民吉を称える祭礼である。さて街道はここから北東の品野方面へ向うが、現在、採掘場となり街道は消滅しているので、その先は進めない。そこで由緒ある古瀬戸の深川神社をゴールとするため坂を下り始めるが道が輻輳していて道に迷ってしまった。困っていると小さな女の子を連れた3人家族が通り掛かったので、深川神社へ行く道を尋ねると、お父さんが親切に教えてくれた。お礼を述べると私の孫の小学校1年生の詩乃と同じくらいの女の子が 「 お宮さんは人がいっぱいでお参りができないから、おうちに帰るの!」と混雑ぶりを説明してくれた。ハキハキした話し方をする女の子であったので 「 教えてくれてありがとうね。バイバイ! 」と言ったら手を振ってくれた。微笑ましい出逢い!であった。急坂を下りアーケード商店街を通り抜けると深川神社の大鳥居に出た。先ほどの女の子が教えてくれたとおり延々と行列が続き最後尾は鳥居から国道248号まではみ出ている。これでは本殿まで1時間は掛かるだろうと思った。しかしここで写真を撮りたく行列を横に見ながら本殿の横まで行き、常夜灯の片隅から三脚を立てなんとか撮影できた。この深川神社は宝亀2年(771年)創建の由緒ある産土神社(うぶすな)であり、無病息災と子孫繁栄のご利益があるという。それにしても辛抱強く行列に並ぶとは信仰心が旺盛な瀬戸市民が多いと感心した。これを持って元旦の街道歩きのゴールとした。
 

クラインガルテン天のなかがわ便り 7月

 投稿者:石田宣安  投稿日:2017年 7月19日(水)23時42分36秒 sp49-98-143-112.msd.spmode.ne.jp
返信・引用
  7月も中旬、先日の雨で積雪も無くなり夏の山になった中央・南アルプスです
今年は春先から気温が上がらず野菜の生育が遅いように思えます

やっとサラダ用の葉もの野菜が食卓に上がり始め、トマト・ナスもボチボチ採れ始めました
今シーズンは雨も少なかったのですが先日の雨で野菜も草と共に元気に育っています

田舎暮らしの楽しみのひとつに地元の人達との交流があります
暖かくなり始めた4月頃から、いろいろなイベントが始まり、蕎麦の会も出店するでのその手伝いや、ボランティア・温泉巡り、お祭りや花火大会見物等忙しくそして楽しく過ごしています

また、たまには旧友が訪ねて来てBBQ何てことも

ここ「クラインガルテン天のなかがわ」にはゲストハウスもありますので是非遊びに来てはいかがですか?
 

日本の街道歩き〔43〕岩村街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 6月26日(月)22時09分5秒 pool-219-140.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 岩村街道は中山道の大井宿から分れて、江戸時代に東濃地方の政治、経済の中心地であった岩村の城下町までの街道である。岩村街道は岩村藩の殿様が参勤交代の時、中山道まで出る連絡街道として使用した道であり、また大井宿から生活物資を運んだり、岩村周辺で生産された農産物や織物などを大井方面へ運搬するのにも使われた。さらに名古屋と信州南部の飯田を結ぶ中馬街道に通じていたので、人や物資の往来でも賑わった街道である。街道筋は田園地帯や山合いを通っているが、一部、明知鉄道の線路と重なっているルートもある。短い街道ではあるが、大井と岩村の標高差がかなりあるため岩村方面に向う時は概ね登り坂であり、大井方面に向う時は下り坂となる。よって歩くスピードもかなり異なってくる。途中、小さな峠が少しあるが、半日もあれば踏破できるのでハイキングコースとしても最適である。
【岩村】 岩村は戦国時代、甲斐の武田信玄と尾張の織田信長が領地争いをした戦場舞台で、天下の名城である岩村城は日本百名城に選ばれている。また奈良県の高取城、岡山県の備中松山城と共に日本三大山城にも選ばれている。標高717mに本丸が建つのは日本最高峰の山城である。霧がよく発生するので別名、霧ヶ城とも呼ばれる。岩村の銘酒 「 女城主 」 は戦国時代、織田信長の叔母である「おつやの方」が元亀2年(1571年)、女城主となったことが名前の由来である。また岩村の城下町は重要伝統的建造物群保存地区に指定され、勝川家、土佐屋、木村邸、高札場などの古い町並みが残り、日本の郷愁を感じる。またグルメも豊富でカステラの 「松浦軒」 「かめや」、五平餅の 「みはら」 、地酒女城主の 「岩村醸造」、漬け物の 「水半」 「およねさん」 などが名店である。
 さて出発は平成28年11月24日午後、明知鉄道岩村駅を友人の井芹英雄氏と二人で歩き始めた。気温は5度でかなり寒かったが元気良くスタートした。途中、城下町の三叉路に古い道標があり 「 右みたけ道、左なこや道 」 と刻んであった。枡形を通り過ぎてまもなく勝川家がある角を左折し裏通りに入るが、これが岩村街道である。曲がりくねった坂道を登ると国道363号を横断する。その左側に大将軍公園を見ながら、さらに急坂を登ると 「 いぼ神様 」の石碑に着く。その石に触れると、イボが取れると言う。ここから細い道はなだらかな下り坂となり、土蔵や古い土塀を見ながら進むと国道363号に合流する。街道は暫らく国道と重なる。まもなく右手に富田の常夜灯と馬頭観音がひっそりと立っている。打杭バス停を過ぎると小さな丘の上に阿弥陀堂があり参拝する。ここから打杭峠の坂を登ると右手の高い所に 「 農村景観日本一展望台 」 があり、急階段を少し汗をかきながら登る。この称号は昭和63年に環境学の権威である京都教育大学の木村教授が宣言され、これをマスコミが報道したことから全国的に脚光を浴びることになった。展望台から岩村の富田地区の豊かな田園風景が一望のもとに眺められる。その隣の 「 乗馬クラブ・クレイン恵那 」 を通ると若者達がインストラクターの指導を受けながら乗馬の練習をしていた。そこから細い道を進むと、すぐに打杭峠の頂上に到達し、ここから中津川市の阿木に入る。
【阿木】 打杭峠を下り数分で左折して小さな集落に入る。暫らくすると左手に塞之神神社があり、道中安全祈願の参拝をするが、境内は枯れ木が多く、少し荒れた感じであった。再び国道に出て阿木交番の角を左折して橋場の集落へ入る。ゆるやかな坂を下ると阿木川に架かる阿木橋を渡る。この阿木川の下流には大きな阿木川ダムがあり、広いダム湖もある。阿木の中心部に入り、阿木保育園の手前を右折すると萬嶽寺があり参拝する。ここは夏になると 「 蓮の花 」 が咲き乱れる事で有名なお寺である。山門には大きな提灯がぶら下り、立派な庭園もある。参拝の後、岩村街道は県道407号と重なり、秋葉坂を登る途中、古い馬頭観音を見つける。さらに坂を登ると左手に阿木城跡へ向う小道が森の中へと続いている。まもなく阿木峠を越えて道は下り坂となる。
【飯沼】 坂を下る途中、右斜めに分れる道に入るが車も人もほとんど通行がなくなる。地図では 「 ホタルの里 」 があるはずであったが探しても見つけられなかった。飯沼の集落は家がまばらに建ち田畑が広がっているのどかな田舎風景である。道端には無人の野菜販売所があり、トマト1袋100円のほか、大根やネギなどが並んでいたが荷物になるので買わなかった。五反田を過ぎ集落の中心あたりへ来ると子安観音と神明神社が並んで建っている。神明神社の鳥居の横に大きなスギの木2本が寄り添うように立っている。これが「夫婦スギ」と呼ばれる有名なスギで樹齢数百年の太くて高い真っ直ぐな大木である。このスギに触れると夫婦仲が良くなると言うので、私もコッソリ2本の幹に手を触れた。その横に小ぶりの子安観音堂があり、私の孫で小学校1年生の 「 詩乃 」 の健やかな成長を祈ってお参りした。その後、街道に戻り、田園地帯の坂を下ると明知鉄道の飯沼駅に着く。あたりに何もなくポツリと駅だけが建っている。この駅は33パーミル(傾斜角度の単位)と言う日本一急勾配な線路を持つ駅である。もちろん無人駅であるがプラットホームに立って良く見ると、恵那方面はハッキリとレールが下がっているのが分る。飯沼駅を過ぎると岩村街道は県道407号を歩くことになるが、歩道が設置されておらず、カーブでは車の接近が分らないので恐い思いをする。やがて空模様が怪しくなり寒さが身に浸みてきたので速度を上げて歩く。
【東野】 岩村街道はダラダラと、どこまでも下り坂が続き右手に明知鉄道の線路が見え隠れする。このあたりの街道は一部不明なルートがあり、部分的には明知鉄道と重なる箇所もあるが、線路の上は歩けないので、ひたすら県道を歩く。左側は急峻な山が連なり谷の合間を歩く感じで、少し薄暗さもある。雲行きが変わりポツリポツリと小雨がぱらついたが、まもなく止み、傘は差さずに済んだ。しかし気温が下がり始め寒さを感じるようになる。しばらく歩き続けると、やっと山合いから抜け平地に出ると東野の集落に入る。浜井場というバス停の近くに 「 東野の石幢 」 が立っている。石幢(せきどう)とは仏堂に飾る経文を書いた石碑のことである。そのすぐ先に 「 東野の大灯籠 」 が立っている。建立は享保元年(1716年)と記してあるが地方の街道にしては大き過ぎる灯籠である。このあたりから恵那市の市街地が見下ろせるようになり、東野駅入口の信号を過ぎ大門を通って大井の宿場へと向う。
【大井】 国道19号の 「 宮の前 」 交差点あたりから左手に恵那大橋や阿木川公園が見える。国道を横断すると右手に荘厳な武並神社が見える。永禄7年(1564年)の建立であるが、社殿は東濃地方唯一の中世神社建築で立派である。この神社の近くに大きな枝垂れ桜があるが、時期が晩秋なので枯れ木でしかない。右手に恵那高校を見ながら 「 御所の前 」 交差点を過ぎ、細い道を進むと中山道と合流する。ここが岩村街道の終点である。この角に 「 中山道ひしや資料館 」 がある。大井宿の有力な商家で庄屋の古山家住宅を改修し、宿場の資料館として平成12年から公開されている。この日は、もう夕方で薄暗くなっており閉館していたので入館は出来なかった。そこから東へ50mほどの所に大井宿本陣があったが太平洋戦争直後に火災に合い、現在では立派な門だけが残っている。最後の街道写真を撮ったあと、恵那駅まで歩きJR中央線の電車に乗る頃は、日が暮れて晩秋の風情を感じた。多治見駅では同行者の井芹氏と居酒屋で無事の踏破に祝杯を挙げ疲れを癒した。
 

日本の街道歩き〔42〕谷汲街道

 投稿者:小林 潔  投稿日:2017年 6月22日(木)22時01分52秒 pool-219-140.aitai.ne.jp
返信・引用
  【街道の概要】 谷汲巡礼街道は中山道赤坂宿(大垣市)を起点として西国33番霊場谷汲山華厳寺に至る街道である。この街道は室町時代中頃には、ほぼ現在のようなルートに定まったと言われる。昔は京都方面からの巡礼者も江戸方面からの巡礼者も中山道から分岐する赤坂追分から北を目指して大勢の旅人が歩いた街道である。赤坂から揖斐川を渡るまでは郊外の平坦な道で、のどかな雰囲気が続くが川を越えてからは山合いに入り、中でも小野坂峠は険しい山道で鬱蒼とした森の中を進む。峠を越えれば再びのどかな風景となり、由緒ある谷汲山華厳寺の山門まで街道が続く。道中には道標、常夜灯、地蔵等が多く、古い道標は自然石を利用して造られているものが多い。今回は秋の恒例行事「谷汲もみじまつり」の開催日に合せて、近所に住む友人の井芹英雄氏と一緒に歩いた。
【赤坂】 出発は平成28年11月13日の秋晴れのウォーキング日和。中山道の赤坂宿は中世の頃から杭瀬川の舟運が発達し、物資が集積した交通の要所である。中山道を往来する旅人で栄え旅籠も多かった。JR美濃赤坂駅からスタート地点の追分までは現在も古い建物が多く残っており、往時を偲ぶ事ができる。谷汲街道の起点となる中山道の赤坂追分付近の道は微妙に曲りくねっており昔のままの街道筋である。またこの辺りは神社やお寺が多く、しかも立派な門構えばかりである。追分を出発すると、まもなく西濃鉄道貨物線の踏切を渡り河合石灰の工場に出るが、ここから先は私有地となるので右折して矢橋鋼材の横を通って迂回する。あたりは民家が散在し田園風景である。南市橋町界隈では右手に国道417号が並行しているが、所どころ、街道が部分的に消滅しているので、そのたびに迂回を余儀なくされる。この頃になると、陽が高くなり朝の寒さは和らぎ、早足で歩くと汗ばむほどになる。
【池田】 揖斐郡池田町に入ると道は昔のままで伸びており、道に迷う事がなくなる。片山という集落の中に立派な鳥居を構える八幡神社があるが、事前の調べでは鳥居前の常夜灯が濃尾地震の被害で上半分が欠けて無くなっているという情報を得ていた。しかし実際は新品のピカピカ石の常夜灯に変っていた。よく見ると平成27年建立と記してあったので出来たてホヤホヤの常夜灯であった。その先の八幡小学校の前に古い道標があり谷汲巡礼街道の説明板が立っていた。道標はかなり古く室町時代の製作であり、街道筋には巡礼者の為の施行宿や湯茶接待所が置かれていたと記してあった。ここを過ぎると直ぐに杭瀬川の小さな橋を渡り六乃井の集落に風変わりな 「 乳くれ地蔵 」 が立っていた。ここの説明文によると文政6年(1823年)5月、街道の八幡村で一人の老人がうずくまり苦しんでいた。その老人は道行く女性に「どうかあなたの乳を飲ませて下さい」と懇願するが、誰も気味悪がって近づこうとしない。それを見て八幡村の庄屋竹中家の嫁、おみねは哀れに思い老人の前で胸元を広げると老人は「お止め下さい」と言って身の上話を始めた。老人は伊予国氷見村(現在の愛媛県西条市)から谷汲山への巡礼にきたが、この地で倒れ、息絶え絶えに地蔵尊建立のために蓄えたお金を託せる人を探していたと言う。おみねは亡くなった老人の願いどおり、この地に地蔵尊を建立した。それ以来この地蔵を「乳くれ地蔵」と呼ぶようになり、乳の出ない母親が詣でると乳が出るようになった事から、現在でも参拝者が多いという。そこから暫らくして養老鉄道の踏切を渡ると左手の方向に池田町役場が見える。街道は北へ向い広々とした田園地帯に入る。しかし途中で道路工事のため全面通行止の標識が立ち歩行者も立入り禁止となっていた。迂回するには時間がかかるため強引に立入り禁止エリアに入ったが、日曜日のため重機は動いておらず何とか無理に押し通った。しばらくすると揖斐川の堤防が見えてきて杉野の集落に入る。しかし道が複雑でかなり迷いながら橋を目指した。
【揖斐】 揖斐川に架かる大きな三町大橋を渡ると池田町から揖斐川町に入る。この日は第29回揖斐川マラソン大会が開催され全国から9000人のランナーが揖斐川沿いのコースを走った。しかし谷汲街道のルートとは離れているのでレース風景は見られなかった。昔はここ三町大橋より少し下流の所に川渡し場があった。その近くに古い小さな常夜灯があり、ちょうど昼時となったので秋晴れの中、青い空を仰ぎ、川のせせらぎを聞きながらおにぎりを頬張った。食後、揖斐川の支流である桂川に沿って進むと、権現山の下を貫く松山トンネルが見えてくる。このあたりから山麓の道に変る。志津山の麓の円通寺や東光寺を過ぎ県道251号と合流する。ここから谷汲街道最大の難所である小野坂峠に差掛かる。県道は日光の 「 いろは坂 」 のような九十九折のヘアピンカーブが続くが、街道は自性院の脇から険しい山道に入る。おびただしい倒木やゴロゴロした石が散在し蜘蛛の巣も張っている。実に歩きづらい。事前に調べた時も道が所どころ消滅している箇所もあり藪漕ぎを強いられるという情報を得ていた。実際に歩くとどれが道なのか分らず疑心暗鬼で進むと県道の小野坂トンネルに出てしまった。ここから旧道への道があるはずだが見当たらず、やむなくトンネルをくぐる事にした。この道は西国自然道コースと重なっているが、まったく手入れがされておらず道標もないので初めて歩く者にとっては困難極まる道である。また鬱蒼とした森林で熊やイノシシが出没しそうな昼間でも暗い道である。
【谷汲】 何とか小野坂峠を越えると谷汲に入る。街道は県道251号沿いであるがしばらくすると、左手に荘厳な春日の日枝神社がある。その近くに渡船場跡の標識が立っているが周りを見ても川がない。昔は舟で渡るほどの川があったのか不思議に思った。現在は見渡す限り田園地帯である。その先に街道から外れて谷汲ゆり園があるが今回は素通りした。揖斐川特別支援学校、谷汲保育園を過ぎると県道から分れ、地蔵や古い石道標が並んでいる道に入る。重軽地蔵(おもがる)を過ぎと谷汲中学校の手前に柿の無人販売所があった。一袋に大きな柿が5個入って、たったの100円である。形が歪んでいたり小さなキズがあったりするが、これはお値打ち物と考え、2袋を買い蓋のない金属箱に200円を入れた。お金を入れた箱の中を勘定すると2~3千円はあったと思うが、現金が丸見えなので盗む人がいないか余分な心配をしてしまった。ちなみに購入した柿を帰宅してから食べたが甘くて美味しかった。
【華厳寺】 予定より早い時間に谷汲山門前に到着した。ちょうど「谷汲もみじまつり」の開催日とあって観光客で溢れていた。参道の途中に、まつり広場があり、たくさんの屋台が並び特設ステージから踊りや太鼓の賑やかな音楽が聞こえてくる。参道脇のモミジの中には真っ赤な紅葉も見られるが全体的にはまだ少し早いタイミングであった。参道の中ほどに大きくて荘厳な山門が立っているが、この山門が谷汲街道の終点である。そこから本堂へはさらに数百m歩かなければならないが、道端に 「 本堂へ七丁半 」 とか 「 本堂へ五丁 」 というような丁石が設置してあるので歩く目安になる。一丁とは109mであり、三十六丁で一里である。本堂前の階段を登ると線香の臭いやお経を唱える声が聞こえてくる。谷汲山華厳寺は延暦17年(798年)に創建され、12世紀中頃(平安時代後期)には西国33番霊場の1に挙げられている。ここでゆっくり 「 もみじまつり 」 を見物したかったが、バスが2時間に1本しかなく、時間がないので急いでバス停へ行き、樽見鉄道の谷汲口駅に向った。バスの運転手は中年の女性であったがハンドルさばきは鮮やかで安心して乗る事ができた。また同行者の井芹氏が運転中に話し掛けると丁寧に応えてくれたが、その会話の一部始終が運転手のマイクを通して車内に放送されていたのは面白かった。柿を2袋も買いリュックザックは疲れと相まってかなり重く感じられたが、無事に踏破できた達成感を味わいながら帰りの列車の中で自宅から持参していたお酒をチビリチビリ飲みながら疲れを癒した。
 

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